第5話 鍵

 次の朝、春翔からのラインの着信音で里子は目覚めた。とても深く眠っていたようだ。

「里子、昨日はありがとう。ムッチャ嬉しかった」と書いてあった。

 昨晩のことは里子にとって、いにしえに置き去りにしてきた女の性を呼び戻すものであり、それ以上に里子を切なくさせていた。

「おはよう、春翔くん。私に出来ることはあんな事ぐらいです。いつも応援してるから」と返信した。

 その日、里子は初心者向けのワインの本を買った。ワインを知ることが春翔を知ることのように思えたからだ。違う、ワインは春翔そのものだからだ。

 本には葡萄畑の写真が載っていた。どこだろう? ボルドーと書かれている。フランスだ。違うページにはブルゴーニュ、ここもフランスだ。海外と言えば、里子はハワイに行ったきりだ。それも、別れた夫と行ったのだ。その時の写真は夫の所だけビリビリに破いて里子一人がピースサインをして笑っている。なんとも滑稽なアルバムが本棚に未だに居座ってる。

 本によるとボルドーとブルゴーニュのワインは瓶の形からして違うそうだ。いかり肩がボルドー、なで肩がブルゴーニュ。ボルドーのワインは熟成と共に柔らかく丸みを帯びるため長熟タイプに向いている。ブルゴーニュのワインは渋味がソフトで酸味もしっかりしているので、若くても美味しく飲める。単一品種で醸造するのが特徴らしい。ブルゴーニュが春翔でボルドーが里子、そんな事を考えていた。ページをめくると色んな人がワインについての名言を述べていた。


 ゲーテ

 『ワインのない食卓は太陽の出ない一日』

 

 ビクトル.ユーゴ

 『神は水を創り、人はワインを造る』

 

 小沢一敬

 『年齢とか気にするの、ワインだけで良くない』 


 あの夜、春翔が年なんて気にしなくていいと言った、その言葉が思い出された。春翔は老いが始まった里子の体を見て、どう思ったのだろうか。どう感じたのだろうか。その事が気になりつつも里子の体は春翔を愛おしく求めている。決して誰にも知られてはならない里子の秘密だ。

「今度、いつ会えますか?」

 春翔からのラインだった。本心は今すぐにでも春翔に会いに行きたい。なのに返事するのをためらっている。この先、会えば会うほど春翔を片時も忘れる事が出来なくなる。そして、会えば会うほど、里子は春翔を幻滅させるのではないかと考えると臆病になるからだ。この一瞬にも老いが追いかけてくる。逃れる事のできない現実なのだ。

 里子の勤める自動車整備工場の社長はなかなかのやり手だ。色んな業界の人との繋がりがある顔の広い人である。だから、車の修理も色々な所から依頼が来る。今、流行りの軽バンタイプから見た事もないような高級車もやってくる。つい先日、真っ赤なスポーツカー・ランボルギーニがやってきた。持ち主は社長のゴルフ仲間で、この五年ほどで急成長し、テレビにも『やり手女社長』として時々顔を見せるマダム・シモーネだ。なんでも、よそ見をしていたマダム・シモーネが自転車と接触したと内緒で修理を依頼してきた。ちなみにマダム・シモーネは日本人。本名は吉田美智子だ。スタイル抜群、髪型もゴウジャスに明るい色に染めた所にブリーチをいれクルクルとカールさせた今流行りの外国人風だ。里子もこの髪型に憧れていたが、年を重ねると隠す所が多くなり、それどころではなくなった。不潔に見られないように短めのボブにしている。マダム・シモーネは後ろから見たら三十代に見えるが実際は六十六才だ。前からみても確かに美しさはあるが、何か悲しいものを感じるのは里子だけなのか。若い肌とはちがって絶え間ぬ努力がその顔には滲み出ている。彼女の夫は二十二才年下の超イケメンだ。彼女が銀座のクラブのママをしていた時、街で酔いつぶれていた今の夫、真也に声を掛けたのが二人の出会いだ。その後、二人がどの様な人生を歩んできたかは知らないが、今では長蛇の列が出来るシモーネのプディングをヒットさせた。いつも二人一緒だ。マダム・シモーネは真也の事を『しんちゃん』と呼び、真也は『ママ』と呼んでいる。しんちゃんはママより若くて綺麗な女の子がいいと思う事はないのか? ママはしんちゃんがいつか自分を捨てるかもという恐怖はないのか? 聞けるものなら聞いてみたいと里子は思った。しかし、聞いたところでマダム・シモーネのように商才など里子にはないし、春翔に何かしてあげられるわけでもない。今まではこの二人を好奇の目で見ていたが、今の里子には羨ましく思えている。人は自分の置かれている立場が変われば、それに応じて考えて方をかえるのだ。 

「今晩、お店に行くね」と返事をしたのは春翔からのラインをもらって六時間経ってからの事だった。春翔はなかなか返事がこないので里子が「何か怒っているのではと心配したよ」とラインを送ってきた。それは逆で愛おし過ぎて怖いからなのだ。

 里子は洗面所に行ってファンデーションを念入りに塗った。だが、年を取ると塗れば塗るほど変になっていく。里子は今しがたつけたファンデーションを拭き取り、リップだけをしっかりと塗り直した。髪の毛も前回の毛染めから三週間、老いの代表白髪が見えている。あっちへこっちへ分け目を変えてみたが無駄な抵抗だった。今日は諦めて五十四才の里子そのもで春翔の店に行く。これで春翔が幻滅したって構わない。もし春翔と付き合っていくことになれば、この先、常に幻滅される心積もりが必要になる。しかし、これが小川里子、私なんだ。

 春翔の勤めるワインのお店ソレイユの扉の前に里子は立った。深呼吸をして勢いよく里子は中に入った。すでに三人の客がカウンターに座り、ワインを楽しんでいた。

「いらっしゃいませ」

 里子にここに座ってといわんばかりに手を差し伸べてきた。客と五つ席が離れたところに里子は座った。カウンター越しに春翔の顔を見ると春翔も里子の顔を見て微笑んだ。春翔はブルゴーニュのワインを里子のグラスに注いだ。なで肩の瓶の形だから間違いない。ブルゴーニュと里子は心の中で言った。

「里子、わかるの」と嬉しそうに言ったので

「えっ、その…」と答えにならない返事をしてしまった。

 その時、春翔がグラスの横に封筒を置いた。中をみると鍵が入っていた。春翔の部屋の鍵だ。これはどういう事なのか頭の中で必死に整理しょうとしたが完全にショートしている。春翔は「待ってる」と里子の耳元で囁いた

『待ってる』この言葉が里子の体に新しい血を通わせ、里子の存在が誰かに認められたそんな感覚をおぼえた。一人息子の涼が家に帰るだけの日常となり、里子は誰にも必要とされなくなった。それは、誰からも姿が見えない存在になっているような感覚で、寂しさを感じていた。こんな私が誰かに必要とされる事が嬉しかった。 

 里子はワインを飲んで落ち着こうとした。しかし、それは逆効果で動悸がマックスに達してしまっていた。これ以上ここにはいられない。里子はワインを一気に飲み干し、お金を置いて一目散に店を出た。その左手にはしっかり鍵を握りめていた。里子は当てもなく歩きながら春翔の事ばかりを考えていた。

 春翔は本当に私の事が好きなの?

 どこにでもいるおばちゃんだし、

 お金があるわけでもない。

 私のどこが好きなの?

 じゃあ、私は春翔のどこがすきなの?

 

 自然と答えはわかった。

 

 好きという気持ちに理由はないんだ。

 

 なんでも理由がいると思っていた里子にとって衝撃的な事実だ。どこで? なんで? だって…。そんな事どうでもいいのだ。ただ自分が傷つくのが怖くて理由を探していただけだった。こんなに愛おしく切なくなる気持ちは、誰に対しても湧いてくるものではない。恐らくこの先にはない。里子は一年先、いや、もしかして明日終わるかもしれない春翔との関係を受け入れようと心に決めたのだ。

 

「春翔、さっきは急に帰ってしまってごめんなさい。年甲斐もなく動揺していました。こんな私で本当にいいの?」

「里子でなければ意味がない。俺と付き合ってください」

「よろしくお願いします」

 

 吐く息は白く、まだまだ寒さが身に染みる季節だった。だが、里子の心は温かかった。



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