7-4

 夢を見る。

 わたしは子供で、屋上庭園にいる。

 誰かがわたしを呼ぶ。わたしの知らない名前で、わたしを呼ぶ。

 わたしは振り向く。

 柵の向こうに、女性が立っている。彼女は両手で柵を掴み、明らかに、わたしに向かって何かを叫んでいる。

 彼女の言葉をわたしは理解できない。

 だが、彼女がわたしの心を動かそうとしていることはわかる。

 わたしはそちらへ向かい掛ける。

 肩に、手が乗せられる。大人の手だ。

 見上げると、保育士がわたしに向かって首を振る。再び柵の方へ目を戻すと、女性が、他の大人たちに羽交い締めにされる姿がそこにはある。

 女性は尚も、わたしに向かって叫び続ける。

 彼女の眼は真っ直ぐに、こちらを向いている。

 わたしは彼女を知らない。

 だがその眼差しは、わたしのよく知っているものだ。


 目を開くと、部屋の中はまだ暗い。

 黄色い月明かりが射し込んでいるが、雲の流れが速いのか、時折闇が全てを覆う。

〈鼓動〉が聞こえる。以前、壁を叩く音を聞いた時とは違い、ここが現実の延長上にあると確信が持てる。隣では少年が、小さな肩を上下させ寝息を立てている。

 ふと、バルコニーの手摺りに鴉が留まっているのが見える。わたしは外へ出る。

 湿り気を帯びた風が、顔に吹き付ける。

「今から行こう」鴉が言う。珍しく、切迫した声で。「嵐が近付いている」

 たしかに轟々と、遠くの空が鳴っている。嵐の前兆だ。

「だったら尚更、待っていた方がいいんじゃない?」

「理由は二つ。一つ、風は君の目指す場所へ向かって吹いている。二つ、彼らが夜明けにも気球を使って飛び立とうとしている」

 管理委員会、という言葉が頭を通り過ぎる。

「彼らは、この塔が次の嵐に耐えられないと計算して導き出した」

「それで自分たちだけ逃げようと?」

「残念ながら」鴉は頷く。それから続ける。「気球がなくなったら元も子もない。急ごう」

「急いで行って、どうするの?」

「やれやれ」鴉が首を振る。「僕が大切に思う君は、それほど察しの悪い女の子ではないんだけどな」


 少年を起こし、身支度を調える。

 準備は日頃から、徐々に進めていた。だが、これほど急な出発は想定していなかった。防寒を踏まえた最低限の衣類と、数日分の保存食。潜霧より心許ない装備は明らかに不完全だが、今はこれで出発するしかない。

 少年は全てを了解したように大人しく従う。わたしは彼を伴い、部屋を出る。

 屋上への最短経路はゴンドラだが、こんな夜中に動いてはいない。そもそも正規のルートを使うこと自体があり得ない。わたしたちは階段を使う。

 上へ、上へ、上へ。

 とにかく上へ。

 階段を上がっていると、妙な気分に襲われる。前にも同じことをしていたような感覚だ。

 階段を上ることは初めてではないのだから当然のことだが、問題はそこではない。

 踊り場の窓に鴉が留まる。

「皮肉なものだね。あの時とはまるで真逆だ」

 わたしには彼の言葉の意味が理解できない。少年の手を引いたまま鴉の前を通り過ぎる。

 次の踊り場の窓にも、鴉は現れる。

「あの時は僕もいささか意地が悪かった。それは認めるよ。けれど、仕方なくもあったんだ。君のためを思ってこそ、あんなことを言ったんだよ」

 意味がわからない。通り過ぎる。

 次の踊り場の窓にも、鴉は現れる。

「もし君があの時のことを思い出したら、きっと僕は嫌われてしまうだろうね。いいさ、それでも。僕が君を大切に思う気持ちは、決して変わらないからね。たとえ君にどう思われようと」

 わたしは足を止めぬまま、窓枠に立つ鴉を横目で見る。言う。

「わたしはずっとあなたが嫌いだった」

 鴉は黙っている。

「あなたは弱くて狡い――わたしみたいに」背中に纏わり付く何かを振り切るように、階段を上がる。

「光栄だね」次の踊り場に現れた鴉が言う。「今まで君から言われたどんな言葉よりも嬉しいよ」

 彼は嘴を上へ向ける。

「さ、屋上へ急ごう」

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