第6話 部屋

 里子が二十七年間通い続けている会社近くの道路に、いつ頃からか街路樹が植えられていた。毎年、四月になると花をつける。冬になると葉がすべてなくなり、その存在を消している。街路樹が自ら存在を消しているわけではなく、道行く人がその存在に気がついていないのだ。街路樹に目をやると花芽がついていた。街路樹の名板を見るとハナミズキとなっていた。今のいままで名前なんて気にもしていなかったので、これが大ヒット曲の題名になった『ハナミズキ』なんだと初めて知った。ハナミズキってどんな花なのかスマホで調べると花言葉が載っていた。


『私の想いを受けて下さい』


 春翔との付き合いが始まって三ヶ月が経ち里子の生活は一変した。会社と帰りに立ち寄るスーパー、そして家の往復を二十七年間続けていたが、今は週の半分、春翔の部屋で夕御飯を食べるようになった。と言っても春翔の仕事は夜、里子の仕事は昼、すれ違いの生活だ。里子が春翔の部屋でご飯を作り、一人で御飯を食べる。そして、春翔の夕食をテーブルの上に手紙と一緒に置いておく。だから、以前と同様に一人である。しかし、里子の心は満たされていた。それは、里子を必要と思ってくれる人のために、そしてその人に喜んでもらいたいためしているからだった。

 里子が来る前は、春翔の部屋にはテーブルはなかった。ダンボールを逆さまにしてテーブル代わりにしていたというかテーブルは不要だったのだ。二人で始めて出かけたのは、近くにあるチェーン店がたくさんある家具屋さんだった。そして、二人で決めたのがこの白を基調としたローテブルだ。テーブルが一つ部屋の中にあるだけで今までとは違った。一気に生活感がでてくる。春翔の部屋には無いものが山ほどあった。例えば、お箸やお茶碗、湯のみ、料理に使う調味料や鍋もなかった。春翔が何を望んでいるのか始めは手探り状態だったが、鬱陶しがられる事や重荷になる事だけは避けたいと里子は常に思っていた。一人になりたい時もあるだろうし、付き合いもあるだろうし、色んな事を里子なりに考え接してきた。その中で春翔が一番喜んだのは、里子が作る手料理だ。いっしょにご飯を食べるのは土曜の晩だけなのだが、何度も何度も「おいしい! こんなの食べたことない。また作って」と子供のように喜ぶ春翔を見て、会えない日も里子は春翔の部屋に行きご飯を作るようになった。

 ある日、春翔と里子の色違いのお箸(夫婦箸)を里子は買った。でも、暫くの間、自分のお箸はカバンの中で眠っていた。なんだか、夫婦でもないし、恋人と世間様に堂々というのは憚れるような後ろめたい気持ちがあり、何より春翔に年相応の彼女が出来た時、そんな物があったらいい気持ちはしないと思い、鞄の中で眠らせていたのだ。春翔と付き合った日から二人には普通のカップルが持つような未来はないのだと、里子は覚悟をしていた。だから、その日が来た時に里子の形跡を消せるようにしたかった。里子にとって春翔との恋は、おそらく人生最後の恋だが、可能性として春翔はちがう。


 いつも願うことは

 ほんの少しわたしだけを見て

 ほんの少し抱きしめて

 ほんの少しあなたの時間をください


 その思い出があれば残りの人生は悔いはないと里子は思っていた。

 里子なりに何事も目立たぬように心がけて春翔の部屋を訪ねていたつもりだが、以前と比べるとまるで別の部屋になってしまっていた。ランダムに置かれていたワインの本も棚に収まり、ベットのカバーもカーテンも明るいものにイメチェンをした。食器も増えて、生活がしやすい居心地の良い空間になってしまった。一人息子、涼は、里子が与えてしまった居心地の良い空間のせいで家をでて一人暮らしをしようなんて、見ている限り考えている様子はない。不屈の精神を持っていない限り、人は楽なほうになびいてしまう動物なのかもしない。春翔がこの生活に慣れてしまい、春翔の目指す頂点が見えなくならないように、里子は自分に歯止めをかけながら、付き合っているつもりだ。里子が春翔の部屋に通いだしてから変わらないのは、この部屋には陽が当たらないという事だけだ。

 土曜の夜は春翔の部屋に泊まり、日曜は朝から二人で過ごす事が時々あった。夜遅く帰って来る春翔を里子は起きて待ってる。「おかえり」と言ってあげたいからだ。春翔は酔っているのか、里子に必ず抱きついてき、甘えてくる。里子は春翔の背中に手をまわし大きな子供をギュッとハグをする。そして、春翔は決まって里子の唇にキスをして耳元で「したい?」と聞く。里子が「大人はそんな事聞かないよ」と言うと「したくないの?」と意地悪く聞いてくる。何度同じ会話をしたかわからない。でもそれはいつも新鮮であり愛おしく切ない思いに里子をさせた。ベットの中ではお互いの体温をすぐに確かめられるよに抱き合って眠った。

 日曜は春翔と陽の当たるカフェへ行き、ゆっくりお茶を楽しむ。春翔はワインの本を読み、里子はその横で春翔の顔を盗み見しながらぼんやり人が行き来するのを見ていた。そして、春翔、何が食べたいかなぁ。何を作ろうか。なんて考えていると春翔が「肉じゃがいい」とか「とんかつ」とか言ってくる。そして、二人でスーパーに行く。特別な何かをするわけではなく、どこにでもあるありふれた生活だ。ただ、周りにはカップルでも夫婦でもなく、親子に見られているんだろうという思いをかき消すことは出来なかった。だから、どこへ行く時も春翔に悟られないように少し距離を取って里子は歩いた。ある日、知ってか知らずか春翔が、里子に手を伸ばしてきて里子の手を捉えた。思わず、手を引っ込めようとしたが春翔は離さなかった。里子は恥ずかしいさで、ずっと下を向いて歩いていたが、時と共にそれは自然な行動になり人混みに吸収されていった。

 

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