第8話 墓参り

 二人は那智の滝を目指した。那智の滝は日本三大滝の一つだ。一三三mの高さから水が流れ落ちてくる。この滝自体が御神体になっている。岩肌に打ち付ける水が豪快な飛沫を上げて、里子と春翔の立っている所まで飛んできた。里子には、まるで龍が流れに逆らって天に登っていく姿のように見えていた。実は那智の滝は四十八滝と呼ばれる沢山の滝があり、目の前に見えているのは一の滝である。上流には二の滝、三の滝があるのだが一般には立ち入り禁止区域なっている。その滝を巡るツアーがあるが期間も決まっている上に、熊野那智大社での正式参拝を経て山の中を歩く準備も必要だ。目にしている風景はごく一部なのだ。もし、次があるなら春翔と二の滝、三の滝を巡ってみたい。春翔はさっきからずっと何も語ることなく滝を見ていた。ただ、里子の手だけはしっかりを握っている。どれくらい見ていたのだろうか。

「里子。俺、父親の事は全く知らないんだ。母親は高校三年の時、癌で死んだ。兄弟も親戚もないから天涯孤独になった。父親は死んだって聞かされてたんだけど、母親の遺品から父親が生きてるって知ったんだ。戸籍上は赤の他人なんだけどね。父親と言う人はワイン業界では有名な人だった。母親と何があったのかはわからないけど、母親は一人で俺を産んだ。父親がどういう人なのか知りたい。

父親という人と話しがしてみたいんだ。同じ業界で俺も有名になったら、その人と話せる機会が出来て、どんな人なのか知ることができると思った。それがこの道に入ったきっかけなんだ。この那智の滝は毎年のように母親に連れられて来ていた。母親の実家が勝浦。母親のお骨は実家の墓に納めている。もう、俺以外に参る人はいないけど…。何年も来てない。里子、一緒に墓参りに行ってくれる?」

「私なんかが行ってもいいの?」春翔の手を強く握りしめた。

「里子と一緒に行きたいんだ」

「じゃぁ一緒に行こう。春翔のお母さんに逢いに」と里子は春翔を見て答えたが、春翔の目は龍の行く手を阻む天から流れる大量の水が注ぎ込まれている滝壺の一点を見つめていた。里子の知らない春翔がそこにいた。今にも滝壺の中に春翔が吸い込まれてしまうのではないかという恐怖を覚えた。 

 墓地の近くにある花屋で花束を買い、細いあぜ道を春翔を先頭に一列になり歩いた。遠くで電車の警笛が聞こえた。特に何も話す事はなかった。

 高校三年生の春翔は、お母さんのお骨を抱いて一人、この道を歩いていたのだろうか? だれか横いてくれたのだろうか? その時の春翔の気持ちを考えるとこみ上げてくるもがあった。里子は流れる涙を袖でぬぐいながら、黙々と歩く春翔の背中を見つめた。

 一〇〇mほど先にお墓が立ち並んでいるのが見えてきた。春翔のお母さんのお墓はその墓地の一番奥のところにひっそりとに建っていた。春翔が来るのをずっと待っていたにちがいない。お墓にはだれも参った形跡はなく、草が生い茂っていた。春翔はもう触れることのできないお母さんの生きた証を確かめるようにお墓を優しく撫でていた。里子は静かに手を合わせ、お墓の周りに生えている雑草を抜き始めた。春翔も無心にお墓の掃除を始めた。

 どれくらの時間が経過したのかわからないが気がついたら、お墓が息を吹き返したかのように光沢を取り戻していた。買ってきたお花をお供えし花屋でもらったお線香に火をつけ、目を瞑り手を合わせた。春翔はどんな思いで手を合わせているのだろうか? 春翔のお母さんも又どんな思いで息子を見ているのだろうか? この一瞬もこれから先も決して相手に届くことのない思い。自分の胸の中だけで叫び続けるのだ。

「春翔。来年も再来年も毎年お母さんに逢いに来よう」

 死んだ人に『逢いに』は何かおかしな言い方のような気がしたが『墓参り』ではなく『逢う』の方がなぜかしっくりとした。もしかすると大切な人は永遠にその人の中で生き続けているからかもしれない。里子は春翔とお母さん・正式にはお母さんのお骨が納まっているお墓と一緒に写真を撮ってあげた。時折風に乗って潮の香りが漂ってくる。ここは、里子の住む町とは違う。海と共に生きる町なのだ。


 和歌山県の勝浦は日本一のまぐろの水揚げ量を誇っている町だ。里子は春翔の案内で地元民しかしらないまぐろを食べさせてくれる小さなお店に入った。高校を卒業するまでの間この近くに住んでいたらしい。暖簾をくぐると四人掛けのテーブルが二組とカウンターの五席はほぼ詰まっていた。

「ここにおいなあ」先客が席を譲ってくれた。すると中から

「しげちゃん、おおきによー」と七十才はとうに超えていそうな女将が出てきて、春翔と里子をカウンター席へと座らせた。女将がおしぼりを持ってきたが、その手はそれ以上動こうとせず、春翔の顔にくぎ付けになっていた。

「はーくん? はーくんと違う?」と聞いてきた。

「はい、ご無沙汰しています。春翔です」と答えるや否や女将は春翔に抱きついてきて頭の毛がくしゃくしゃになるくらい撫でまわした。厨房から亭主が出てきて

「お前、なにしちゃる」と女将に言ってきたが直ぐに春翔とわかり

「春翔かい」と右手におたまを左手は春翔の手を握りしめていた。

 里子にはどんな関係なのかわからなかったが、この二人にとって春翔は懐かしい人であり、春翔はこの二人に可愛いがられていた事だけは理解できた。里子は昔の春翔の存在を覚えていてくれる人がいる事に心がふんわりと温かくなるのを覚えた。それから一時間余り、テーブルに昼ごはんが運ばれてくる事はなく、空白の時間を埋めるように春翔がこの町を出てからの事を聞いていた。女将は時折エプロンで涙をぬぐい亭主は腕組みをして頷いていた。店にいた常連客はテーブルの上に代金を置いて一人、又一人と店を出て行き、いつしか客は春翔と里子だけになった。一通りの話を聞き終えた女将が厨房に入り暫くするとお盆の上に白いご飯、自家製の漬物、魚のアラの入った赤だし、まぐろのお刺身、煮魚に茶碗蒸しを乗せて運んできた。

「はーちゃん、遠慮しやんと食べな」嬉しそうに机の上に並べた。

 春翔は真っ先に煮魚にかぶりつき、美味しい美味しいと何度も言いながら、あっという間に魚は骨だけになっていた。里子もお腹が空いていたので綺麗に平らげてしまった。

「ところでよ、隣の綺麗な女性はだれだい」と随分時間が経ってから亭主が聞いてきた。

 春翔は間髪入れずに

「俺が一番大切にしてる人」と答えた。

「そうかよ。春翔にそないな人がおってよかったよぉ」と嬉しそうに言った。

 女将は春翔を何度も抱きしめ

「また、帰ってきいよぉ」を繰り返し、春翔も里子も何度もお礼を述べて車に乗り込んだ。バックミラーにはいつまでも手を振る二人の姿が写っていた。

「里子、せっかく二人の旅行を楽しみに来たのに付き合わせてごめん」

「謝ることないよ。私は春翔の昔を知ることができてなんだか分かんないけど嬉しい」

「物心ついた時から母親は朝早くから漁港で働いてた。夜になるとまたお袋は働きに出ていく毎日で寂しかった。そんな俺を不憫に思ったのか、さっきの夫婦がいつからか面倒をみてくれるようになって、晩御飯はいつも店のカウンターで賄い飯をご馳走してくれてたんだ。だから、あの店のご飯で今の俺が大きくなったようなもんなんだ。お袋が死んだ時も本当の家族のように一緒に見送ってくれた。だけど、何にも持ち合わせてない俺にとって親切にされればされるほどいたたまれない気持ちになって、高校卒業と同時にあそこから飛び出したんだ。不義理なことをしたと思ってる」

「あの夫婦は不義理とかそういう風に春翔の事を悪くなんて絶対思ってない。春翔の事を心配してくれてる。春翔の幸せを単純に願っているんだと思うよ。私にはあの二人の思いが痛いほどわかる。だから春翔はこれから自分の目標に向かって進めばいい。それがあの二人にとっても幸せな事なんだよ。でも、時々でいいので手紙や電話ぐらいはしてあげたほうがいいと思うよ。こうやって帰れる時は顔を見せてあげることが親孝行ではないけど感謝の形だとおもう。まだ春翔は三十代だからわからないと思うけど、私の年ぐらいになると人生の終わりを感じる。老後の事とか寿命の事とか…。とにかく、春翔があの時、と後悔をしないようにお世話になったと思う人へはちゃんと感謝の思いを伝え、行動にうつしてほしい」

 春翔は何も言わず黙って里子の話を聞いていた。

「春翔、何も知らないのに偉そうな事言ってごめんね」と里子は年の功で言ってしまった事を少し悔いた。

 車は左の車道の端にハザードをつけて停まった。

「里子、引き返していい?」と春翔が聞いてきたがすでに車は今来た道をユーターンしていた。

 春翔は車を停めるや否や外へ飛び出して行った。そして別れを告げたばかりの老夫婦のいる店の中へと入っていった。里子も車の外に出て店の前まで行ったが中に入るのをやめた。店の中からは女将と亭主が泣きながら春翔の名前を呼ぶ声と春翔の「ごめん。ごめん」と声を詰まらせ泣いている声がきこえていた。

 里子は店から離れた。春翔の育ったこの町をあてもなく歩き、春翔を残し死んでいった春翔のお母さんの事を考えていた。もし私が十八才になる涼をたった一人残し、この世を去らなければならない運命だったら、自分自身が死ぬ恐怖よりも我が子のこれからを見守ってやれない悲しみや無念の思いばかりが、いつまでもこの世に残りそうな気がする。子供はいつか親を超えて立場が逆転する時を迎える。その時まで遠くからでもいいので見届けたいと子供が望まなくとも勝手に思っているのが親。喧嘩ばかりしていた里子の両親だって里子が離婚を口にした途端、色んなことを心配し、二人して慌てふためいていた。春翔のお母さんはきっと自分の余命を知った時、あの夫婦に色んな事を託したに違いない。里子だったらそうしたと思うからだ。この町には春翔、春翔のお母さん、あの女将さんと亭主の思いがあるのだ。もし、十九才の里子が子供を生んでいたら、春翔のお母さんのように朝から晩まで働き、一人で子供を育てる事ができただろうか? ふとそんな事が頭をよぎった。春翔のお母さんはきっと強い人だったんだ。

 携帯が鳴った。春翔からだ。

「里子、どこ?」

「わからない」

「何が見える?」見渡すと畑の中に大きな楠の木が見えた。

「楠の木」と里子がいうなり

「直ぐ行く」と電話が切れた。

 春翔が畑の畔から里子を目指して走ってくるのが見えた。春翔は嬉しそうに手を振っていた。

「里子」

 春翔は息をきらして里子に抱きついた。

「ありがとう」

 春翔はきっと、置き去りにしてきた過去を拾い集め大切な思い出に変える事ができたのだと里子は思った。人は皆、今を必死に生きているけれど、自分が歩んで来た過去に支えられなけれは前へは進めないのかもしれない。

 

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