第7話 旅行

 ワインに関係する仕事といえばソムリエであるが、そもそもソムリエとはレストランで客の相談に乗って料理にあうワインを提供する仕事である。日本には国家資格がなく社団法人日本ソムリエ協会が試験をして認定を行なっている。合格した人には認定書と金色のぶどうの形をしたバッチがもらえる。春翔は随分前にソムリエ資格はとっていた。春翔が目指すのは世界で認めれるソムリエだ。そのためにフランスへ渡り勉強をするためのお金を貯めているということを付き合って早々にきいていた。もちろん里子はその事を心から応援しているが、そこに里子はいるのだろうか? その日が来た時には今の幸せの終わりを意味しているのではないのか? 笑って見送る事ができるのか自信はない。

 夢が叶う、目標が達成する事と幸せになる事は同じと思っていたが実は違っていた。

 

 六月に入って春翔が突然、「里子、旅行に行こう」と言い出した。「仕事は大丈夫なの」の問い掛けに「休みを取る」と答えた。旅行! 何年前に行ったのか、里子は考えてみたが思いだせなかった。離婚してからは、近くの公園や電車、バスで行ける遊園地やプールなど一人息子、涼が喜びそうな所へ連れて行ったが泊まる事はなかった。会社を休むのは涼が病気になった時のためであり、何かを楽しむためのものではなかったからだ。そして、日曜日はこれから始まる一週間のため準備の日だった。時間もお金も里子には余裕がなかったのだ。何から何までつまらない人生。春翔に出会わなければ、そのつまらない人生を歩んで来たことさえ知らずに、人生の幕をおろしていたかもしれない。

 春翔にどこに行きたいかを尋ねられたが、答えられなかった。ただ、海が見れる所がいいとだけリクエストした。数日して春翔が二泊三日の紀伊半島一周旅行計画を里子に発表した。里子は初めて有給の申請用紙に記入をし総務の女の子に提出をした。

「小川さんが休みを取るなんて、珍しいですね」と言われてしまった。

 言葉を返せないでいると

「たまにはいいんじゃないですか。有給は今時、働く者の当たり前の権利ですからどんどん取って楽しんでください」と言われた。

 今は、里子の若い頃の時代とは違うし、考え方も違うのだ。時代は変わったのだ。

 旅行当日の朝、里子は早く起きて春翔と自分のためのお弁当と涼にもお弁当を作った。保育所に通っている時もお弁当の日というのが時々あった。今のようにキャラ弁というのはなかったが涼が喜ぶようにたこさんウインナーを作ったり、うずらの卵にごまで目を作り、きゅうりで王冠を作り、海苔で髪の毛を作り王子様とお姫様にしたり工夫をこらしていた。朝の出勤前にするのだから、てんてこ舞いでお弁当作りをした。今は懐かしい思い出である。今日は大きな子供のために作るお弁当なので色合いも量も形も違うが心を込めて作った。

 春翔はレンタカーを借り、里子の住む町の駅前で待っていた。里子は待ち合わせ時刻の二十分前に着いているので、春翔はそれより前に待っていた事になる。人に待たれた事のなかった里子は思わず

「ごめんなさい。待った?」と言った。春翔は笑っていた。

「里子、おはよ。早く乗って」と車の扉を内側から開けて里子が乗るのを促し、里子が助手席に座るやいなや軽いキスをした。

 車は里子の住む町を背に南へと走り、ちょうど生駒山から朝日が登り始め里子の頬を染めていた。すぐにそこに居るのに何度もお互いの手を探しては握りしめ、体温を感じ安心した。ラジオからは二十年前に流行ったサザンのTUNAMIが流れていた。その時、里子は三十四才、春翔は十六才。里子は離婚を考え殺伐とした中を生き、春翔はきっと弾ける青春を楽しんでいただろう高校生。同じ歌でも、全く違う環境と状況で聴いていたのだ。

 里子の住む町から高速道路を利用すると二時間以内で和歌山市内に入る。

 小学校低学年の時に和歌山の勝浦という所へ、記憶では最初で最後の家族旅行に行った。家族で行くということが、里子にはとても嬉しくてはしゃいでいた。電車に乗っている時間がとても長かったような気がするが、初めて食べる駅弁、その昔はペットボトルのような飲みものがなく、今では見ることが無くなったが塩ビの入れ物に日本酒を飲むおちょこのような蓋がついていて、それに少しづつお茶を入れて飲むという物を買い、和歌山の名物、みかんを丸々冷凍しているそのままのネーミング、冷凍みかんをおやつに買ってもらい、窓から見える風景を眺めて楽しんだ。海と思ったらすぐにトンネルに入り、山の中を黒潮号がガタンゴトンと車体を揺らしながら走った。とにかくワクワクした気持ちだった。ところが、到着した途端に父と母の喧嘩が始まった。里子の両親は物心付いた時から喧嘩の絶えない夫婦だった。いつも喧嘩が終わるのを耳を塞ぎ、時が過ぎるのを待った。ある日、友達の家にお泊りをするという機会があった。初めて家族以外の人と一緒に晩御飯を食べて、友達とお風呂に入り一緒の布団で寝た。その時に、自分の家族はこの家族とは何かが違うという事を感じた。そして随分後になり、里子が家族をもって初めて何がちがっていたのかが分かった。お母さんとお父さんが子供たちの会話を笑顔で聞き、ご飯を食べている我が子の姿を愛おしく見ていたという事なのだ。ごく自然な事なのかもしれないが、里子の家ではそのような光景はなかったように思う。喧嘩が勃発しないように、里子はいつもお利口さんでいなくてはならなかった。なのに喧嘩の原因になるようなことを五つ上の姉は平気でやらかしてくれる。いつしか近所の友達にその喧嘩をきかれるのが恥ずかしくて、喧嘩が始まると家の全ての窓を閉めるのが里子の役割となっていた。今しがた始まった喧嘩は窓のない道端だった。「宿をキャンセルして帰る」と母親が言い出し、「帰りたくない、泊りたい」と生まれて初めて泣きながら里子は抵抗し訴えた。あまりにも里子が泣くので泊まることとなったのだが、両親は旅行の間、一言も話す事はなく、姉もずっと漫画を読んでいた。里子は一人で卓球の置いてある部屋に行き、ピンポン玉を壁に打ち付けて過ごした。次の日はどこにも観光に行かず、無言で電車に乗り見慣れた町へと帰ってきた。里子は反面教師で笑顔の絶えない家族を作ろうと努力をしてきたが、呆気なく終止符をうったのだから、やっている事は両親と何ら変わらないのかもしれない。違うのは私は元夫と喧嘩はしなかったという事と、両親は未だに喧嘩しながら夫婦を続けているという事だ。人を好きになるのに理由がないように、笑顔は努力でつくるものではなく自然と溢れてくるものなのかもしれない。

 春翔と里子は会話を楽しみ、時々目を合わせ笑った。高速を降りてからは、春翔は車をできるだけ湾岸沿いを走らせた。海が見える度に運転する春翔に「見て見て綺麗」を連呼した。

 次の瞬間、里子はあまりの美しさに言葉を失った。真っ青な空と海、そして真っ白い岩が氷山のように二人の前に立ちはだかっていたのだ。行ったことはないがエーゲ海のようだ。白崎海洋公園というところで、白く見えているのは石灰だった。無数の鳥が頭上を飛んだ。春翔があれはウミネコだと教えてくれた。里子はシャッターチャンスを狙い、ウミネコが翼を大きく広げ青空と海をバックに飛んでいる姿を写真に収めた。夢中になっている里子の姿を春翔は遠くから盗み撮りしていた。後から見せてもらったら、まるで子供のようにはしゃいでいた。春翔が二人で写真を撮ろうと言ってきたが写真に映る自分の顔が嫌で断った。そのかわり、二人が手をつないでいる影を写真に収めた。

 ベンチに腰掛け里子の作ったお弁当を広げると春翔がひどく感動し、いつものように

「美味しい」を連発するだけだったので、

「春翔は食レポできないね」と言って笑った。

 目の前には果てしなく続く青い海と空がどこまでも遠く広がっていた。

 海は里子の心を優しく包み、素直な気持ちにさせた。この旅行の間だけ、そのままの里子を春翔に受け入れてもらい、年齢の事は忘れよう、好きなだけ「春翔」と呼び、好きなだけ春翔の近くにいよう、その事を目の前に広がる海にお願いした。

 本州の最南端を目指し車を走らせた。運転手側に海が広がっていたので里子は何度も海を見る振りをして春翔の横顔を見ていた。車が信号で止まる度に春翔も里子の顔を見て楽しそうに笑い「里子」と呼んだ。

 白浜の道路標識が見えてきた。白浜といえばアドベンチャーワールド。今では珍しくはないが、パンダが初めて日本に来たのは、一九七二年、里子七才の時だ。東京の上野動物園に中国から贈られた。里子はその可愛いパンダのぬいぐるみが欲しくて欲しくて夢にまで見たことがある。白浜にパンダが来たのは、一九九四年、里子二十九才。すでに涼が生まれていた。春翔は十才。

 春翔ととの十九才という年齢差は時代の差に等しいのだ。でも、今だけは同じ時代の空間で同じ時を過ごせ、世界中の誰よりも近くに居させてもらえる事に里子は全ての物に人にありがとうと言いたい気持ちだ。海に太陽の光が当たりキラキラ輝くように全てのものが光を放って見える。

「白浜の湾岸を走ろうか?」

「行ってみたい」

「オッケー」

 ハンドルを右にきって車を爽快に走らせた。面白い形をした岩が海の真ん中に浮かんでいる。丸い穴が空いていて、そこに夕陽が沈む景観が最高に美しいらしい。円月島、正式名は高島と言う。里子の目の前に広がる光景は夕陽ではないが、真っ青な空と水平線が円月島の真ん中にうまい具合におさまり素晴らしい感動を与えるものだった。春翔が写真を撮っているのを里子は少し離れたところから円月島をバックに春翔の後ろ姿といっしょに写真に収めた。

 夏には海水浴の客で賑わう白良浜が、眩しいくらいの光を放っている。他の砂浜と違い真っ白でサラサラの砂だ。浜周辺の開発が行われてから砂浜が痩せて来るようになり、一九八九年、里子二十四才、春翔五才の時にオーストラリアの砂漠の砂を投入された。二十四才の若かった里子が五十四才になり、あの頃とは見た目も体力も物の考え方も変わったように、世の中の全ては同じ状態ではなく変化している。里子は母方の叔父の通夜でお坊さんが「無常」という言葉の説法した事を思い出していた。

「この世の中の一切のものは消滅流転して、ずっと同じ状態が保てるものは一つもない。オギャーと生まれて来た瞬間に、すでに人は無意識に死へと向かって歩き出しているんです。後から後悔することの無いように、この時、この一瞬を大切に生きてください」と言っていた。

 里子が今踏みしめているこの砂浜も次の瞬間跡形もなくどこかへ行ってしまう。そう思うと春翔と過ごすこの時間は春翔の命の時間をいただいているようで胸が一杯になる。海水に足をつけると未だ冷たかった。後一ヶ月もすると海開き、今年もたくさんの人が訪れ思い出を作っていくんだろう。


 今しがた見た光景とは打って変わり、太平洋に面した平べったい岩盤が何層にも重なって見えた。ミルフィーユのようだ。広さが四ヘクタール? 注釈には畳千帖敷けるほどの広さから千畳敷と名付けられたと書いてあった。波打ちぎわまで降りることができる。固そうに見える岩だが砂岩で非常に柔らかいため波の侵食を受けて複雑な地形を成している。風が時折強く吹き里子の体は宙に浮きそうになった。その時、春翔の手が里子の腰を掴み抱き寄せた。「離れないで」と春翔が優しく言い里子の体は春翔の胸の中に心地よく収まっていた。ほんの数秒のことだったが、今だけは無常という言葉をこの風に乗せてどこか遠くへ捨て去りたいと思った。

 千畳敷が女性的だとすると、ここは勇敢に波に立ち向かう男性的なイメージがある。三段壁は断崖絶壁で、今にも吸い込まれそうだ。 春翔が急におとなしくなり、前に進もうとしなくなった。

「具合悪い?」

「実は高所恐怖症なんだ」と里子を握る手に汗をかいて言ってきた。

 その顔が可笑しすぎて声をだして笑った。春翔に悪いと思ったが、笑いのツボに入ってしまったのだから仕方がない。春翔は拗ねた顔をしたが、それがたまらなく可愛かった。里子は汗で湿った春翔の手をしっかり握りエレベータに乗り三段壁洞窟内へと移動した。そこには牟婁大弁財天が祀られていた。水の神といわれ、幸福や子孫をもたらす神として崇められている。なんと手水舎の龍の口からは温泉が湧き出ている。手と口を清め手を合わせ「春翔の夢が叶いますように」とお願いをした。横を見ると春翔も一心に何かをお願いしていたが何をお願いしたかは知らない。春翔は落ち着きを取り戻しているようだったが、里子の手をしっかりと握りしめ決して離そうとしなかった。海蝕した岩肌に凄い力で押し寄せて来る凄まじい波の音を聞き、到底及ぶことのない波しぶきの力に恐怖に似たものを感じ、二人は身動きができないでいた。上りエレベータに乗り、陽の光を見た時は何か新しい命を吹き込まれた、そんな感覚だった。

 建物の脇に足湯があった。横に並んで眼下に広がる大海原を見ながら呑気に温泉気分を楽しみ、春翔と里子の膝から下の二人の写真を撮った。ちなみに横の若いカップルは頭の上からピースをして写真を撮っている。今、里子達がいる場所の真下では、波が荒れ狂ったように岩を叩きつけているなんて、想像もつかないほど穏やかな光景だ。人は簡単に自分の心の奥底を見せない。だから人は相手のことを自分の都合のいいように解釈をする。常にある一面だけしか見ていない。この自然が証明するように、人も穏やかそうな仮面をかぶって、心の中には般若の顔を持っているのかもしれない。

 

 車はすさみ町を走っていた。

「春翔、休憩しない?」

「いいよ。お茶しよ」

 しばらくすると『ラメール』とかかれた看板が目にとまった。

「里子、ここでいい?」

「うん」

 ラメールは、すさみ町の恋人岬という小さな岬に立つカフェで人気の店だった。客は若いカップルが多く里子はなんだか場違いな所へ来てしまった気がしていた。春翔が「あそこに座ろう」と指差した先に見えた海は、眩いばかりに光を放っていた。今しがた感じていた気持ちは、どこかへ吹っ飛んでしまった。「春翔、見て!」あまりにも無邪気に喜ぶ里子を見て春翔は

「とりあえず、座って座って何か注文しようよ」と促されてしまった。

 春翔はアイスコーヒーを里子はアイスティーを頼んだ。窓からはすさみ八景のひとつ、『陸の黒島』『沖の黒島』が見えていた。激しい海流が陸の黒島にぶつかり、真っ二つに裂け、ふたたび波が一緒になる。その様子を夫婦波というのだと横のカップルが旅の本を読んでいるが聞こえてきた。恋人岬を臨む斜面にはブーゲンビレアが鮮やかなピンク色の花を咲かせていた。ブーゲンビリアの花言葉は

『情熱』

『あなたは魅力に満ちている』

『あなたしか見えない』だ。

「ねぇ里子…。里子とこうやって旅行に来れて本当に良かった」と春翔は里子の手の甲に手を覆いかぶせるように握りしめ言った。

 春翔の百倍、私は良かったと思ってると心の中で呟いた。春翔の顔を見る「本当?」と言われ、又口に出して言ってしまったんだと恥ずかしくて顔を赤くしてしまった。そして「可愛いね」と十九才、年下の彼に言われてしまった。


 すさみ町から四十二号線を南下すると串本町に到着した。串本町は和歌山県の最南端に位置し、本州の最南端でもある。春翔と里子は潮岬灯台を目指した。目の前には太平洋の海と空が、遥か彼方で一つになっているのではと思うぐらいに何の障害物もなく続いていた。その海を行き交う船を見ながら、春翔も里子も生まれていない昔から今日まで、雨が降っても強風にさらされても微動だにせず、そこに立ち続ける真っ白な灯台の力強さに感動していた。灯台の中には人が一人登れる幅しかない螺旋状の階段があり、春翔が先に、その直ぐ後ろを里子が続いて登った。

「里子」と春翔が上から呼んだ。

 里子が思いきり顔をあげると同時に写真を撮られてしまった。後から春翔のフォルダを見せてもらったら、他にも隠し撮りをされた里子の写真が一杯あった。自分でも知らなかった色んな表情を見せる自分がちょっと愛おしく思えた。里子のフォルダにも春翔に負けないくらいの枚数の春翔の写真が納められている。二人して同じことをしていることが可笑しかった。デッキに出た途端、春翔が屁っ放り腰になった。

「ちょっと待って。灯台ってこんなに高いの?」

 春翔は手摺にしがみついていた。

 確かに下から見るのとは迫力が違う。海を行き交う船から見えるように、断崖絶壁の上に建てられているのだから。

 里子は春翔に

「一緒に写真を撮ろう」というと春翔はひきつった笑顔で「いいの?」と言って赤ちゃんがハイハイをするように四つん這いで里子に近付いてきた。太平洋をバックに写真を撮った。カップルなら皆んな一緒に普通に撮ってる事だが、里子の年齢になるとどんなに頑張っても写真に年齢が写るのだ。ましてや十九もの年齢差がある春翔を隣に写真を撮るなんてチャレンジャーだ。だけど今日という日は二度と来ない、そう思うと二人で同じ時を過ごしているこの瞬間を忘れない為にも写真に収めたくなったのだ。

 全身、冷や汗をかいている春翔が突然、里子の唇に軽くキスをしてきた。

「誰かに見られる…」と言う間もなく、今度は激しいキスをしてきた。どんなにもがいても男の力には及ばない。里子はいつしかそのキスを受け入れ春翔の首に腕をまわしていた。時折、激しい風が二人を引き離そうとしているかのように吹いていたが、その度に春翔がしっかりと里子を抱きしめた。この二人を見守っていたのはどこまでも続く空と海だけだった。


 海の上に架けられた串本大橋を車で走り紀伊大島へ渡った。本州から淡路島へ架けられた明石大橋と比べたら壮大さは劣るが、間近に海があるため車が橋を走っているというよりは海を泳いでいるそんな感覚になる。島の周囲は二十八キロ、一周するのに一時間かからない。しかし、同じ関西圏にありながら、どこか違う国に来たような気になる。紀伊大島は台風銀座と呼ばれるほど幾度と無く台風に見舞われている。里子が見ている穏やかな海が人の命を奪うほど荒々しい姿に変貌する、その事を思うと全てのものは表裏一体である事を痛感させられる。生と死、幸と不幸、出会いと別れ、全ては常に背中合わせに存在している。無邪気に笑う春翔の裏側にはどんな顔があるのだろう。

 紀伊大島の沖で一八九〇年トルコの軍艦エルトゥールル号が座礁し五〇〇名以上が命を落とした。その時、大島村(現在の串本町)樫野の住民は総出で救助活動をし、食糧の蓄えがわずかであったにもかかわらず、衣類や卵、サツマイモ、非常食の鶏などを提供し生存者を救った。遭難事故が起こった二〇日後、日本海軍のコルペット艦『比叡』と『金剛』が日本を出航し一八九一年一月二日、約三ヶ月の航海の末、無事オスマン帝国の首都、イスタンブールへ生存者を送り届けた。

 その遭難事故で命を落とした人々のための大きな慰霊碑が建てられている。里子と春翔はこの平和そうに見えている紀伊大島の光景の過去に想像を絶する命の現場があった事に手を合わせずにはいられなかった。二人は手を繋ぎ樫野埼灯台へと向かう遊歩道を海からの風を受けてゆっくりと歩いた。

「ねぇ春翔。発見されなかった乗組員は永遠にこの海の何処にいるんだね。なんだか寂しい。家族や愛する人や友達に永遠に会えないね」

「いや、もう会ってるよ。あの世で楽しく一緒に過ごしているよ」そう言って繋いだ手を強く握り直した。

 この先、普通に考えても自分が先に死ぬ。その後、春翔が里子の年齢に達するまで生きたとして、その間、過ぎて行く時間を一人で過ごすのである。逆の立場だったら耐えられない。春翔と出会わなければそんな事を考えなくても良かったし、そんな気持ちにもならなかった。目の前にいる春翔は今、里子の一番近くにいて一番遠い人のように思える。あの世が本当にあったとしても、先に逝く里子自身も又春翔のいない十九年を過ごすのである。感情はそこにあるのか、そこに時間はあるのか、誰も教えてはくれない。里子は思わず春翔の腕にしがみついていた。春翔は何もいわず里子の髪を撫でてくれた。


 紀伊大島を後にした。本州最南端から北東へ向かって車を走らせると橋杭岩が見えて来た。今し方、後にした紀伊大島へと大小、列をなし岩がそそり立っている。日の出が美しい観光スポットだ。春翔が観光客に声をかけていた。

「里子、こっち」と手招きされていくと春翔が肩に手をまわしてきて、その観光客に

「お願いします」と言った。

 橋杭岩をバックに写真をお願いしていたのだ。あの人には私たちの関係はどう見えていたのだろうか? どう見えていたにしてもその人には何も関係がなく、すぐに忘れ去られる記憶である事は確かである。そう思うと開放感が感じられる。これは旅行の醍醐味の一つなのかもしれない。


 和歌山というところは山がつくだけあって本当に山が多い。全体の面積の四分の三以上が森林を占めている。『紀』の国は『木』の国から来ているそうだ。湾岸を走っていても反対側は常には山の景色がある。春翔の住む町からは山は見えない。見えるのは高いビルから煌々と光を放つ摩天楼だ。夜になると一層存在感をアピールしだすが、ここ和歌山は夜になると、昼間に見える青々とした海も空も癒しを与える山々も一斉に闇に吸い込まれていくのだろう。

 里子は、今日春翔と過ごす夜の事を考えていた。いつの間にか、運転する春翔の横でうたた寝をしてしまっていた。夢を見た。真っ暗で何も見えなくなってしまった里子は春翔の手を離してしまい、春翔を見失ってしまう。どんなに呼んでも春翔は答えてくれない。

「里子」

「里子」どこか遠くの方で春翔の声が聞こえる。

「春翔!」目を開けると春翔の顔がそこにあった。里子は思わず春翔の首にしがみついた。「里子どうしたの? 涙がでてるよ」

「ううん、なんでもない。ごめんね。寝ちゃってた」車の外を見ると、太陽が反射する海の光を浴び、ゆらゆらとかがやく白い建物が見えた。

「着いたよ。先にチェックイン済ませよう」と春翔に言われ、そこが今日泊まる宿である事が分かった。太地町の先にあるオーシャンビューの宿だ。宿が所有する海に面した広い庭には、遊歩道があり紫陽花やクレマチス、ユリ、ランタナ、蛍ブクロなどの花が咲き乱れていた。春翔がフロントで手続きをしている間、里子はロビーから見える景色に見とれていた。

「奥様、お荷物をお持ちします」と係りの若い女性に声をかけられ戸惑ってしまった。

「お待たせ」と春翔が嬉しそうに走って来た。 春翔は浮き足立っていたが里子は「奥様」と言った係りの女性がどのように自分を見ているのかを考えると恥ずかしくて穴に入りたい気持ちだった。里子は昔からマイナス思考なのだ。春翔はそんな事を里子が考えているなんて全く知らず手を繋いで離さなかった。

 宿の中には大浴場と露天風呂、外の庭には海を眺めながらくつろげる足湯があり、最上階にはお酒を楽しめるバーが設けられている。客室係りの女性が館内の説明をしながら部屋へと案内した。扉の向こうには太平洋が一面に広がっていた。ベットのある部屋からも海が見え、ジャグジーからも海が見え、何処にいても水平線まで見渡せる素晴らし部屋だ。一通りの説明をされ客室係りは部屋を出た。里子が窓を開けバルコニーに出ると潮の匂いと共に風が里子の体を通り抜けた。春翔が後ろから里子を抱きしめ、二人だけの時間が心地よい波の音と共に過ぎた。

「里子、日没まで時間あるから温泉に入りにいこう」

「分かった」

 クローゼットには紫陽の花柄の可愛い浴衣が準備されていた。男湯と女湯を出たところに休憩する場所があり、そこで待つ事を約束し、それぞれの扉の向こうに消えた。早い時間と言うこともあり浴室には里子一人だった。手に届きそうなところに海が見える。里子は何気なく目の前にあった鏡に自分の体を写してみた。体重は変わっていなくても若い時とはやはり違う。里子は少し弛んできた下腹に手をやり、五十四年間の月日が流れている事を実感した。露天風呂に身を沈め今日の事を思い出し、静かに目を閉じると「里子」とかすかに聞こえてきた。

「春翔?」

「誰かいる」

「いないよ」

 次の瞬間、つい立の上からお湯が降ってきた。

「春翔! やめて」と大声をだしたが春翔は子供のようにはしゃいでやめようとしない。里子もやり返してやった。

 対戦は永遠に続くのかと思ったが春翔の方に他の客が入ってきたのであっけなく終わった。里子が女湯から出ると春翔はすでに椅子に腰掛け、昔から銭湯ある定番のコーヒー牛乳を海を見ながら飲んでいた。「お待たせ」と声をかけると春翔は暫く里子をジッと見て目を離さそうとしなかった。

「何かおかしい?」

「里子、その浴衣よく似合ってる。可愛い」「恥ずかしいからやめて」

 サッサと部屋に戻ろうとする里子の手を春翔が走ってきて繋いだ。自分に向けられる可愛いなんて言葉は、いつの間にか自分とは無縁になっていたけど、やっぱり嬉しかった。

 太陽が太平洋に沈む時間を狙い、春翔と里子は遊歩道になっている宿の庭を歩いた。あんなに青く輝いていた海が静かに色を変えている。赤でもないオレンジでもない自然の作るこの吸い込まれそうになる光景をどのような言葉で表したらいいのか里子には思いつかない。海が燃えた。その直ぐ後ろからは光を失った闇が迫っている。あまりの美しさに里子は春翔の手を強く握りしめて感動で言葉を完全に失った。春翔も静かに沈みゆく夕陽を目を細めて見入っていた。


 夕食は海の幸をふんだんに使った創作料理だ。春翔は純米吟蔵『南方』を頼んだ。このお酒は紀州の豊かな自然の恵みに育まれてできた華やかでキレのいいお酒と注釈あった。仲居さんがワイングラスとともに運んできて静かにそそぎ入れた。春翔は香りを嗅いで一口飲んだ。里子も一口飲んだ。体中をアルコールが駆け巡った気がした。窓から見える海は夜の顔に変わっていたが遠くに光る漁船を見ながら美味しいお酒と料理を頬張る、そして前には春翔がいる、なんて贅沢な時間を過ごしているのだろう。春翔は、地元の日本酒を三杯飲んでいたが里子はたった一杯で酔いが回り、それ以上は飲めなかった。食事の最後に出てきたのは紀州の名物みかんを使った濃厚なシャーベットだった。完食だ。

 部屋に帰った途端ベットになだれ込み、二人して満腹のお腹をさすった。春翔の腕の中でこの上ない幸せを感じていた。

「里子、貸切風呂予約してるんだ。後で行こう」と春翔が耳元で囁いた。

 春翔と付き合い始めて5カ月、二人でお風呂に入った事はないし、明るいところで何もまとわぬ体を見せる事ははばかれていた。里子の年齢の多くはきっと隠したい所だらけなのだ。ただ、今の状況は歳のことを忘れさせてくれている。それに、又こうやって春翔と旅行に行けるとも限らない。

「うん、わかった」と春翔の腕の中で答えた。

 貸切風呂には露天風呂も付いていた。先に入った春翔はすでに露天風呂にはいり、目を閉じ波の音をきている様だった。里子は音を立てずにそっと春翔の横に身を沈めた。春翔の手が里子の肩を抱き長いキスをした。闇の中から聴こえてきたのは岩肌に打ち付ける波の音。二人を見ていたのは夜空に散りばめられた星。春翔の胸の鼓動は里子の素肌から伝わり、里子の鼓動も春翔の素肌から伝わっていた。里子はずっと春翔に聞いてみたい事があり、思い切って質問した。

「春翔。聞いてもいい?」

「いいよ。何?」

「ずっと不思議だったんだけど、どうして私だったの?」

「直感。里子がソレイユのショーウィンドウで髪の毛を直してた時、最初から中からずっと見てた」

「もー恥ずかしい」

「その時にやっと出会えた。この人だ。俺はこの人を待ってたんだって感じたんだ」

「こんなおばさんを? 夫がいてるかもとか思わなかったの?」

「何度も言うけど年齢なんて関係ない。里子がだれかの奥さんかもなんて事は全く考えてなかった」と言って笑った。

「ただ一つ言えるのは俺の事を一番知っていて欲しい人を見つけた。それが里子」

「里子はおれの事好き?」と唐突に聞いてきた。里子は自分自身に確認するように答えた。「初めはからかわれているんだと思ってた。でも、今はとても大切な人、愛しい人と思ってる。好きと言う言葉よりももっと深いような気がしてる」と答えた。どちらから求めるとでもなく深いキスをした。夜はふけていった。


 闇が沈み太陽が顔を出し空が燃え始めていた。春翔と里子はベットの上で生まれたままの姿で抱き合い眠っていた。開けっ放しの窓の外から陽の光が差し込み、先に目覚めたのは里子だ。春翔の腕からそっと抜け出しバスローブを羽織ってバスタブにお湯を溜めた。お湯が溜まるまでの間、バルコニーから朝が明ける海を見ていた。みるみるうちに空は青くなり、海も又、空の色に負けないくらいの青さを取り戻している。里子はバスタブに浸かり、昨晩の余韻を残した体を抱きしめ春翔との事を一つ一つ心に刻んでいった。暫くすると春翔が入ってきて、おはようの代わりに軽いキスを交わし眼下に広がる太平洋の海原を二人は静かに見つめた。

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