第3話 募る思い
次の日から、里子は敢えて忙しく動きまわることで、春翔の事を考えない努力をした。そう努力だ。空白の時間ができると春翔がいつの間にか、そこに侵入してくる。安達さくらが里子に近付いて来た。
「小川先輩、何かいい事あったでしょう」と語尾を上げて話掛けてきた。「あるわけないでしょ」とあしらった。その直後にトイレへ駆け込み、鏡に映る自分の顔を見ると頬が真っ赤になっていた。十五や十六の小娘じゃあるまいし、里子は自分の頬をパパンと叩き平常心を取り戻そうとした。それからの一週間は里子にとって、とても長い時間のように思えた。忘れようと思っても忘れられない。これは、恋? まさか、十九才年下だよ。子供だよ。私が小学校の頃に見てた、ドロロンえん魔君、エースをねらえ、ジャングル黒べえ、バビルⅡ世、アルプスの少女ハイジ、キューティーハニー、侍ジャイアンツを春翔は知らない。生まれていないのだ。それどころか姿形さえない。どうでもいい事を考えて、この一週間を過ごしたのだ。これといって何もしていない。だけど疲れた。きっと恋をするのは体力がいるのだ。今夜は、あのワインを飲んで寝よう。
里子はその日も一人の夕飯をとった。湯船にゆっくり浸かりながら、昔の歌を口ずさんだ。「もしも願いが叶うなら〜」あの頃、中尾美沙とよく歌ったなぁ。金曜日の妻たちへのテーマソングだ。最近の歌はリズムが難しすぎて歌えない。それどころか、どれも同じに聞こえるので違いがわからない。
一人の夜は果てしなく長い。テレビは一人で喋り続けているが全く内容は入ってこない。隣に誰かいてくれたら…。里子はいつの間にか深い眠りについていた。
街の至る所では、クリスマスのネオンが楽し気に光っている。今日はクリスマスイヴなのだ。春翔の勤めるワインのお店、ソレイユも掻き入れ時なんだろうと働く春翔の姿を想像していた。メッシュの入った外ハネのヘアースタイルが何故かよく似合う春翔。
会いたい。
会社帰りにソレイユの先にあるCDショップに行こうと決めた。前をさり気なく通る。それだけでいい。少しでも近い距離に身をおきたい。一人息子の涼はスマホで色んな曲をダウンロードして聴いているが、何度やり方を教わっても理解しない里子に呆れてしまい、お願いしても後でと言って永遠にやってくれない。という事でCDショップには時々行っている。
里子の視線の先にソレイユが見えてきた。胸が高鳴るのがわかった。ソレイユもクリスマスのデコレーションが施されていた。出来るだけ自然にソレイユを通過する、その事だけに里子は集中したつもりが、緊張のあまり足が震えてよろめいてしまった。
「アッ!」里子が倒れるよりも早く誰かが里子の腕を掴んでいた。
「里子さん、大丈夫ですか?」
「春翔!」
目の前に春翔がいる。
里子は、次の言葉がみつからなかった。二人の間に沈黙が続いた。それはひどく長い時間のように思えたが実際はほんの数秒の事だった。この沈黙を破ったのは春翔だ。
「俺、ずっと待ってたんですよ」と里子を起こしながら、そして里子の顔を覗き込んで言った。嘘でもうれしかった。五十四才の里子は、張り裂けそうになるぐらいの胸の痛みを覚えた。
ソレイユの店内にはロウソクの火が灯されバックミュージックにはホワイトクリスマスの曲が静かに流れていた。春翔は星が散りばめられたワイングラスにシャンパンを注ぎ
「メリークリスマス、里子さん」と言ってグラスを傾けた。
「メリークリスマス、春翔くん」と里子もグラスを傾けた。
時間がこのまま止まってくれたら、私が二十才わかかったら、たら、たらが頭の中をメリーゴーランドが回転するようにゆっくりとまわった。手の届くところにいる春翔を目の前にして、…たらの言葉を打ち消す事は五十四才の里子にはできなかった。
里子は自分が幾つであるのか、春翔と十も違わない息子がいる事、近頃では小さ文字が読みづらくなっている事、この寒空に一人、顔から汗をかく事、同じ体勢をしたら急には立ち上がれない事、十五年前に離婚をした事、いかに里子の目が腐っていたかをできる限り面白可笑しく春翔に聞かせた。ここは笑うところのはずなのに、春翔は笑わなかった。笑ってよと里子は心の中で叫んでいた。
「俺、笑えませんよ。必死で生きているのに何で笑えるんですか」と真顔で言われ、里子は何も返す言葉がみつからなかった。ただ、耳に入ってきたのは二十九年前に流行っていたドラマの主題歌サイレントイブのオルゴール調のバックミュージックだった。誰もいない店内に若いカップルが入ってきた。里子は、おばちゃんの妄想は終わりにしようとようやく決心がついた。
「春翔くん、今日はありがとう。たまには、若い子とお話しするのもいいものね。お会計してください」と里子はぎこちない笑顔を作り言った。
「里子さん、スマホ開けてください」と言われ、里子の手から奪い取ったかと思うと、あっという間に里子の手にスマホが戻ってきた。中を見るとラインのところにお友達追加がされていた。サッカー選手がガッツポーズをしている写真が載っていた。その横に弘岡となっていた。今日は会えて嬉しかった、ありがとうとラインのところに入っていた。里子はメリークリスマスと送った。
ソレイユを出たら、空からは雪が降っていた。
クリスマスが終わると瞬く間に、街はお正月を迎える準備にとりかかっていた。里子は何年も前からおせちは作っていない。理由は簡単だ。誰も食べないというか食べる人がいないからだ。涼は毎年のように年末年始は信州へスノボーに行ってしまい、里子は一人、家で過ごしている。早く仕事が始まったらいいのにと思っているのは世界中で里子一人ではないのかと、この時期いつも感じていた。
こたつの上のみかんを食べながら、あの日の事を思い出していた。妄想はやめると誓ったその日に、あっけなく決意は崩れ去り優柔不断な自分に呆れた。メールの交換をしたもののあれから春翔からの着信はない。何度もメールを開けては閉じを繰り返し何を期待しているのやら、自分で自分が情けない。
大晦日を迎えた。紅白歌合戦も見る気がせず、里子は早々に布団にはいり目を閉じた。暗闇の世界に引きずりこまれようとした。とその時、メールを知らせる着信音が鳴り、現実世界に引き戻された。
「会いたい」
その一言だけのメールだった。差出人は春翔だ。これは営業メールなのだと自分に言い聞かせた。
「新年はいつから営業ですか? また、行きます」
「そうではなくて…」
里子は、おばさんが引っかかったら一万円、なんて友達ときっと賭けでもしてるんだ。カウントダウンで盛り上がってるんだ。からかわれているに違いないと思い返信をするのをやめた。しばらくすると
「ごめん。ほんとごめん。嫌なら忘れてください」とラインがきた。
里子はどのように返事をしたらいいのか分からず、結局そのまま眠れぬ夜を過ごし新しい年を迎えた。
新年を迎えた朝に
「明けましておめでとう」とだけをラインを入れた。
二人を繋ぐラインという手段がもどかしくて仕方がない。相手が笑っているのか、泣いているのか、寝ているのか、起きているのか、一人で寂しくしているのか、皆んなで楽しく過ごしているのか、全くわからない。それなのに無機質に自分の言いたいことだけは送れる。そこには感情はない。
「俺のこと好き? 嫌い?」
これはどういう意味なんだろう。里子は何度もメールを打ち直し、ようやく返信をした。「好きか嫌いかと聞かれると好きです」と応えた。
「俺と付き合ってください」と即座に春翔から返ってきた。春翔は直球を投げてきた。だけど、もしかしたら酔った勢いで言っているだけかもしれない。付き合うってどういう意味? 男と女の関係? どうみたって親子だよ。里子は散々迷った挙句に
「酔ってるでしょ! 私が二十才若かったらね」と返信した。
返事のないまま、初出を迎えた。
会社帰りに、珍しく安達さくらが声をかけてきた。
「小川先輩、これから何か予定あります?」と語尾を上げて聞いてきた。
「別にないけど」
「じゃあ決まり。一杯行きましょう」と半ば強引な誘いであったが、一人の家に帰る気にもなれなかったので承諾した。
会社から十分ほど歩いたところに、小洒落た居酒屋があった。店内はすでに女子が大半を占領している。安達さくらとこうやって向き合うのは初めてだ。綺麗な肌、艶やかな唇、可愛い花が散りばめられたネイル…若い。春翔に似合うのはやはりこれ位の年齢の女の子なのだ。私ではない。分かってはいるけどその事がやけに里子を悲しくさせた。何も始まっているわけではないけど虚しかった。
安達さくらはお酒ならなんでも来いというタイプなのか、来て早々に生ビールを二杯を美味しそうに飲み干した。続けて酎ハイにハイボール、今しがた焼酎のロックを注文している。ちなみに里子はまだ一杯目の酎ハイを飲み終えたところだ。すでに頭のてっぺんから足の先まで、真っ赤になっている。
高校生の頃、ディスコの最前線だった。もちろん高校生はディスコには行けない。しかし、化粧で大人に変身して友達と何度か行ったことがある。受付のところで、年齢を聞かれるので事前に西暦と年号を覚えておけば、なんなくパスできた。その頃流行っていたお酒はバイオレットフィズ、チチ、ソルティードッグにブルーハワイなどの彩りのいいカクテルだ。里子も「ジュースだよ」と言われ飲んだことがある。一気に酔いが回り踊るどころか、トイレから出られなくなった苦い経験があった。
「先輩、最近雰囲気かわりました〜? なんていうか、艶っぽくなったというか彼氏でもできました?」
「いるわけないでしょ」
「顔、赤くなってますよ」と突っ込まれてしまった。話題を変えなければと思い
「さくらさんこそ、彼と結婚しないの?」と聞いた。
するとみるみる顔が変形してきて、大粒の涙が溢れだし、ワンワンと声を上げて泣き出してしまった。里子はあまりの変わりようにただただ、うろたえるばかりで、周りの冷ややかな眼差しが痛かった。里子はなんとかさくらを落ち着かせようと、背中をさすってみたり、話題を変える努力をしたけど糠に釘だった。何があったのかは知らないが普段あんなにクールに装い、感情を表に出さない安達さくらなのに、人には違う一面が必ずあるんだと今更ながら認識させられる。とりえず店を出たが、さくらは泣き続け、二人を道行く人が横目で見ていく。まるで里子が泣かしたようだ。確かにきっかけは里子が作ったのようなものだが、いつも天真爛漫そうに見えているさくらにも、辛い時があるんだと少し共感というのか、親近感がわいた。可愛いとこあるやん。
三十分ほどすると落ち着きを戻したさくらが「どこかで話きいてください」と甘えた声で言ってきた。どこかと言われても、この二十七年、会社帰りの寄り道と言ったらCDショップと駅近の安売りスーパーのみである。これまた、なんと面白くない人生を歩んできたのかと悔やまれた瞬間だった。そんな里子でも、一つだけ知っている店があるのはある。たった二回しか行った事のない店だが、よく考えるとあのような店にたった一人で入った事は、里子の人生において一度もない経験だった。さくらは子供のようにしゃくり上げている。このまま家には帰せない。一大決心をしてソレイユに行くことにした。それにしても、里子の今日の服装はひどい。ジーンズは最近買った細身のものだが、上に着ているセーターは何度も捨てようと思ったが捨てれないでいる毛玉のくっついた二十年前のセーターだ。でも、これが里子なのだ。春翔が幻滅したらそれはそれでいい。そもそも親子ほど年が違うのだ。下着だってワコールやトリンプのブラとショーツのセットを着けていたのは遥か昔の事。今は、ブラがキャミに付いているブラトップ、ショーツは三枚セットで七百八十円、セールの時は五百八十円の超お買得になり、深さは八センチ以上ある。ショーツなんて可愛い言い方は憚れる。ババパンである。そんな事は今はどうでもいい。とにかく安達さくらが再び泣き出す前に移動をしなければならない。ソレイユの扉の前に立ち深呼吸をした。唇のリップはハゲハゲ、ファンデーションだって酷いことになっている。髪の毛はさくらに抱きつかれてクチャクチャだ。まるで寝起きの顔、笑える。これで、息子がすてたジャージを着ていたら、完全に五十四才の里子、オフの顔だ。扉を開けた。
下を向いていた春翔だったが「いらっしゃいませ」と言うと同時に顔をあげた。春翔はすぐに里子が大変な状態である事を察し、慌ててカウンターから出てきてくれた。そして、足元がおぼつかないさくらを拾いあげてくれた。今ごろ気がついたのだがさくらはかなり酔っている。いや、むちゃくちゃ酔っている。お酒がいける口ではなく、何か辛いことをお酒で紛らせていただけなのだ。カウンターに座り、改めてさくら顔を見た。あんなに艶やかな唇が、都市伝説で一世風靡した口裂け女のように横に長くリップがはみだしていた。長い睫毛は片方がなくなっていた。可愛くクルクルとカールした髪も今となっては山姥だ。里子は自分の姿はさて置き、あまりの変わりように思わず吹き出してしまった。春翔も声をだして笑っていた。春翔が笑ってる。笑うとこんな顔をするんだ。本当に可愛いと思った。
「里子さん大変だったでしょう」と里子のボサボサの髪を見て言った。さくらに彼のことを聞いたら急に泣き出してしまった事を話した。隣ではさくらが冷たい水を一気に飲み干していた。春翔が優しい声で「大丈夫?」とさくらに話しかけてくれたが「大丈夫な訳な〜い」と大声で言ったかと思うと、今度はシクシクと泣き出した。
なんでも彼は十才年上のイケメン。大手コンピュータ関係の会社で働くSEとやらで、街コンで知り合って六ヶ月、結婚願望が元々強かったさくらはほんの少しその話をきりだした。すると彼は君と結婚するつもりはない、他に結婚を前提に付き合っている彼女がいる。もう会うのはやめようとあっさり振られてしまったというのが大筋の内容だった。
春翔がフランスのボルドーの赤をグラスに注いでくれた。うーん、春翔の前で老眼鏡掛ける勇気はない。里子にとって銘柄は全く持って関係ない。ただ、春翔がどのようなワインを選んでいるのかということには興味があった。ワインのお店エペメルで春翔がノートに何やら書いていた事を思い出していた。真剣な眼差しだった。春翔の事がもっと知りたい。だが聞いてどうする、里子の人生は確実に折り返している、春翔はこれからなのだ。夢や希望、目標を叶うべく前に進んでいる。ふと、横のさくらを見るといつの間にか寝息をたてていた。春翔言った。
「こないだのメールは本気なんで。年の事は気にしないで下さい」里子は胸が張り裂けそうになり言葉が出ない。ようやく出た言葉は「タクシーを呼んでもらっていいですか」だった。
さくらを家まで送り届け、緊張の糸が切れた。タクシーのドライバーに行き先を告げると後は力なくシートに深く沈み込んだ。
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