胸に抱かれて… ありがとう愛しい人へ

夏華

第1話 出逢い

 冬は寒さでつい背中が丸くなってしまい、年齢以上に歳をとった姿になってしまう。冷たい風が吹くたびに、小川里子はいつ頃からか流行り出した薄いダウンの胸元を抱いた。三十年前には考えられない薄さのコートだ。あの頃は確か千鳥格子のロングコートが流行っていて、誰しも同じ格好で町を歩いていた。里子は五十才を過ぎた頃から、何かある度に昔の事を懐かしく思い出している。それは一人で過ごす時間が多くなった事が原因だ。一人息子の涼は社会人になって今年で八年目になる。涼が外でどのような生活をしているのか、里子には全くわからない。家では必要最低限の単語しか喋らない。それでもご飯は出てくるし、清潔な下着に体を拭くバスタオルはいつも用意されている。散らかし放題の部屋は、帰宅した時には整頓されている。里子は至れり尽くせり涼の世話を焼いているのだ。彼女はいるのだろうか?今のままでは結婚はしない。里子は自分のせいだとわかってはいるが、放ってはおけない馬鹿な親なのだ。涼は前にも増して、ご飯は要らないという日が多くなり、一人で夕飯を摂る事が増えた。なので料理すらしない日もある。かつては涼のためのお弁当、朝御飯、晩御飯作りで、会社か台所が自分の居場所だった。今ではタイムサービスで安くなったお惣菜を自分のためにスーパーで買って帰るのだ。なんだか虚しい。台所が居場所だったあの頃は、「早く自由になりたい」といつも心で叫んでいた。人間って、なんて勝手な生き物なのだろうか。

 里子は十五年前に、離婚をしたシングルマザーだ。縁あって自動車整備工場で、今も事務をさせてもらっている。若い工員は里子の事を『おばちゃん』と呼ぶ。里子は〇〇君とか〇〇と呼び捨てする事もある。子供から呼ばれているようで、おばちゃんと呼ばれる事にさほど抵抗はない。

 その日、里子は仕事が終わってから、いつもと同じ時間に、そしていつもと同じ道をまるで伝書鳩のように歩いていた。急に自分がとてもつまらない人間のように思えてきて、何処か遠くへ行きたい、そんな衝動に駆られた。しかし何処かに一人で行く勇気も根性もない。その事は、里子自身が一番よくわかっているのだ。せめて、今日くらいは違う道から帰ってみよう、何か新しい発見があるかもしれないと思い、大通りを一筋中に入った裏道を歩いてみた。意外にも小さなスーパーがあったり、コンビニ、お弁当屋さん、お米屋さん、木材屋さんなど色んなお店がひしめきあっていた。

 その中にSoleil (ソレイユ)と書かれた、お洒落な看板が目に飛び込んで来た。『世界のワインが楽しめる店』カウンターのみ、と書かれていた。ワインか…長い間ご無沙汰だな…。ふと頭を上げると、ウインドウに映った自分の姿が、目に飛び込んできた。髪の毛の右側の裾が、ピョーンと外に跳ねている。手櫛で直してみたが直らない。それだけで気分が萎えてしまう。

 二十代の小娘だった頃、ワインの良し悪しなんて、わかりもしないのに何かの集まりがあると飲んでいたマティウスロゼ。ジュースみたいに甘いワインだった。その頃付き合っていた彼ともよく飲んだ。何故か急に気持ちが冷めてしまい、サヨナラは里子の方から告げた。今でも三年に一度くらいのペースで連絡をよこして来る。会いたいとは特に思わない。風の噂で聞いたのだが、奥さんに浮気がばれてしまい、コメツキバッタのように頭を下げ許しを乞うたそうだ。想像しただけでも可笑し過ぎて、思わず吹き出してしまった。その時、店の中から長身で小顔、髪の毛が外にピョンピョン跳ねてメッシュの入った、年が三十代半ばの男の子が出てきた。子供ではないが里子からしたら、息子と同じ位の子は『男の子』だ。思わず踵を返して立ち去ろうとした。

 その時「もし、良かったらワインを飲んでいかれませんか」と話しかけてきた。あまりにも綺麗な瞳をしていたので、吸い込まれるように「はい」と返事をしてしまい、店の中へとのこのこついて行ってしまった。

 店はワインバーというよりは、アーリーアメリカン風でバーボンが似合う内装だった。「何かリクエストはありますか」と聞いてきた彼の胸には、弘岡春翔(ヒロオカハルト)と書かれたネームバッチが付いていた。春を自由に翔ぶ、いい名前だなと里子は思った。

「ハルト」と心の中で呼んでみた。

「はい、何ですか?」と、春翔が笑顔で言ったので里子はビックリした。

「僕の事、呼びましたよね」と可愛い顔で春翔が言うので、里子は脇汗が吹き出るくらい動揺した。そして、年甲斐もなく顔を赤くしてしまった。

 実は心の中で「春翔」と言ったつもりが、声に出していたのだ。その事は随分後になってから、里子は自分の癖だと知った。

 里子が春翔の瞳に釘付けになっていたせいか、春翔は真顔で聞いてきた。

「僕の事、そんなに気になりますか?」

 里子は恥ずかしさのあまり、その場から逃げ出したい気持ちになった。そして、今しがた腰掛けた椅子から立ちあがった。

「ごめんなさい、ほんとごめんなさい。帰らないで下さい」

 まるで子供が悪さをして、必死にお母さんに謝るような悲しい顔で何度も言うので、里子は帰る気が失せてしまい再び椅子に座り直した。というよりは、春翔の中にある何かに心が取り憑かれてしまい、身動き出来なかったような気がする。一種の金縛りのようなものだ。

「本当にすいません。一杯目は僕にご馳走させてください」

 春翔はそう言って、白のワインをグラスに注いだ。

 一九八四年とラベルに書てあるのだけはわかったが、後はコート・デュ…全く分からなかった。でも、里子好みのとてもフルーティーで口当たりが良い甘口のワインだ。お昼ご飯を食べたきり何も口にしていなかった。空きっ腹にアルコールが入ったせいで、酔いがすぐに回ってしまい、気持ちが高揚してくるのを感じた。普段、家の中ではほとんどの時間を独りで過ごし、会話はテレビとしている。誰かが近くに居てくれる、それだけで癒された。春翔は特に何かを話すわけではなかったが、里子は春翔に遠い昔、何処かで会っている様な懐かしさを感じていた。

 ワインに貼られたラベルの一九八四年てなんだろうと疑問が湧いた。春翔に尋ねるとワインが作られた年で、その年に春翔が生まれたと聞かされた。里子が一九六五年生まれなので、春翔とは十九才年の差がある事になる。言い換えれば、里子が十九才の時に春翔が生まれたという事だ。里子はその年齢差が、親子ほど違うことに少しがっかりさせられた。自分が半世紀以上生きてきた事実を改めて実感させられた。もはや里子たちの全盛期は終わっているのだ。

 十九才の夏、その頃交際していた五才年上の彼がいた。フォルクスワーゲンのビンテージもののビートルに乗り、履いているジーンズは里子たち学生には手が届かないほど高価な物をさり気なく着こなしていた。身に付けていくもの全てが凝っていた。仕事らしい仕事はしていなかったように思う。親が土建屋の社長で金回りが良かった。きっとパパに買って貰っていたんだ、と今頃になって気がついた。世間を知らないというか、その彼が何で偉大に見えていたのか未だにわからない。里子の目は腐っていたのだ。そんな事を思い出しながら、苦虫を噛んだ表情になっているのがわかった。

 封印してきた過去が蘇ってくる。十九才の里子は妊娠してしまったのだ。年上の彼は、自分の欲望を満たすために里子を何度も抱いた。里子にとって初めての男性だった。世の中の男と女は、この行為の何がよくてするのか、その頃の里子には全くわからなかった。結果、妊娠。人生の全てが終わった。

 親には死んでも言えない。なぜならば、物心ついた時から里子は親の前ではいい子を演じる優等生だったからだ。両親の喧嘩が耐えない家だったので、恐らく喧嘩の原因を作りたくない、という防衛反応が幼い頃から自然と身についていたのだと思う。ちなみに別れた夫とも一度も喧嘩をした事がない。

 彼に妊娠のことを告げた。その途端、慌てふためきパパとママに相談したようだ。何がどうなったのか分からないが「本当に俺の子か証拠を見せろ」とまで言われた。まるでテレビのドラマでも見ているかのように、彼の言葉を聞いていた。何も言い返す事が出来ないでいると、彼は「もうお前とは会わない」と言い捨てて、パパに買ってもらったフォルクスワーゲンに乗り込み去って行った。未だ人の形にすらなっていない赤ん坊と里子を置き去りにして…。

 その後、どれくらい町をさまよっていたのか、前を見るとあのコメツキバッタの元彼が、すぐそこで、元気よく里子に向かって手を振っていた。元彼はスーツを着ていた。なんとなく様になっていた。何でも不動産業を営むお父さんの会社を立て直すために奮闘しているらしい。この彼とはその後付き合いを再開している。元彼には、全く関係ない事ではあったが、里子は一人では持ちきれなくなり、ボロボロ泣きながら妊娠の事を打ち明けてしまった。暫く沈黙していた元彼だったが「病院について行ってやるよ。今から行こう」と言い、電話ボックスに置いてある電話帳から隣町の産婦人科を見つけ出し、里子の手を握って連れて行った。待合室に座る大きなお腹の女性と目があった。里子は咄嗟に目を背け背中を丸め小さくなった。ここは赤ちゃんを産むところなんだ。そんな当たり前の事を里子はこの時に認識したのだ。元彼は里子の手を強く握ってきたが、その手は汗で湿り震えていた。

 女医だった。何も言わずして、その女医は「いつから生理がないの?」と質問してきた。そして、言われるまま尿検査をし診察台にあがった。「どうするの? 産むの? 産まないの? 赤ちゃんはドンドン大きくなっていくよ。赤ちゃんのパパとよく話し合って一週間後に必ず来なさい」そう言って同意書と一緒に帰された。

 ファミレスに入り、元彼は無言でお父さんの欄に自分の名前を書いた。字が涙で滲んでいた。何で君が泣くの? 関係ないやんと心の中で叫んでいた。

「だって、俺が大好きだった人がこんなに辛い目にあっているのに、代わってあげられないなんて、悔しいんや」と元彼が言った。

「聞こえてた?」

「ごめん、初めての相手があんただったら良かった」そう言って、里子も泣きながら同意書にサインをした。二人で泣いた。

 それから、一週間後、里子は手術を受けた。その間、里子は「ごめんね」を何度も繰り返し言っていたと女医に言われた。その時、誰に謝っていたのか里子には分からなかった。女医に言われた。「この事は忘れなさい。だけど同じ過ちは絶対しては駄目。辛い思いをするのは女の方なんだから、自分の身は自分で守りなさい」と。

 一ヶ月後、コメツキバッタの元彼に連れられ、京都の人通りの少ない路地に面する小さなお寺に行った。そこで赤ん坊の供養をしてもらった。その時、ごめんを言った相手はお腹の子だったんだと里子は悟った。女は子供をお腹に宿したその瞬間から、母性が目覚めるのかもしれない。もし、この子が陽のあたる世界に出てきていたら、どうなっていたのだろうか? 里子は空っぽになったお腹に手を当てて想像してみた。何も思い浮かばなかった。里子は「ごめんね」と言った。すると、何処か遠くで何か聞こえた気がした。

 そんな三十年以上も前の事を、春翔が入れてくれた一九八四年もののワインを飲みながら思い出していたのだ。春翔は二杯目のワインを里子のグラスに注いだ。銘柄は…読めない。近頃、近い所が見えずらい。これって、つまりは老眼。春翔にはわからないよね。私だって十才年上の先輩に「あんたもいずれ分かる時がくるから」と言われた言葉が、今は身に染みてわかる。 

 そうこうしている内に、若くて可愛い女の子が入って来た。「春翔、いつもの」とこれまた可愛い声で言った。親しげにお喋りする二人を横目で見ていると、急に現実が襲いかかり、自分が五十四才のおばさんである事を認識させられた。さっき、ウインドウに映った自分の姿が頭に浮かんだ。あれは、他人に見えている正真正銘の里子だった。

 夢のような時間は終わり。

 誰もいない家に帰ろう。

 昨晩の残り物をチンして食べよう。

 風呂に入って、

 お布団に入って、

 次の朝はいともと同じように仕事に行って過ごすのだ。

「お会計してください」と二人の会話を中断させるように言ってしまった。この場違いな所から今すぐに脱出したかった。

「まだ、居てください」

 春翔の寂しそうな顔に里子の胸はキュンとしてしまったが「明日、仕事が早いんで」と適当な事を言って外に出た。

 

 なぜか、寂しかった。

 

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