第9話 風
春翔の生まれ育った町が遠ざかって行った。「また、来ようね。春翔」里子は心の中で呟いた。春翔を見ると首を縦に振ってうなずいていた。
車は三重県に入った。車の中ではお互いに言葉を発する事はなかったが、何か今までとは違う親密さを感じていた。
日本を代表する景勝地・鬼ヶ城に着いた。志摩半島から続くリアス式海岸の最南端にあり国の天然記念物に指定、さらにユネスコの世界遺産に登録されている。太平洋の海はどこまでも青く穏やかな顔を見せていたが、色んな形に削られた岩肌を見ると、ここ熊野灘の波には違う顔があるのだ。約一時間の遊歩道を春翔と並んで歩いた。時折、道が狭くなったり階段があったりで前と後ろに分かれ歩き、里子は海食されて鋭く尖った岩やトンネルに春翔が吸い込まれて行くのではないかと後ろ姿を見ながら感じていた。春翔が手の届かない所へ飛び立つのは、そんな遠い日ではないことを予感しながら、必死で春翔の背中を追いかけながら歩いた。
鬼ヶ城は古くは『鬼の岩屋』と呼ばれていたが、室町時代に有馬忠親によって高台に城が築かれ鬼ヶ城と呼ばれるようになった。実際に鬼が住んでいたわけではないが、この地域一帯を支配し、人々から恐れられていた海賊・多賀丸が平安時代に桓武天皇の命を受けた時の征夷大将軍・坂上田麻呂によって征伐されたというエピソードがある。今でこそ、こうやって遊歩道があり観光地になっているが、海岸にそびえたつ険しい断崖に実際、坂上田麻呂の軍政も攻めあぐねていた。そんな時、沖の魔見ケ島に童子が舞い降り軍政に加わり酒杯をあげて大騒ぎをした。すると鬼が何事かと岩屋の扉を開けた。その一瞬の隙をついて、将軍が放った弓矢で退治できたという伝説もある。どんな場所にも誰かが何かを感じながら生きた歴史があるのだ。
同じように観光に来ていたカップルが声をかけて来た。
「写真、お願いしてもいいですか?」
「もちろん、良いですよ」
春翔が鬼が集まったであろうという広さ一五〇〇平方メートルの千畳敷の上に、一五メートルの高さの天蓋がそびえ立つ岩肌をバックに、写真を撮ってあげた。そのカップルが「撮りましょうか」と言ってきたので春翔はスマホを渡し、里子の手を握ってベストアングルのポジッションまで走った。定食屋『鶴』に連れて行かれた時もこんな風に走った事が、なぜか遠い昔の事のように里子には思えた。あの時と違うのは春翔が里子の生活の一部になっているという事だ。しかし、年の差だけはどうあがいても同じ距離を保ち続けている。この先もずっと…。
車は賢島を目指していた。海の色が赤く染まり出している。賢島大橋に沈む太陽を見ることができた。昼間見える太陽の何十倍も大きく見えるのは目の錯覚なのだ。太陽の炎が海に溶け出しているようにも見える。里子は春翔に肩を抱かれながら、やがて暗闇へと姿を変えて行く空と海を目に焼き付けていた。
「里子、何にもない俺になんでここまでしてくれるの? 今の俺には里子にしてあげられる事が何もない。嫌にならない?」
波に打ち消されそうな声で春翔が言った。
「逆よ。なんでこんなに年の差がある私なのって思ってる。でも、春翔に初めて会った時から、何かの縁で繋がっているのかもと思っているの。本当は遠い昔からずっと春翔の事を知っていたような気もする。それと春翔の行く末を見守りたい、見てみたいそんな衝動にかられてる。それがどういう感情なのか自分に問いただしたことがあって、行き着いた答えは春翔の事が大好きなんだって事だけだった。私にとって大切な人なの。たとえ遠くにいても私は春翔をいつも思っている。だからといって、春翔は私に縛られる必要はないんだからね」この一瞬だけでも、春翔は里子だけのものである事に心は満たされたのだ。
二日目の宿は賢島のちょっと贅沢なホテルを予約していた。部屋には海に面した露天風呂がついている。辺りはすっかり闇の世界へと変わり波が岩に打ち付ける音だけが響きわたっていた。
「里子、一緒に入ろう」と部屋の露天風呂を指差して春翔が言ってきた。
数ヶ月前までは、明るいところで五十を過ぎた裸を見られる事が躊躇されたが、その恥じらいは今や忘却のかなたへと追いやられそうになっている。慣れとは恐ろしいものなのだ。里子は温泉に体を沈め、昨日と同じように今日の出来事を思い出していた。春翔の手はしっかりと里子の手を握りしめていた。最上階にあるレストランでボルドー産のシャトークロノーのワインを飲みながら、まったりとした食事の時間をすごした。
「今日はほんとありがとう。なんだかずっとつっかえていたものが取れたみたいだ。里子のおかげだよ」
「お礼なんていいよ。今の春翔がいるのは春翔のお母さんがいたからだし、春翔の昔を知っている人がいる事は、生きていく上で大きな支えのようものだと思う。木でいったら根っこのところ。これからどんな枝葉をつけて大きくなっていくかは春翔次第なんだから、あのご夫婦への恩返しは春翔が悔いなく生きる事だと思うよ」と里子は春翔を見つめて言った。春翔が幹だとしたら、今の里子は枝だろうか? 葉っぱだろうか? 枝だとしたら、春翔と共に生きることができる。忘れ去られる事はないのかもしれない。葉っぱだとしたら季節が移り変わった頃には地面へと落ちて、いつの間にか姿を消してしまう。だけど腐葉土になって形こそは変わっても春翔の役には立つのか。いずれにせよ、里子の願いは春翔が龍のごとく、春翔の目指す頂点に昇りつめる、その姿を遠くからでいいので見てみたいそのことだけだ。
夜は遠くから聞こえてくる心地よい波の音と春翔の息遣いを耳元でききながら過ぎていった。
次の日は伊勢神宮には寄らず四日市の御在所岳を目指した。旅行の計画を立てる際、春翔は「伊勢神宮にお参りは外せないね」と言ったのだが里子が躊躇したのだ。それには理由があった。
十年程前に学生時代の友達四人組で伊勢に旅行に行ったっことがあった。旅行自体がいつ行ったのか思い出せないレベルだった里子は、有頂天になっていた。おやつとお弁当を買って列車に乗り込み、四人共お喋りと食べることでずっと口を動かし続けていた。だから、あっという間に伊勢に到着したのだが駅に降り立った瞬間、母から電話が入ったのだ。実際には母の携帯電話から知らない人が電話をかけてきたのだ。
「娘さんですか? 僕は通りがかりの者なんです。お母さんが溝にはまって動けなくなっておられたので、引き上げたのですが立てないと言われるんです。今、道端で横になってもらってます。どうしましょう」といってきた。どうしましょう? と言われても離れたところにいる里子にはどうする事もできない。父親は近頃、痴呆が入ってきてるので頼めない。
「大変申し訳ないのですが、私、遠方におりまして直ぐに戻っても三時間以上かかると思います。救急車を呼んでもらえますでしょうか?」と見も知らぬ人にお願いをし搬送先も連絡もらえるように頼んだ。
友達はただならぬ里子の様子を見て
「大丈夫?」と言ってきたが、里子は折角の旅行を嫌な気分にさせてはいけないという思いから、無理やり笑顔をつくった。
「ごめん! 大したこと無いみたいなんだけど母が怪我したみたいで、今から戻る。ほんとごめん」そう言って一人列車に乗り込み今来たばかりの伊勢を後にした。
あの時、里子は行きの列車では気にもならなかった揺れを感じながら、抵抗することもなく右へ左へと身をまかせた。窓の外を見ると雲一つない快晴。「私は雨女だから今日のお天気は私のおかげだよ」と独り言を口にした。これから先、親のことで色々な事がおきるのかもしれないと考えると、出口のないトンネルに入り込んだように暗く重い気持ちになった。里子は母親の前では良い子を演じているので、母は姉ではなく私に何でも言ってくる。夜も昼も仕事中だってお構い無しだ。母の思惑通りに育てられたのだ。そして携帯電話という素晴らしい物が普及したため、何処にいても直ぐに用件を伝える事ができる。春翔との関係だってこの携帯電話があったから始まったようなものだ。便利ではあるがその反面プライバシーが侵されているような気もする。
母は肩の関節を粉砕骨折、完全には治らないと言われた。専門の医師に手術してもらうのに一カ月も待った。約半年間、上げ膳据え膳の生活になり、父親の身の回りの世話と母の世話に追われた。この事がきっかけで里子の中で母親の対してあった固定観念のようなものが崩れ去り、四十代後半にしてようやく母の呪縛から解放されようとしていた。母と娘の力関係が逆転した瞬間だった。
「伊勢まで行ったのに伊勢神宮に参拝できなかったのはお伊勢さんに拒まれたんだ。来るなって事やで」一人息子、涼に言われた。
だから春翔との旅行で伊勢神宮には、行きたくなかったのだ。
御在所岳は三重県と滋賀県の境にある標高1212mの山だ。富士山の標高は三七七六mだから三分の一以下の高さになる。下から登山をする人もいるのだが、里子と春翔は湯の山温泉から出ているロープウェイを使って頂上を目指した。ゴンドラタイプのロープウェイに乗り込み、標高400mの湯の山温泉駅から標高1200mの山上公園駅まで一気に上る。二人を乗せたゴンドラは山へ放り出されるように出発し、真下に湯の山温泉街が小さく見えていた。ゴツゴツとした岩が顔を出し、なんとその岩を登っている人がいた。里子は思わず足がすくんでしまい春翔の手を握りしめると、春翔の手はじんわりと汗が滲んでいた。
「ロッククライミングする人の気持ちがわからない」とボソッと春翔が口に出したのを、里子はしっかりと聞いた。春翔は高所恐怖症なのだ。ゴンドラにのった途端ソワソワしていたのはそのせいなのだ。眼下を見ると四日市の市街から伊勢湾までが見渡せたが、春翔は頑なに山の方を見るばかりでおかしくて仕方がなかった。途中で通過する白い六号鉄塔は日本一の高さを誇っている。もちろん春翔はその高さを確かめるべく下を眺める余裕などない。
ロープウェイを降りると寒さで震え上がり、予め用意していたウインドブレイカーを羽織った。湯の山温泉との気温差は十度。冬に逆戻りだ。それにしても空は雲一つない快晴。澄んだ空気は肺を浄化してくれるだけではなく、心の中も綺麗に、そして素直にしてくれるように思える。少し歩いた所に富士見岩展望台があり、条件が揃えば富士山を見ることができるそうだ。さっきまで棒のように硬くなっていた春翔が軽やかに展望台に駆け上がり、富士山を探し始めた。
「里子、あれ富士山じゃない?」
春翔が指差す方向を見ると眼下に広がる静岡の街並みの後ろに南アルプス連山が見えた。良く目を凝らして見ると、その後ろに頭を雪で覆っているのか、白くなっている物がうっすらと目に飛び込んできた。
「春翔! 富士山! 富士山が見える」
里子も叫んでいた。
たかが富士山が見えただけなのになぜか興奮してしまう。富士山はやはり日本一の山なのだ。日本の頂点なのだ。
その時、二人の間を滋賀県から吹く風が通り抜けた。思わず繋いでいた手をお互いに離してしまった。しっかりと自分の足で大地を踏みしめなければ、吹き飛ばされそうだったので、無意識に自己防衛をしたのかもしれない。
一瞬時間が止まった。
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