第13話 手紙
父の一七回忌が終わったその日の夜、涼が部屋に紙袋を持ってやってきた。
「母さん、ちょっといい? 俺、母さんに謝らないといけない事があるんだ。今更、謝ったところで時間は巻き戻せない事はわかっているけど、どうしても捨てられずに隠してた」そう言ってずしりと重い紙袋を里子に手渡した。
中を確認するとそれは手紙だった。フランスからのエアーメールだ。春翔からのものだった。何通あるのかわからないくらいの量が詰まっていた。
「この人、ワインで有名な弘岡春翔さんだよね。お爺ちゃんが変になる前くらいから、母さんしょっちゅう出掛けてたやん。俺は家に寝に帰るくらいやったけど家の中がなんか前とは違うなと感じてたんだ。だけど、紗季の事で頭が一杯やったからさほど気にもしてなかった。母さんが実家に引っ越した後に初めてこの手紙が来て、母さん宛てとは確認もしないで開けてしまった。読んでしまったんだ。ごめん。母さんに男がいる事がその時は飲み込めなくてショックだったんだ。母さんは母さんで女ではないと思ってたから。でも子供ができて、俺もあの頃の母さんの年に近づいてわかった事があった。母さんは母さんである前に一人の人であり、女だって事。父さんと二十代で別れてからは、ずっと俺の母さんでいてくれたのに、俺はそれを当たり前と思って生きてきた。母さんの幸せなんてこれっぽっちも考えていなかった。ごめん」そう言って涼が頭を下げた。
里子は何を言葉に選んだらいいのかわからなかった。だけど、あの時、春翔に付いて行かない選択をしたのは紛れもなく里子自身だ。
「涼、謝る事はないのよ。母さんはあの時、弘岡さんではなく涼やお爺ちゃんとお婆ちゃんを選んだんだから。だから今は平穏無事な生活をさせてもらっているじゃない。もし、仮に弘岡さんに付いて行ってたら、とっくにこんな婆ちゃん捨てられて涼にも沙季さんにも龍太にも呆れられて相手にもしてもらえなかったと思うよ。涼の家族の幸せが母さんの幸せだから、それでよかったの」と言葉を返した。
「紗季さんが呼んでるよ。行きなさい」と言って部屋を出した。
その日から、里子は春翔があの陽の光がはいらない寝ぐらから、どの様に龍のごとく世界へと登っていったのかを知る扉を一つづ丁寧に開けていった。三〇〇通はありそうな量だった。手紙の最後には必ずMon amour est ‘eternel(僕の愛は永遠)と書かれていた。春翔の思いは手紙から痛いほど伝わっていた。その度に里子は涙がとめどもなく溢れ出し、嗚咽した。
里子の誕生日月には決まってバースデイカードとフランスまでの航空チケットが入っていた。春翔は到着した飛行機から出てくる人混みの中に里子を探したのだろう。その度に落胆したのかもしれない。春翔ごめんね。全てを読み終えるのにどれくらい時間がかかったのだろう。梅雨の真っ只中だったが、いつの間にか雨が上がり夏の季節になっていた。
天王寺駅から出ている南紀勝浦にいく黒潮号に、里子はお弁当とお茶を買って乗り込んだ。トンネルの多い路線だが、少しでも沢山海を見たいので、進行方向に向かって右側の窓際の指定席をとった。墓参りは今年で最後になるだろう。私も来年の今頃はお墓の中にいる。先生には今のうちに行きたい所に行き、したい事をしておきなさいと言われた。寿命は神のみぞ知る、医者にもわからない。もって一年と宣告された。年齢がいってるので若い人より進行は遅いらしい。腰痛だと思っていたら膵臓を癌に侵されていたのだ。体重も知らない間に五キロも減少していた。手術は出来ないと言われていた。だから、最期を迎えるための緩和ケアをしてくれる施設を予約しておいた。取り乱して泣き叫ぶのかと思っていたが至極冷静だった。ただ、死ぬ前に遠くからでもいいので、春翔の顔を見たかった。それだけが心残りだ。列車の揺れが眠気を誘いうたた寝をしていた。
春翔が手を振っている。笑っているのか、泣いているのかわからない。里子は春翔に近付こうとするが足が動かない。春翔はどんどん遠くに行ってしまい見えなくなる。「春翔」と大声でさけんでいた。時間にして五分ほどだ。夢をみていたのだ。なぜか頬は濡れていた。時計を見るとちょうど十二時。買って来たお弁当を広げ、味わいながら食べた。余命宣告をされてからは、全ての事がとても貴重に思えるようになっていた。例えば、朝、目覚めることができた事や、深呼吸をし、肺の中に新鮮な空気を送り込む事ができた事、大嫌いな蚊に刺されて痒いと感じる事、そんな事が生きていると感じさせてくれていた。黒潮号は予定通り勝浦駅に到着した。いつもの花屋さんでお供えの仏花を買い、タクシーに乗りこみ、春翔のお母さんが眠るお墓へと向かった。今年で最後かと思うと感慨深い気持ちになる。墓の周りに生えた雑草を抜きながら
「私、来年そちらへ参ります。そちらの世界の事は何も知りませんので、どうぞよろしくお願いします」と声を出して言った。
何時ものようにロウソクと線香の火が消えるまで手を合わせ静かに参った。蝉の鳴き声が遠くから聞こえていた。
蝉は幼虫の間、土の中で過ごすのだが、地上に出てきて私たちが目にする成虫になるまで、三年から十七年の年月がかかるそうだ。そして伴侶を見つけ、子孫を残し、一週間ほどでこの世を去る。生まれる目的は子孫を残す事なのだ。虚しい気もするが蝉界ではそんな感情は存在しないはず。なんとあっさりとした人生なのか。ちょっと羨ましい気が里子にはした。かつてそこにあった春翔がお世話になった店は五年ほど前に更地になり、未だ買い手がついていないようだ。この村も高齢者ばかりで空き家も目立っている。いつの日か無くなってしまうのかもしれない。
里子は勝浦の温泉に浸かり春翔の事を考えていた。春翔は自分の目指す頂点を極めたのだろうか。そこから見える景色はどんな風に春翔には見えているの? 春翔は幸せを手に入れた?
私? 幸せだよ。春翔に出逢えた、それだけで私の人生は百点満点です。
夏が終わり、医者からは「癌が進行してくると痛みが増してくるので、今飲んでいる痛み止めでは効かなくなる」と説明があった。その時はモルヒネを使ったほうがいいと勧められたが、その薬を使うと大半は眠った状態になるそうで、里子は時間がもったいない気がして「大丈夫、我慢できる」と答えていた。実際に鎮痛剤を飲むと我慢できる程度の痛みだった。我慢できない痛みってお産のような感じだろうか。お産の痛みはその先に喜びが待っているので我慢できる。これから里子を待ち構えている痛みはその痛みから解放された時、永遠の死を意味している。恐怖があるのかもしれない。それでも、春翔の事は最後の瞬間まで忘れたくはなかった。
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