第10話 父
「おばあちゃん、ご飯できたって」
孫の龍太が里子の部屋に夕飯の支度が出来たことを知らせにきた。
今年大学一年生になった孫は高校に入った途端、里子の身長を一気に追い越した。いつもは里子が涼の家族のご飯を作っているが、休みの日は一人息子、涼のお嫁さんが作ることになっている。本日のメニューはハンバーグだった。みんなが美味しそうに食べている姿を見て、里子は遠い昔を懐かしく思い出していた。春翔はなにかというとハンバーグが食べたいと言ったので、よく作って二人で食べた。初めて春翔に作ってあげた手料理もハンバーグだ。陽の光の入らない寝ぐらのような狭い部屋だった。食事を取るためのテーブルもなかった。あるのはベットとテレビのみ。その部屋で本当に美味しそうにハンバーグを食べていた。遠い昔のことなのに鮮明に覚えている。
「お義母さん、具合でも悪いんですか?」と嫁の紗季さんが心配そうに里子の顔をのぞいて言った。
里子は無意識に涙を流していたのだ。我にかえった里子は
「目にゴミが入ったみたい…」と急いで席を立ち洗面台へ行って顔を洗った。
「春翔」鏡に向かって呼んでみた。
しかし鏡に映っているのは皺と白髪頭の七十才を迎えようとしている里子だけだった。
あの日が春翔とは最初で最後の旅行となってしまった。里子はこんな日が永遠に続くのではと錯覚してしまうほど、人生において最高に幸せな時間をかみしめていたのに…。
車が里子の住む町に入ろうとした時、春翔は不意にハンドルを右に切って車を停めた。
「里子、後ろ向いて」と言って里子の首に丸い形のトップで、表に里子の誕生石のペリドットが埋め込まれているネックレスをつけてくれた。ma chereと後ろにHのイニシャルが刻印されていた。春翔のネックレスは三日月の形で里子の丸いトップがぴったりとくっつくようになっていた。春翔のネックレスにはeterniteとSと刻印されていた。ma chereはフランス語で大切な人という意味でeterniteは永遠という意味だと春翔が教えてくれた。「里子、九月になったらフランスに行くことになった。一緒にきてくれない?」と何の前触れもなく春翔が言ってきた。
里子は何も答えられなかった。九月まで後四カ月だ。沈黙が続いた。私は何をためらっているの? 一つ返事で「はい」と答えられない自分が悲しかった。私が春翔に付いて行ったら、今の仕事は? 一人息子の涼は? 年老いた両親は? そんな事が頭をよぎるのだ。どれもこれも言い訳であることは里子自身が一番良く知っている。現状を変えるのが怖いのだ。なのに春翔を失う事も耐えられない。優柔不断なのだ。
「返事は良く考えてからでいいから」と春翔は困っている里子を見て言ってくれた。車は三日前の朝に待ち合わせた同じ場所へ到着した。太陽は西の空に沈もうとしている所だった。
旅行から帰った次の日、母から電話があった。嫌な予感がした。
「里子ちゃん、お父さんが変なんよ。来てくれる」
「変てどう変なの」
「昨日、晩御飯をいつもの時間に食べ終わって、お母さんがお風呂に入ってたら、お父さんが『おーい』って何回も呼ぶねんやんか。そしたら『飯はまだか』って食卓で座って待ってるんねん。『さっき食べたとこやん』って言ったら、『そうやったかな』って部屋に戻って行ったから、勘違いしてるんやと思てたんや。所が夜中にまた呼ぶ声がするから見に行ったら『いつもお世話になってます』ってお母さんに向かって言うから『何、寝ぼけてるの』て言って布団に寝かしつけたんよ。今朝は普通に朝ごはん食べてたから大丈夫やと思ってたら、押入れから昔のスーツを取り出してきて、次はそれを着だしてん。『お父さん、どこかに行くの?』って聞いたら『会社に決まってるやろ』て怒鳴りだしたんよ。なんとかなだめて今はテレビを見せてる。里子、ボケてしもたんやろうか? とにかく来て」と母が言ってきた。
こんな時はいつも私に言ってくる。五才上の姉には決して言わない。姉はいつも上からものを言う人なので母はプライドを傷つけられるらしく頼みごとは全て里子に言うのだ。それにしても父はどうしたんだろうか? 幾つになったんだっけ? 九十才だ。考えたら、今日まで病気や怪我もせず元気にいてくれた。それだけでも感謝しなければと改めて思った。とにかく病院に連れて行こう。昨日までの幸せな時がすでに遠い昔の事のように感じられていた。
実家に行くと、いつも強気な母が不安そうな表情をして表に出ていた。家の中にいることがたえられず、里子がくるのを今か今かと待っていのだ。父はスーツ姿で食卓に姿勢を正して座っている。足元を見ると右足にだけ靴下を履いていた。
「お父さん」と声をかけると
「これはこれは柴田くんの奥様。いつもお世話になっております。まぁ掛けてください」と言って来た。娘がわからないのか…。目の前が真っ暗になった。
「わしは、どこも悪くない。病院になんか、行かん」と言う父に「取引先の方と待ち合わせがあるんでしょう」と嘘を言ってなんとか車に乗せ、病院へ連れて行った。
何時間待ったのだろうか。その間にも父の訳のわからない発言や行動に、母と里子は狼狽えるばかりで、母は今にも泣き出しそうになっている。子育てが終わって自分の時間が持てたのも束の間、次は親の介護なのか? 親を看取った時には私は幾つになっているのだろうか? きっと生活に疲れたおばあさんになって、人生を終わってしまうのかもしれない。私の人生にとって、春翔は光であり希望。素の里子でいられる唯一の場所。それでも親の事を見捨てるような事は里子にはできない。春翔の気持ちを無視した里子の勝手な考え方であることは、よくわかっている。せめて一年でも半年でもいいから、以前の父親に戻って欲しい。その間だけでも素の里子でいさせて欲しい。
父の名前が呼ばれた。
里子にとって夜は果てしなく長い時間だった。孫の龍太が小学三年生くらいまでは、お布団を敷くとその上ででんぐり返しをしたり、転げ回ったり「おばあちゃんと寝る」と言って一緒に寝たりしていたのだが、四年生の夏に友達の家に泊りに行ってから、急に里子と距離を置くようになった。ちょっとした思春期を迎えていたのかもしれない。それ以後は、龍太が部屋に来るのは用事のあるときだけとなった。食事を終えてお風呂に入ったら後は部屋で寝るだけ。自分の時間ではあるが、何処かへ出掛けたり何かをしたりする気力はいつの間にかなくなっていた。眠れね夜に思い出すのは、あの頃の春翔の事ばかりだった。春翔からもらったネックレスはもはや体の一部になっている。
春翔は自分の目指す頂点に立っていた。今やワイン業界では春翔を知らない人はいない。日本だけではなく世界を羽ばたいている。春翔がフランスへ旅立ってから五年ほどして、『雑誌にワインが繋いだ親子の絆』というタイトルで、春翔は会ったこともなかった日本のワインの巨匠である父と、授賞式で初対面を果たした事を知った。授賞式の後、パーティーでどのようなやりとりがあったかは知らないが、二人は抱き合って泣いていた。その時、里子は自分の事のように嬉しくて一緒に泣いた。かつて春翔が生活をしていた朝陽の入らない寝ぐらから、一気に摩天楼へ駆け上がり、今や太陽に向かって登り始めたのだ。 もはや春翔の世界からは里子を探すことはできないかもしれない。それは、かつて初めて春翔と待ち合わせをした京橋の街並みに似ている。ディープ界隈からは背の高い煌々と電気を照らしているビルは見えても、背の高いビルの上からは、ディープ界隈は色んなものに飲み込まれた色のない街並みの一角となり、どこに存在するかも認識することはできない。とてつもない空虚な思いが支配することもあったが、全ては里子が選択した人生だから、今はそれを受け入れている。
医師から告げられた父の病名はアルツハイマー型認知症だった。
「これから、ドンドン症状は悪化していくのでご家族の負担が大きくなっていきます。どのような介護をしていくかを考えていかなくてはなりません」と医師が話していたが里子には雑音にしか聞こえなかった。母は泣くばかりで終始首を左右にふっていた。
帰りの車の中で母は「お母さん一人では無理。幸子は旦那さんがいてるし里子、実家に帰って来て」と里子の生活を無視した言葉を浴びせた。
母からの呪縛が解けたとはいえ、この状況下で、私にだって生活があるのと声を荒げて言うことはできない。「考えさせて」と強い口調で母に答えただけで、その後一言も発しないまま、母と父を実家に送り届けた。
春翔からは何件ものラインが入っていたが、里子は見ないようにしていた。ラインを見てしまうと、父と母を捨てて春翔の元へすぐにでも走り出してしまいそうで怖かったのだ。家に帰ったときには夜の九時をまわっていた。春翔のラインを確認すると、既読にならないことを心配していた。
「仕事中だね。心配させてごめんなさい。父の事で色々あって返事を返せなかった。命にかかわることでは無いので安心してね。会ったときに詳しく話すね」とラインを入れた。すぐに了解のスタンプが返えってきた。
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