第10話 話三分の一

「お疲れ、木下。」


 やっと知り合いに会え、安堵する。ここまで来るのにかかった道程を思い出す。長かったような、短かったような、やっぱり長かったと思う。木下には昨晩もあったはずなのに懐かしい気分さえする。


「中田さん、大丈夫ですか?」


 口元は笑顔だが、目に心配の色を浮かべながら木下が尋ねてくる。俺の方が尋ねたいことがたくさんあるが、グッと堪える。


「大丈夫じゃないよ。カバンごと持ち物全部無くした。」


 できるだけ深刻じゃない雰囲気を作ろうとして、明るく答える。笑うような場面ではないのだが、自然と笑みがこぼれた。ヘラヘラという擬音がピッタリだろう。木下に会えたことで、先ほどまで心の中で渦巻いていた不安はどこかへ消え去ったようだ。危機的な状況には変わりないのに、何となく気持ちが楽になっている自分がそこにいた。


「え、マジすか? 結局二次会の後はどうしたんすか。」


 木下が目を見開き、聞いてくる。二次会とは何だ。そんなもの、こっちが聞きたいくらいだ。


「二次会に行った記憶が全く無い。どこの店に行ったんだ?」


 木下の開き切った細い目が、さらに開く。その目は、俺が言ったことを理解できないと訴えかけてきていた。


「え……、居酒屋Tに行きましたよ。中田さん、そこでも飲んでたじゃないですか。」


「いやー、覚えてないな。俺そんなに飲んでたの?」


 狐につままれたとはこのことか。記憶が無いのに飲んでいるという事があり得るのか。今までもお酒で記憶が無くなったことがあっても、そのまま飲み続けることは無かったはずだ。これも周りに聞いた話ではあるが。


「飲んでたというか……飲まされていたという表現の方が正しいですね。」

 

 木下が訂正した。飲んでいたのと飲まされていたのとでは意味が異なる。記憶を失っても飲み続けるような、アルコール中毒者紛いの事はしていないと分かって安堵する。


「全然意味が違うじゃんか。」


 俺が突っ込むと、木下はタハハと笑った。


「いやー、中田さん楽しそうだったんで。たぶん、長谷川さんに飲まされてたと思います。」


 たぶん、ということは木下が俺をきちんと見ていたわけでは無いのだろう。


「あの野郎……。」


 長谷川にどれくらい飲まされたのだろう。真実は本人に聞かないと分からない。メールではそんな話にはならなかった。長谷川が自ら俺に飲ませた話をする理由もないか。今度白状させよう。ただ、長谷川が誰かに飲ませるということは、長谷川もかなり酔っぱらっている状況だったと予想される。


「二次会は大変だったんですよ。みんな酔っぱらってるし。長谷川さんはテンションやばかったし、山岡さんは周囲を死ぬほど煽ってたし、佐竹さんは飲ませまくるし。ついでに北山と溝口さんはぶっ潰れました。」


 きっと、二次会は地獄絵図だったのだろう。酔っ払いが暴れ、被害を被ったアルコール弱者が倒れていったのか。でも、後輩の北山と同期の溝口はそんなに弱くない。むしろ俺よりアルコールに強いはずだが。


「そういう木下はどうだったんだ?」


「僕は……飲ませてましたね。大量に日本酒を注文してました。」


 諸悪の根源はこいつだった。木下は酔っぱらうと、ひたすらアルコール度数の高い酒を頼む癖がある。それに煽られて周囲が潰れていく様は、中々圧巻である。ちなみに木下が潰れるところはみたことがない。今も俺の目の前にいる木下は、昨晩の大荒れの飲み会を切り抜けてきたとは思えないほど健康的な顔をしている。きっと俺の顔は死んだ魚の顔と大差ないだろう。昨日の飲み会の参加者は十五人。酔っ払いが長谷川、山岡、佐竹、木下の四人、潰れたのが北山、溝口、俺の三人。飲み会参加者の半分近くが酒に飲まれている計算になる。


「ひどいもんだぜほんと。」


 俺も酒に飲まれた側の一人だが、記憶が無いので他人事である。今は自分の事で手一杯なので許してほしい。


「ほんとっすねー。そういえば、今までどうしてたんですか?」


 俺はここまでの経緯を木下に話した。朝起きたらS駅にいたこと、記憶が無い事、カバンを無くした事、家に入れなかったこと、漫画喫茶で木下に連絡を取れたこと。昨日の飲み会から一日経っていないが、話すことがこんなにあるのか。話を聞く木下の表情がコロコロ変わるのが面白かった。


「中田さん……災難ですね。」


「自業自得だ。仕方ない。」


 酒は飲んでも飲まれるな。佐竹の言葉が思い出される。きっと佐竹の事だから、俺みたいに路上では寝ずに家まで帰っただろう。この話をすれば、みんなに呆れられること間違いなしだ。


「誰かが中田さんを送れれば良かったんですけどね。俺は北山を家まで送って行ってたので。溝口さんは他の誰かが送ってると思うんですけど。」


 俺だけ送られなかったのか。恐らく一人で帰ったところ、酔いが回ってS駅で倒れたということか。


「中田さん、酒飲んでも顔に出ないですよね。」


「毎回それで損をしている気がするな。」


 俺は酒に強くない割に、顔に酔いが出てこないらしい。顔も赤くならないし、酔っぱらっても周りに飲ませたりしない。平常運転らしい。故に、他の人からどれくらい酔っぱらっているか分かりにくいと度々言われる。俺がお酒に強いと勘違いしている人もいるくらいだ。山岡のようにすぐに顔が赤くなればこんなことにもならなかったのだろうか。酔いが顔に出ない事が原因で、酔っぱらっているのにも関わらず飲んでいないとみなされて飲まされる、というのがいつものパターンと化していた。


「そうそう、俺の携帯もらってもいい?」


 やっとのことで本題に入る。積もる話もあったため、状況説明に時間を食ってしまった。木下が慌ててカバンを開き始めた。


「これっす。二次会で忘れていったんですよ。」


「本当にごめんな……。」


 自然と謝罪の言葉が口から漏れた。携帯を受け取ると、体中に謎の感動が広がった。ここにきてやっと無くした物を一つ取り戻した形である。外出時の三種の神器と言えば、携帯、財布、家の鍵である。と俺は思う。そのうち一つをとうとう手に入れたのだ。携帯は薄型のスマートフォンで、果物の名前の会社が出している物だ。携帯の縁だけを守るケースと画面に僅かに入っているヒビが、自分の携帯であることを確信させた。画面のボタンを押すと、携帯はきちんと時刻と待ち受け画像を表示した。ちなみに待ち受け画像は夏に行った海の画像だ。季節外れもいいところなのでそろそろ変えるべきだろう。


「もしかして、飲み会で割れましたか。」


 俺がまじまじと携帯を見ていると、木下が恐る恐る聞いてくる。昨日の飲み会で携帯にヒビが入ったとしたら、泣きっ面に蜂ともいえる状況だろう。そんなわけでは無いので、俺は手を振って否定した。


「いや、前に落として割っただけだよ。」

 

 木下の顔に安堵が広がる。


「良かった……。その携帯、居酒屋の机の下に落ちてたんですよ。ビチャビチャで。」


「どんな状況だよ。」


 何で机の下に落ちていたんだ。いや、机の下に落ちていたのは百歩譲っても、ビチャビチャとは何だ。俺の携帯は防水では無い。


「みんな酔っぱらって酒こぼしたり、水こぼしたりしてたんで、それでビチャビチャになったんだと思います。」


 木下が淡々と言う。こぼすだけこぼして帰るとは、最悪の客ではないか。記憶に無い店員さんに心の底から謝罪する。ご迷惑をおかけしている事、間違いなしである。すいません、居酒屋Tの店員さん。


「問題なく動いてるから大丈夫。それより、拾ってくれてありがとな。」


 机の上ならまだしも、机の下を確認するあたりがキッチリしている。木下の良さとはこういうところなんだろう。


「いやー、忘れ物確認してたら見つけたんですよね。中田さんのだ、って気づいて追いかけようとしたんですけど、追いつけなかったんです。」


 酔っぱらった俺はどんな速度で帰ったのだろう。すごく気になるが、置いておこう。木下と会話をしていると分かることが増える一方で、分からない事も増えていく。きっと二次会の全てを知ることはできないのだろう。全員きっちり飲んでいたのだから。


「他には何か忘れ物は無かった?」


 一応、確認しておく。


「中田さんの携帯以外は無かったですね。みんな酔っぱらっていたので、忘れ物が無いかはかなり確認しました。」


 やはり安定の木下である。木下は酔っぱらっていても、記憶を無くさないし、後始末も忘れない。


「本当に助かったわ、木下。」


「いえいえそんなそんな、いつものことですって。」


「一言多いわ。」


 二人で笑ったところで、携帯のパスワードを解除し、中身を確認する。俺の安否を確認する連絡がいくつかきていた。後で生存報告を送ろう。先ほど携帯を見た時に気付いたが、時刻は午後四時半に近づいていた。


「さて、それじゃ俺はそろそろ行くよ。忙しいところ申し訳なかった。」


「いえいえ、全然ですよ。でもこの後どうするんですか?」


 当然、家には入れない。俺の行く先は決まっていた。


「カバンを探しに行くよ。まずは警察からだな。」


 そう言う俺に、木下は納得した顔になった。


「なんというか中田さん、全然悲惨な感じがしないですね。」


 思わず口に出た、という形で木下は言う。呆れられているのだろう。こんな先輩にはならないでほしいと思う。そうそうなれるものでは無いだろうけども。


「まぁこれが初めてじゃないしな。」


 バカは死んでも治らない。誰かに言われた言葉を思い出しながら、木下に別れを告げて俺はN駅を後にした。




時刻:午後四時半

所持品:交通系ICカード(残額:千円)、目薬、傘、電話番号の書かれた紙、携帯

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