第11話 別れ

「お袋。今週の土曜日お寺さんが十時に来るから」と涼が言って来た。

 そう、明後日は父親の一七回忌だ。毎日、仏壇に手を合わせているのだから忘れていたわけではないが、父が認知症になってからの日々は、父への感謝の気持ちよりも、自分の思いを何処へもぶつけられない苦悩の思いのほうが勝っていた。父が医師から臨終を告げられた時には、涙すら出ない酷い娘だった。

 時々、父の様子を伺いに来ていた姉は「お父さん、ちゃんとお風呂にいれてる? ちょっと臭うよ。ご飯だって食べさせて無いんじゃない? さっきお土産に買ってきた穴子の押し寿し全部綺麗に平らげてたよ」と言って来た。里子に日々の生活を全て押し付けているくせにだ。言い返す気力はもはやなかった。

 父が認知症と告げられた時から里子の生活は一変した。生活の中心が実家に移ったのだ。涼に父の事を相談しようと声を掛けた時、逆に涼の方から相談を持ちかけられた。

「母さん、今度紹介したい人がいるんだ。俺、その人と結婚する。来年の春には赤ちゃんが生まれる」晴天の霹靂だ。一瞬にして里子の頭の中はキャパを超えてしまった。

「相手のご両親はなんて言ってるの」となんとか親らしい事を言ってみたが、父のこれからの事の方が里子には重くのしかかっていた。

 相手の女の子は北海道、登別の出身で赤ちゃんができた事を伝えると両親共に大喜びだったらしい。九月に観光がてら大阪に行くので涼とお母さんに会いたいと言ってるそうだ。どこか他人事のように里子には聞こえていた。「それで住むところの事なんだけど、紗季にお袋の事を話したら同居してもいいって言ってくれてるから、ここに住む事にした。いいやろ?」と言われ、ただ呆然と涼の顔を見つめることしか出来ず、返す言葉はなかった。

 里子の意思とは関係なく色んな事が変わり出している。

 旅行から帰って来て二週間後の日曜日、里子は春翔の家へ行き夕飯を一緒に食べた。そして、父の事と涼の事を包み隠さず話した。

「春翔、私はやっぱりだれかの私であって自由に空を飛ぶ事はできない、籠の中の小鳥です。フランスには一緒に行けない。ごめんなさい」と言いながら泣き崩れた。

 春翔は里子の涙をぬぐいながら抱きしめてくれた。心地良い春翔の温もりと匂い、時がこのまま止まってくれる事を体中から祈ったが叶わなかった。それどころか、春翔がフランスに旅立つまでの期間、出来るだけ一緒の時間を過ごしたいという思いがあったのに父の事に追われる日々となってしまった。

 里子は実家に引越し、そこから会社へ通った。朝は四時半に起きて父の世話をした。初めの頃は排泄やお風呂は一人でできていたのだが、あっと言う間に訳のわからない行動をするようになった。特に排泄の方は、ところ構わずするようになったため、一日中オムツをつけている。そして、オムツを交換するたびに拭いてやらなければならない。赤ちゃんの排泄物とは全く違い鼻がひん曲がりそうになるくらいの臭いを放つ。父の着替えをして、朝食の準備に取り掛かる。それから母が父に朝食を食べさせている間に布団のシーツを交換して窓を開け、外の新鮮な空気を入れる。父の臭いはえずきそうになる。母にはこの臭いがわからないようだ。里子は自分もいつかはこの老人臭を知らぬ間に放つ時がくるのではと思うとゾッとした。汚いとか臭いとか身内しか、当の本人には言いずらい事だ。友達や大好きな人が異臭を放っていても我慢するしかない。もし、仮に春翔と生活をしていたら、耐え難い臭いに春翔は苦悩していたのかもしれない。それどころか呆けた里子を抱え路頭に迷っていたかもしれない。

 部屋の掃除をしたら、父が通うデイサービスの準備をして玄関に荷物を置く。お風呂はデイサービスで入れてくれるので里子と母の負担は半減した。あれだけお風呂が好きだった父が「入らん」と言い、毎回一時間以上も押し問答をしていた。やっと入ったかと思うと風呂の栓を抜いたり、体を洗っていると水を頭から浴びせられたりもした。介護を家でするというのは相当な覚悟がいる。ましてや仕事をしながらというのは、はっきり言って無理。母がある程度のことはできるので、里子は仕事を辞めず済んでいるが、これも時間の問題だ。

 仕事をしていては介護は出来ず、仕事を辞めたら生活は出来ない。なんて矛盾した世の中なのか。みんな働き蜂のように必死で働いて生きているのに、何かに少し躓いただけで、次は蟻地獄に飲まれてしまう。それでも這い上がろうと必死に足を踏ん張る。気がついたら、誰にも必要とされない。それどころかお荷物になっているかもしれないのだ。里子は実家に移り住んでから、片道一時間かかる仕事場までの電車の中で、そんな事を時折考えていた。里子を支えていたのは春翔への思いだけだった。あれだけ溺愛していた涼だったが、大事にしてくれるお嫁さんが出来た途端、張りつめていた糸がプツンと切れてしまったかのように、心配しなくなった。里子の家には涼と紗季さんがすでに住んでいる。

 土曜日は朝から掃除、洗濯、それが済んだら買出しに行き、昼からは作り置きの料理に取り掛かる。同時に春翔の分もタッパーに詰めていく。里子が春翔のためにしてあげられる事は、今はこれくらいしかなかった。春翔の事を思っているよという意思表示であり、何より消えそうな里子の存在を、里子自身がそこに価値を見出したかったのだ。


春翔が旅立つまで後一ヶ月


 日曜日の朝も早起きをして父の事をし、後は母に任せて、作り置きの出来る食材を持って春翔の部屋へ行くのが今のルーティンだった。部屋に入ると春翔はいつもベットの中だ。春翔の匂いが部屋中に充満している。里子はその匂いに包まれるとなぜかホッとする。心地いいのだ。

「里子、おはよう。おいで」と布団を広げて里子を引き寄せた。 

 春翔の優しいキスは里子の張り詰めていた体を解し幸せを運んで来る。二人は会えなかった時間を埋めるように確かめ合い、求め合った。里子は春翔の胸の上で光る月の形のペンダントを指でなぞった。日曜はあと二回で終わる。その次の日には春翔は遠い海の向こうへ飛び立つ。泣かずに見送ると里子は決めていたので、二人の楽しい思い出を一杯作り笑って過ごしたい。

「春翔。どっか出掛けない?」

「いいよ。何処行く?」

「海遊館はどう?」

「行こう!」

 春翔は子供のようにはしゃぎだした。

 里子も海遊館は涼が小学校三年の夏に連れて行ったきりだ。海遊館は春翔の家からは電車で一時間以内で行ける。その間、二人は片時も離れずしっかりと手を繋いでいた。少し前までは、他人からどう見られているのかが気になっていた里子だったが、今は何も気にならなくなっていた。だけど、春翔とこうやって過ごすのも後半月なのだ。その事を考えると涙があふれて来る。前髪を直すフリをしてこぼれ落ちそうな涙を拭った。春翔は恐らく気がついていたと思う。なぜなら、繋いでいる里子の左手をその時、強く握ったからだ。

 日曜日ということもあり子供連れの家族が多かった。幸いにも待たずに中に入ることができた。

 里子は春翔の写真を出来るだけ撮った。春翔も同じように里子の写真を撮った。その後ろで優雅に大きなマンタが翼を広げて飛んでいるように泳いでいた。でもここは水槽の中。同じ所を行ったり来たりしているだけだ。いつのまにかジンベイザメもカメラ目線でちゃっかり写っていた。皇帝ペンギンのブースでは、これは置物なのかと思ってしまうぐらい動かないペンギンがいた。元々皇帝ペンギンの動きはスローらしいが、特に中央に立っているペンギンだけは頑として動く気配はなく、里子たちが滞在している間、置物に徹していた。ペンギンに意思があるかどうかは知らないが、きっとペンギン界では意思の硬いヒトなんだろう。水族館の中にあるショップで皇帝ペンギンのぬいぐるみを二つ買った。春翔との時間はなんて楽しいのだろう。まるでタイムスリップでもして乙女に戻ったような気分になる。

 春翔が高所恐怖症にもかかわらず観覧車に乗ろうと言ってきた。春翔も出来るだけ沢山の思い出を作ろうとしているのかもしれない。春翔は順番待ちをしている時から落ちつかない様子で、予想通り手に汗をかいていた。可愛い奴。

「春翔、この観覧車日本で三番目に高いんだって。一番上で止まったら怖いやろね」とからかってやった。すると、急に黙り込んで額からも汗をかき出した。ゴンドラに乗り込むと春翔の緊張感はマックスに達していた。ゴンドラはゆっくりと上昇を始め、春翔はもはや蝋人形のように固まっている。だけど、こうやって里子との思い出作りをしてくれていると思うと、春翔に感謝の気持ちで一杯になる。

「春翔。私、春翔に出会えて本当に良かった。春翔は私の大切な宝物。私の夢。絶対、成功してね」と里子は少し涙声で春翔に言って、青ざめている春翔の横に座り直した。春翔は握りしめた里子の手の甲にキスをして答えた。ゴンドラはまるで海の上にいるようで眼下には遊覧船が出港するのが見えた。海を渡る橋の向こうにはユニバーサルスタジオが見え、遠くの方に京セラドームが見えた。春翔の行くフランスもここから見えたらいいのにと到底叶わぬ事を一人思っていた。約十七分の空中の旅は終わった。


 春翔と過ごす最後の日曜日は父をショートステイに預け、ベッドだけになった部屋で二人で朝を迎えた。里子は春翔に何かプレゼントをしたいと思い、何時間も悩んだ末にブライトリングというブランドの腕時計を選んだ。理由は創業が一九八四年、春翔の生まれた年だったからだ。春翔は何度も腕で光る時計を眺めては喜んでくれた。陽の光の入らない、ただ寝るだけの部屋とは今日でお別れだ。約半年間この部屋に通っただけだったが、今は愛着が湧いている。初めて春翔の部屋を訪れた時の事、里子は死ぬまで忘れない。こんなに愛おしく思える人と出会えた事を身体中で感謝している。これから先、辛い事があっても春翔との思い出があれば、里子は乗り越えられる。そして、誰よりも春翔の幸せを願っているのは里子だという自信がある。春翔の横にいるのが里子でなくてもだ。春翔は里子の分身のような存在なのかもしれない。

 部屋の鍵を不動産屋の人が取りに来た。

 この扉を開ける事はもうない。

 里子の頰に涙が伝っていた。

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