第2話 偶然
里子は昨日と同じ朝を迎えていた。
パンを焼き、コーヒーをいれ、一人の朝食を摂った。一つだけ、昨日と違っていたのは今日が土曜日で会社がない事だ。
朝、涼を起こしに行くと「今日、休み」と怒られて気がついたのだ。里子は休みの日でも五時に目が醒める。三年ほど前から朝寝坊ができなくなった。そして急には、布団から起き上がれず、伸びをしたり、足首をまわしたりし、ようやく布団から抜け出すことができる。それからストレッチをし、朝の準備にとりかかるのだ。これが五十四才という年齢なのだ。
学生時代の友達と会うと、何故かホッとする。見かけは多少の違いはあっても、中身は同じということに安堵を覚えるからだ。その昔はもっぱら彼氏の話や結婚の話。時間の経過と共に子供の話題になり、夫の愚痴でテンションマックスに。そして最近では親の介護の事、健康の事が話題にあがっている。ついこの前に集まった時には、何fと血圧の話に花が咲いた。二十歳の頃に、こんな話を三十年後にしているなんて誰が想像しただろうか。時間は刻一刻と過ぎている事を実感させられるお年頃なのだ。
「春翔にはわからないよね」無意識に声にだして独り言を呟いていた。
今日は美容院行く予定だ。根元に出てきた白髪とピョンピョン跳ねる右側の髪の毛をなんとかしなくてはと思っていた。白髪は一ヶ月ももたない。凄い勢いで老いて行くのだ。鏡を見る回数は減った。というよりは見ないようにしている。鏡に映る自分の顔が、見事に期待を裏切るからだ。これが現実の私。「嫌いじゃないよ」と言ってあげたい、いつもそう思っている。
この美容院へ行くのは今回で二回目。会社に派遣で来ている二十三才の安達さくらに教えてもらったのだ。
ある日、安達さくらの髪の毛をジッと里子が見つめていると「何か言いたいことでもあるんですか?」と言われた。
「ごめんなさい。あまりにも綺麗な髪なので見とれちゃって」と素直に里子は答えた。すると安達さくらは里子の白髪混じりでヨレた髪を一瞥して
「お金、かけてください」と呆れた顔で冷たく言われてしまった。
美容院へ行くのは多くて年四回、あとは家で市販の白髪染めで染めている。前髪は紙切りハサミで自分で適当に切り揃えている。長くなった後ろ髪はゴムでしっかりと目が釣り上がるほど結ぶ。最近のファッション雑誌に載っているのは、フワッと束ねているスタイルばかりだが、里子にはそんな技は持ち合わせていない。
ある日、あまりにも酷い髪をしていた里子を見て、安達さくらが言った。
「私の行っている美容院、会社の近くなんです。行ってみます?」
「いいの? お願いします」
思わず口にしてしまったのだが、内心「高いんとちがうん」とせこい事を思っていたのだ。
お昼休憩に入るや否や、安達さくらがスマホを操作し始めた。
「予約したんで、会社帰りに行って下さい。私のお気に入りスタイリストは早瀬という人です。指名もしときました」と里子に告げた。 何という早業。そして、何やらというクーポンをダウンロードしてくれた。おまけに紹介オフのクーポンもとってくれた。白髪染め、縮毛矯正、カットで一万円。思ったよりリーズナブルな価格に里子は安堵した。それが一ヶ月前。すでに白髪は、一・五センチ伸びている。
里子は年齢の割にスタイルは良い方だ。顔の事は置いといて、細身のジーンズだってよく似合う。今日はスニーカーにジーンズ、そしてVネックのセーターを着た。上にダウンを羽織り出かけた。最近の美容院はほとんどが予約制なので、待つという事がほとんどないようだ。今回は根元の毛染めとカットをお願いした。隣の席では二十代の女の子がロングの髪を外国人風にとスタイリストさんに依頼していた。髪の毛を少しづつ取ってブリーチをしてから色を入れる、そんな事を言っていた。里子にはさっぱりわからない。若い頃流行っていた髪型といえば、聖子ちゃんカットやソバージュ、ワンレンだ。何はともあれ、里子に必要なのは、まずは白髪を染めて、猛スピードで追いかけて来る老いから逃げ切る事だ。願わくは、サラサラツヤツヤの髪になり、鏡を覗いて「イケてる」と少しだけ思いたい。そんな老いという小さな抵抗を安達さくらに紹介してもらったラメール(フランス語で海)という美容院は援護してくれる。
その日も里子を満足させる出来栄えだった。顔のシワとシミも縮毛矯正と毛染めで何とかならないのと心の中で叫んだ。アッ。周りを見渡した。良かった口に出してない。スタッフは忙しく動き回っている。お会計を済ませスタイリストの早瀬君に見送られ店を出た。今日の予定は修了した。しかし、家に帰っても何もすることがない。里子は梅田まで足を伸ばすことにした。
この辺りはすっかり様変わりしていた。何処にいるのか全くわからなくなる事さえある。その昔、里子の年代が占領していたのは阪急ファイブやナビオ、エストワン、DDハウス、三番街。待ち合わせ場所は紀伊国屋。今はどうなっているのだろか? 里子は当てもなく、沢山の人が行き交う大阪の町を歩いた。久しぶりの人混みはさすがに疲れる。棒のようになった足を休ませるためカフェに入った。そして、窓際のカウンターに座り、コーヒーを注文した。ほろ苦いコーヒーを飲みながら、行き交う人の姿をただぼんやりと眺めていた。家族連れ、スマホを見ながら早足で歩く人、学生だろうかキャッキャはしゃぎながら歩く女子のグループ、腕にまとわりついて幸せ全開で歩くカップル。里子より、少し上の世代はカップルではなくアベックと言っていた。今は死語になっているのだろうか、聞かなくなった。そういえば、四十代後半になって、急にフランス語を習い出した友達が、アベックはフランス語なんだよと教えてくれた。あんなに勉強嫌いだったのに、よりによって超難しいフランス語を習うと聞いた時は、どうせ一ヶ月も続かないと思っていた。しかし、驚くべく七年目に突入している。中尾美沙、あんたは偉い。美沙はいつも臆病で自分から進んで何かができるタイプではなかった。金魚の糞のように里子の後をいつも付いて回っていた。短大を出て数年経った頃「里子、結婚することになった」と薬指に光るダイヤの指輪を嬉しそうに見せてきた。なんでも、満天の星空の下でプロポーズをされたとやらで、何度もその話を繰り返しきかされた。単純で幸せな奴だなぁ、夫に愛想をつかされないように頑張れよと心の中でエールをおくった。その時も中尾美沙は「ねぇ里子。今なんか言った?」と聞かれた記憶がある。そんな昔の事を映像と共に思い出していた。
その時、里子の視界にワインと書かれた看板が飛び込んできた。「春翔」思わず声に出しそうになるのをコーヒーと共に飲み込んだ。里子は吸い込まれるようにその店に向かっていた。
『世界のワイン・エペメル』と木の板に書かれたお洒落な看板が立てかけてあった。エペメルはフランス語で儚い(はかない)という意味である事は、中尾美沙に後から教えてもらった。ワインの事など何も知らない里子は、あまりの種類の多さにびっくりした。値段も千円のものから二十万円の値が付いたものまである。色んなデザインのラベルが貼ってあった。そのラベルには、もちろん作られた年も記載されている。春翔が入れたワインは一九八四年ものだった。三十五年経っているのだ。だとしたら、すごく高価なワインだったのではないのか。何故、ワインの味すら分からない里子に飲ませてくれたのか。しかし、再びあの店に行って聞く勇気など里子にはない。
里子はお手頃価格で、部屋にお洒落に飾れるラベルの付いたワインを買う事にした。
「どれにしようか…。んー決められない」
里子は昔から選ぶのが苦手なのだ。ファミレスのメニューも最後まで悩むのは里子。選んだ料理が当たりならいいが大概は外れ。くじ運もない。商店街のガラガラも良いとこ五十円引きの金券で、ほとんどが参加賞のチュッパチャプスだ。人生最悪の選択はなんと言っても別れた夫だ。特に里子には、男を見る目はない。里子が長男涼を身篭った途端に女遊びが始まった。お酒も浴びるほど呑み、帰るのは何時も午前様。それでも里子は家計を切り盛りし、夫の安月給で何とかやっていた。しかし、涼が三才のクリスマスイブの日、元夫は「今から帰る」と連絡を入れておきながら、帰ってきたのは朝の四時。長い髪の毛がスーツに絡まっていた。かすかに匂う香水の香り。昭和男は女に支払いをさせない。財布の中にはチャリンと音のするお金しか入っていなかった。目覚めた夫が言ったのは「お金がないから会社に行けない」だった。三日前に六ヶ月分の定期代を渡したところだ。使い込んだのだ。その時から里子は急激に元夫への執着がなくなった。まずは経済自立を目指し、涼を保育所に預け、仕事に出ることに決めた。と言っても子供がいながら働き先を探すのは容易になことではなく、人に口を聞いてもらい近くの喫茶店を手伝うことになった。パートだ。いざ、働きに出ると保育所にいる涼の事が気になって仕方がない。今頃泣いているのではと思うと気が気ではなかった。朝、ぐずる涼をなんとかあやしながら預ける時は、後ろ髪を引かれた。迎えに行くと勢いよく里子の元へ走って来る。そんな涼が、愛おしくて不憫で仕方がなかった。だが、この子のためにも、真剣に仕事に取り組まなければならないと心に決めた。
その時から、仕事中に涼のことを考えるのはやめた。働き方も変わった。店の売上を上げるアイデアを出したり、特に接客では必ずひと言添えた。お仕事ご苦労様とか桜の花が咲き出しましたねとか何か話し掛け、そして何よりも笑顔を絶やさぬように努力した。そうこうしているうちに常連客が増えていき、里子は店の看板娘…娘は言い過ぎかもしれないが、その時里子は二十五才だったので、ほんの少し年をとった、店に必要とされる看板娘を担っていた。
ある日、常連客の一人が「うちの会社に来ないか」と声をかけてくれた。自動車整備の会社を経営する社長だ。条件は里子にとって申し分なかった。里子はお世話になった喫茶店のママに丁重にお礼を述べ、正社員として就職した。それが今、里子が務めている会社なのだ。勤続二十七年目の古株となっている。
ワインが並べられている棚の中に、ユニークな顔をした女の子が、両手をあげて満足気に微笑んでいるラベルが目に止まった。
La passion と書かれていた。色は赤。意味が知りたくて、写真を撮って中尾美沙にラインを入れた。すぐに返信があり、女性名詞で情熱という意味だよと教えてくれた。フランス語には全て性別があるらしい。Laは女性、Leは男性。ちなみにワインは男性名詞らしい。里子の頭ではさっぱり分からない。改めて、こんなややこしいいフランス語を勉強している美沙に感心した。読み方はラ、パシオンだ。これにしよう。意外にも早く決める事が出来た。
里子がワインショップに入ってから、色んなワインを手に取り、ノートに鉛筆を走らせている一人の男の子がいた。ちなみに里子が男の子と称するのは十才以上年下の男性である。里子の視線を感じたのか、その男の子が不意に振り向いた。
「春翔!」
思わず手に取ったワインを床に落としかけた。今回は店中に聞こえるくらい、大きな声を出してしまった事は里子自身も認識していた。穴があったら入りたい。里子は顔を上げる事が出来なかった。
「俺の名前、覚えてくれてたんだ」春翔は無邪気な笑顔を見せて言った。
「いつ来てくれるんだろうとずっと待っていたんですよ」
春翔の顔は、涼を保育所にお迎えに行った時に見せる幼子の様にはしゃいでいた。色んなワインショップに出向き、ワインの勉強をしているのだと春翔に聞かされた。里子は春翔の夢を聞くばかりで、何も話せるような話題は持ち合わせていない。
独身の頃の里子の夢は、素敵な男性と結婚をし、小さくても庭には何時も季節の花が咲いている家を建てて、帰宅する夫のために美味しい御飯を作り、休みの日にはケーキやクッキーを焼く。そんな小坂明子の『あなた』という歌の歌詞のような生活を夢みていた。なんて可愛い女の子だったんだろう。夢は全て崩れ去った。全ては里子の男運のなさなのだが。
「俺、昼飯まだなんです。うまい店、知ってるんでいっしょに行きましょう」と言うや否や春翔の細く節のない手が里子の手首を掴んだ。その瞬間、里子の体が宙に舞ったのではないかと思うくらいの勢いで、春翔に引っ張られて外に飛び出した。里子は胸の鼓動が繋いでいる手から、春翔に聞こえているのではないかと恥ずかしさで一杯になっていた。五十四才。怖いもの知らずのおばちゃん。厚かましさ満載のおばちゃん。乙女チックすぎるやん。行き交う人々が、みんな里子を冷ややかな目で見ている、そんな気がして仕方がなかった。
春翔が入った店は、純和風の昭和チックな定食屋だ。春翔がこういう店をチョイスするとは意外だった。お洒落なランチ、イタリアンを想像したからだ。
「ここメニューには色々書いてあるけど煮魚定食しかでてきませんよ」と春翔が言った。家庭料理だ。この店の名前は『鶴』。一人で切り盛りする八十才のおばちゃんの名前が鶴代、その一文字を取ったそうだ。確かにメニューには色々書いてあった。後から入ってきた客が違うものを注文すると女将は「これにしときな」と言い、テーブルの上に運ばれてくるのは全て煮魚定食だった。
「春翔くん、煮魚好きなの?」
「いつもコンビニ弁当とかなんです。だから、たまに家庭料理的なものが食べたくなるんです」
きっと独り暮らしをしてるんだなと里子は思った。春翔は本当に美味しいそうに煮魚を食べている。気が付いたら骨だけが残っていた。里子は緊張のあまりは味なんてさっぱりわからなかったが、春翔の食べる姿があまりにも可愛いくて、いつの間にか微笑んでいた。いつまでも見ていたい、そんな気持ちになっていた。
二人は定食屋『鶴』を出たが何も話す事はなく、大阪駅へと向かった。不意に春翔が立ち止まった。
「名前、教えてください」
「小川です」
「下の名前は?」
「えっ…。里子です」
「里子さんって呼んでいいですか?」
異性から下の名前で呼ばれるはなんて、ここ何年も無かったような気がする。多分、結婚してからはない。何時も〇〇さんの奥さん、〇〇君のお母さんと呼ばれ、誰かの何かだった。
「…。はい」
里子は素直に嬉しかった。
「俺の事は春翔と呼んでください。必ず、必ず店に来てください」
春翔は懇願するような目で見つめてきた。思わず里子は首を縦に振っていた。
二人は京橋で別れた。里子は京阪電車の急行が来るのを待った。春翔は私の事をどう思っているのだろうか? あれは、社交辞令で店に来てもらうための営業トークなのか? 里子はその時、ほんの少しだけホストに入れ込むおばちゃんの気持ちがわかるような気がした。駄目、駄目、里子の目は昔から腐っているのだから。
そういえば里子の選択で正しかった事が一度だけあった。短大の卒業旅行の行き先を決める際、二人は沖縄、後の二人は北海道と言い、里子の意見で決定するという場面があった。散々迷った挙句、北海道を選択した。卒業旅行の当日、沖縄は季節外れの台風に見舞われ、伊丹空港を発着の沖縄便は全て欠航。北海道は雲ひとつない青空。今だとインスタ映えすること間違いなし。この時だけは、友達から感謝の嵐で、晩飯の海鮮丼を奢ってもらった。
電車の窓から見える景色は、いつもと変わらぬ見慣れた街並みだったが、何故かその日は新鮮に思えた。今の里子の頭の中には、春翔の事しかない。里子の手を握った春翔の温もり、声、全てが里子を支配していた。揺れる電車の中で、春翔が話した言葉を一言一句漏らさぬように思い出していた。いつの間にか西に沈む太陽が、里子の住む街を朱色に染めていた。
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