第12話 一人

 春翔が旅立って、十ヶ月後に父が亡くなった。熱が中々下がらないので大きな病院で診てもらったら、肺炎と言われた。すでに、里子の事も母の事も分からなくなっていた。姉の事は自分の妻だと思っていたようで「久恵、久恵」と姉に向かって呼んでいた。不思議な事に亡くなる二日前には母に向かって「久恵、すまないな」と言い、里子に向かって「仕事は大丈夫なんか? ありがとう」と言ってくれた。しばし、昔の話に花が咲いたが直ぐに眠ってしまった。「また、明日来るね」と目を閉じた父に言って病室を後にしたのが、生きている父をみた最期となった。

 

 お寺様はきっちり十時に自宅に来られ、お経をあげてくれた。父が好きだったお酒とその横に母が好きだったおはぎをお供えした。母は父が亡くなって二年後にあっさりと他界した。喧嘩の絶えない夫婦だったのに、父が死んでからは食欲も口数も減ってしまい、一気に弱ってしまった。お風呂場で倒れて救急車で運ばれたが、そのまま帰らぬ人になったのだ。姉は死に目に会う事が出来ず号泣していたが、里子は父の時と同様涙すら出なかった。姉は父が死んでからは法要の時にしか顔を出さなかった。だから、母の面倒は全て里子がみていた。そんなに悲しむなら生きてる時に、母に親孝行の一つでもしてあげれば良かったのにと里子は冷ややかな目で姉を見ていた。

 姉からは水羊羹が昨日お供えとして送られて来た。ラインでは明日よろしくお願いしますと連絡があった。始めから、来るつもりはないのだ。幼い頃から姉の事は苦手だったので、来てもらわない方が気持ち的には楽であり、里子にとっては都合が良かった。今のように携帯電話がない時代、家にかかってきた里子の友達からの電話を姉がとり「私の友達から電話がかかってくるから早く切ってや」と一言いうのだ。遊びに来ていた里子の友達に来て早々「早く帰ってや」と言われた事もある。何度もそんな事をされて、とうとう友達から電話がかかってくる事がなくなり、友達を家に呼ぶ事もなくなった。今だに幼なじみは「お姉ちゃん元気にしてるの?」と皮肉混じりに言うことがある。


 父と母が亡くなった。

 涼にも子供が生まれ、家族ができた。

 そして、里子は一人になってしまった。


 春翔がフランスにいって三年目の夏。仕事帰りに里子はソレイユへ寄った。あの頃と何も変わっていない。ウインドウに映る自分を見て、髪の毛を手ぐしで整えた。扉を開けると店の中にはまだ誰も客はおらず、マスターが出迎えてくれた。

「里子さんでしたよね」

 名前を覚えてくれている。それだけなのに、今の里子にはジーンとなる。ここには、春翔がいて里子がいたという事実を、証明してくれているような気持ちになったからだ。 

「何を飲みます?」

「一九八四年ものの赤はありますか?」と里子がたずねるとマスターの手が一瞬止まった気がした。奥のワインの貯蔵棚から、あの時と同じワインが出てきた。マスターはコルクを抜かず里子の座るカウンターの前にそのボトルをおいた。ボトルには

 Je net’oublierai jamaris

 jusqu’a ma mort Haruto

 と書かれていた。意味は僕はあなたを死ぬまで忘れないだった。マスターがこのボトルは春翔が置いていったもので『一九八四年ものの赤を頼む女性が来たらあげて下さい』と頼まれていたと事を告げた。

「春翔、あの年からすごく変わったなと思っていたんですよ。どこか影がある子だったけど、生きているんだという何か力強いものを感じるようになった。里子さんが変えたんですね」と強く言われ、違いますともそうですとも言えなかった。

「春翔君、頑張ってるんでしょうか?」と里子がたずねると雑誌の切り抜きを見せてくれた。そこにはトロフィーを右手にたかく持って、左手でガッツポーズをし、満面の笑顔の春翔が写っていた。

「春翔は今やっと滑走路を離陸して大空に飛び出したんですよ」とオーナーが嬉しそうに言った。

 里子の知らない春翔がそこにいるのだと思うと、とてつもない寂しさが襲ってきたが敢えて笑顔を作り

「マスター。何かシャンパンを入れて乾杯しましょう」と春翔の前途を願いグラスを鳴らした。

 里子はその帰り道、ブロックしていた春翔のアドレスを消去した。


 里子は三十二年務めた自動車整備の会社を定年退職した。それと同時に実家と涼夫婦が住んでいた里子の家を売った。そのお金を頭金にして、涼が三十五年の住宅ローンを組み、二世帯住宅を建てた。里子と涼夫婦、孫の四人の生活が新たに始まったのだ。「お母さん思いの息子さんやね」と近所の人々に言われたが、結局私は、籠の中の鳥で大空を羽ばたく事はできなかったんだと自分で選択しておきながら虚しかった。 

 かつて、里子に美容室を紹介してくれた安達さくらはあれから色々なコンパに積極的に参加し結婚相手をさがしていたが、小学校からの幼馴染と結婚した。相手はずっとさくらに求婚していたのだが、家業のお惣菜屋を継いで、うだつの上がらないのが気にいらず相手にしていなかった。ところが、合コン相手からことごとく振られまくり、お酒を飲んでバス停のベンチで酔いつぶれている所に幼馴染が通りがかり介抱した。

「さくら。俺にしとけ」とあっさりお持ち帰りとなった。そして、一回目にして子供を授かってしまったのだ。そして急に母性が目覚めたさくらは結婚を決めた。とても遠まりしてしまったように思うが、「十年前にこうなっていたら、今頃シングルマザーになっていた」とさくらは言った。どんな事でも、それが起こるタイミングによって結果は変わるのだ。それぞれに生きて来た道が違うのだから、考え方も違って当たり前なのだ。もし、春翔と今出逢っていたとしたら、こんなにも春翔の事を大切に、そして好きになってはいなかったかもしれない。あの時に出逢ったからこそ、今も春翔の事を思い続けているのだ。さくらの結婚式は平安神宮で厳かに挙げられた。白無垢に身を包んださくらの目からは幸せの涙が流れ、里子もつられて泣いた。それから半年後、さくらはパパ似の三五〇〇グラムのビッグな男の子のママになった。これから、この子はどんな人生を歩んいくのだろうか。生を得た瞬間から、死への道のりを誰であろうとも進む運命だからこそ、本当は一分一秒無駄にはせずに納得のいく道を選んで進むべきなのだ。

母がこの世を去ってから里子は父と母が眠るお墓に毎月お参りをするようになった。眠るというのは宗教的におかしな言い方だと葬式をしてくれた浄土真宗のご住職様が言っていた。お浄土と言うらしいが信仰心のない里子にはどうでもよかった。ただ、両親は仏壇ではなくお墓にいてる、そんな気がするので会いにきている感覚だ。そして、母が死んだその年の夏からお盆休みを利用し、一泊二日の一人旅もするようになった。行き先は決まっている。和歌山県の勝浦だ。そう春翔の育った場所であり、春翔のお母さんが眠る場所だ。春翔のお母さんのお墓に参るのが目的ではあったが、春翔の成功を願う願掛けのようなものでもあった。里子は春翔の事を思いながら墓のまわりに生えた雑草を抜き、この草を全部抜いたら、春翔の願いが一つ成就すると信じて無心に作業をした。墓に付いた苔を綺麗に落とし新しいタオルで心を込めて拭く。最後にお花をお供えし、線香とロウソクの火が消えるまで手を合わす。その後、春翔の幸せを里子と同じように望む老父婦が切り盛りするお店に行き食事をする。毎年の恒例行事になりかけた五年目の夏、そのお店は無くなっていた。前を歩くおばあちゃんに尋ねると「ご主人が亡くなって、東京に住む息子家族が女将さんを年だからと呼び寄せた」と教えてくれた。女将さんはこの地を離れて、それでよかったのだろうか? どんな歴史があったかは知らないが、この場所には人生の大半をご主人と共に生きた大切な思い出が詰まっているはずだ。人は一人で生まれ死んでいくというが、実は一人で生まれる事も死ぬ事もできないのではないのかと里子は思った。生も死も誰かの手を借りねばならないのかもしれない。

 仕事を辞めたら、涼と嫁の紗季さんの同居という申し入れを受けよう。元気なうちに要らない物は全て捨てよう。そして、どんな形にせよ、いずれは涼達の手を煩わす事になるのだから、動けるうちは共働きをする涼夫婦の手助けをし、家事をしようと決めた。里子は又、自ら頑丈な籠を作り、そして自らその中に収まる事を決めたのだ。


 定年まであと二年の夏の事だった。

 

 退職まで三ヶ月となった。あっという間に過ぎた日々だった。里子の実家はあらゆる物が処分され、引っ越しにもっていくのはキャリーバック二つと一九八四年もののワイン。それと、どんな時も一緒に過ごしてきた春翔から貰った最初で最後のイニシャル刻印されたペンダントだ。一人息子、涼が三十五年ローンを組んだ新しい家はもうすぐ完成する。ふと頭によぎったのは、あの陽の光が入らない春翔の部屋。そこで寝ている春翔の姿。里子の人生の中で一番幸せを感じていた時であり、場所だった。

 春翔はフランスでどんな生活をしているのだろうか? 

 春翔に美味しい食事を作ってくれる人がいるのだろうか? 

 一緒に泣いて笑ってくれる人がいるのだろうか? 

 春翔の幸せを望みながらも横にいてるのが里子ではない事が寂しかった。枕に顔を押し当て、大声で春翔の名前を叫びながら里子は泣いた。

 退職の日、意外な事に社長が泣いていた。この社長には本当に助けられた。里子が今まで生活してこられたのと、涼を大人にしてくれたのはこの会社があったからであり、何よりも社長がいてくれたからだ。里子はありがとうございましたとお礼の言葉が最後まで言えず声を詰まらせ泣いてしまった。喫茶店で働いている里子に声を掛けてくれなければ、ここに里子はおらず、あの日。ソレイユに立ち寄る事もなかった。つまりは春翔と出会う事はなかったのだ。これまで起こった事の全ては何かの糸で繋がっていたのかもしれない。

 里子は感謝の気持ちを込め深々と一礼し、会社を後にした。

 そして、春翔と出会ったソレイユに立ち寄った。

「いらっしゃいませ」と見たことのない若い男の子が里子に言った。

 奥からマスターが出てきて 

「里子さん、いらっしゃいませ。初めてでしたよね。今月の始めから手伝ってもらってるんですよ」

「早瀬龍といいます。どうぞ、よろしくお願いします」とその子は言った。

 春翔とは違い、よくしゃべる子で何度も笑わせてくれた。

「里子さんは弘岡春翔さんのお知り合いなんですよね。あの方は凄いですよね。ここに弘岡さんが勤めていたとマスターから聞いた時は、もう心臓が飛び出るじゃないかと思うぐらい衝撃をうけました。連絡とられているんですか?」

「知り合いというほどでもないのよ。フランスに行ってからは全く連絡は取ってないのよ。それに、携帯の番号もかえてるしね」

「そうなんだ。残念」

「弘岡君は活躍してるの?」

「活躍なんてもんじゃないですよ。ワイン界で、広岡春翔を知らない人はいないんじゃないですか。皆んなが目標にして憧れている人ですよ。すでに弘岡さんはお父さんを超えてますよ」と言い雑誌のインタビュー記事を里子に見せてきた。

 早瀬龍はその記事の解説と自分の感想を話し出したが、里子にはそこに映る春翔の写真にしか目がいかず、適当に相槌をうっていた。細身のパンツにジャケットを着こなし、髪はトレード・マークになっていた外ハネではなくなっていた。そこには自信に満ち、落ち着いた大人になった、里子の知らない春翔がいた。

「ここ、見てください」と早瀬龍が指さした所を見ると左手の手首を拡大している写真が載っていた。

「弘岡さん、これだけイケメンで注目されているのに浮いた話が出てこないんですよ。パパラッチもシャッターチャンスを狙って付きまとってるらしいです。でね、いつも同じ腕時計をしてるので、インタビュアーがその腕時計について質問をするのに、腕時計に手を触れようとすると『触らないでください』って強い口調で言ったらしいです。それで、これは大切な人からのプレゼントなんですか? と質問をしたら、弘岡さん、何て答えたと思います?『僕はこれまでもこれからも、この人以上に大切に思える人と出会えるとはとても思えない』って答えたらしいですよ。贈り主は誰? って、今ちょっと話題になってますよ」

 その腕時計は里子が春翔にプレゼントした物だった。春翔、あれから十年だよ。私、今年の誕生日で六十五才になるおばあちゃんだよ。六十才を過ぎてからの老化は五十代の時とは比べものにはならないくらい急ピッチで襲って来る。逃げ切るのはもはや不可能に近い。春翔を幻滅させてしまいそうな自分が嫌で、決して春翔の前に姿を表す事はないと改めて自分自信に誓った。 

 春翔、こんな私を忘れずにいてくれてありがとうと心の中で言った。

 早瀬龍は

「え、何か言われました?」と言ったので久々に里子は声に出してしまったようだ。

「弘岡君って凄い人なんだなあって言ったのよ」とごまかした。

 早瀬龍がチョイスしたスペインのカバ(スパークリングワイン)とフランスのブルゴーニュで作られたドメーヌ・ダヴィット・デュバンのロゼをいただき店を出た。

 その後、京橋のディープ界隈を通り抜け、国道を渡り、春翔が住んでいたマンションに十年ぶりに訪れた。そして、春翔の部屋があった五階まで一歩一歩確かめながら階段を上った。部屋の前まで来ると扉に付いている覗き穴から明かりが漏れ、話し声が聴こえていた。知らない誰かが、ここで生活をしているのだ。「さようなら」と部屋に向かって小さな声で言い、里子は涼の建てた新しい家に帰った。

 

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