第08話 前進

 『午後四時にN駅でお願いします。』


 木下からのメールを確認し、一息つく。新しくドリンクバーから持ってきた烏龍茶を飲む。長谷川から木下が俺の携帯を持っているという話を聞き、メールをしてみたところ、それが事実であることが分かった。昨晩のことについて聞きたいことはたくさんあったが、携帯を受け取りにいく必要があるので、その時に聞けばいいという結論に至った。ただ、俺の携帯を持つことになった経緯を聞くと、二次会の居酒屋に置き忘れてあったとのことだった。記憶にございません。微塵もそれを覚えていないことに恐怖を覚える。


 午後二時前。集合まで二時間ある。N駅までは電車で一時間ほどである。なぜこれだけ時間に余裕を持ったかと言えば、俺が休みたかったからである。午前五時に目覚めてから約九時間。電車で寝たり、コンビニで休んだりしてきたが、やはり休息が足りない。この漫画喫茶で少しでも体調を整えることを優先した結果、集合を遅らせることになったのだった。パソコンのディスプレイと読書灯を消す。椅子に深く座り直し、目を閉じる。コンタクトレンズをつけっぱなしの目は、水分不足のあまりに瞼に強くくっついた。そういえば、アラームを設定していないけれど大丈夫だろうか。そんなことを一瞬考えたが、開かない目と疲労困憊の体によって、意識は暗闇の中に落ちていった。






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【一年十ヶ月前】



「やっと受かった……。」


 電話を切り、俺は呟いた。顔が汗ばんでいる。エレベーターホールの椅子に腰を下ろし、一息つく。エレベーターに背を向けた形となり、壁一面がガラス張りになっている窓からは外の景色が見える。空は曇模様だが、真っ暗な訳では無い。室内にはぼんやりとした日の光が差し込んでいる。遠くに見える高層ビルを眺めていると、喉の渇きに気付いた。立ち上がって歩き始め、研究室へ向かう。カーペット状の廊下を踏む感触が妙に生々しく感じられた。進む度に足が僅かに沈む。そのまま一気に踏み抜いてしまうかもしれないと思った。歩き続けること九十秒、研究室に辿りついてドアを開けると長谷川がこちらに気付いた。


「やっと受かった。」


 先ほどと寸分違わぬ言葉を口にすると、長谷川が両手を上に挙げた。


「良かったなー! 初合格じゃん!」


 駆け寄ってきた長谷川とハイタッチする。長谷川と俺の身長差は二十センチ近くあるため、長谷川が振り下ろしてきた手に俺が背伸びしてタッチする形になる。長谷川はアラビアンな雰囲気の漂う柄物のワイシャツに、黒のチノパンを履いている。ちなみにそのシャツは黄土色をベースに様々な色の象が描かれ、その周りに青と赤のダイヤマークが並んでいる。不思議だが、長谷川がこれを着ていると似合っているかのような錯覚に陥る。俺が着れば事故になる確率は百パーセントだ。長谷川の景気の良い笑顔に、俺も思わず笑みがこぼれた。同性とはいえ、男前なヤツの笑顔を向けられると悪い気はしない。


「ここまで長かったなー。」


 長谷川が腕を組みながら言う。俺の面接合格を本気で喜んでいるように見える。コイツは素直に人の幸せを喜ぶタイプではないはずだが。半信半疑の顔をしながら、尋ねる。


「それは俺のセリフだろ。」


 長谷川の反応を確認しようと訝しんでいると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると山岡がいた。比較的ラフな、ジーパンとワイシャツの格好の山岡が、ゆっくりと言葉を発する。


「いやいや。中田がこのまま一つもインターンに受からないんじゃないか、ってみんなヒヤヒヤしてたぞ。」


 山岡がにやけた顔をして言う。おちょくっているように聞こえたが、おそらく本当の事だろう。それだけ心配されていたのか、と驚きを隠せない。


「そうそう、中田がいるとインターンの話しにくくてさ! 一社も受かってなかったし!」


 長谷川が嘘偽りの無い声色でそう言い、笑顔をこちらに向けた。本音であることが確認できてしまうほどの笑顔だった。


「そういう裏事情は言わなくていいから!」


 突然のカミングアウトに、反射的に突っ込む。思い返せば周囲の同期を見て、一社もインターンシップに受かっていなかったのは俺くらいのものだった。だからこそ、俺の前でインターンシップの話をしにくいというのは至極当然であった。しかし、これで俺もインターンシップに受かった訳であり、余計な気を遣わせることは無くなったはずだ。よく考えてみると、長谷川は俺が受かったことを喜んだのではなく、俺が受かったことで長谷川自身が余計な気遣いをする必要が無くなったことを喜んでいたのではないだろうか。そうであれば、俺の人を見る目は正しいものであることが証明される。


「ちなむと、中田はどこのインターンに受かったんだ?」


 長谷川がお湯を沸かしながら聞いてくる。時刻は午後四時。休憩を入れるには少し遅めの時間だが、俺も便乗することにした。長谷川に俺の分もお湯を入れてくれるように頼み、会議用の長机に座る。研究室は、学生一人一人に机とパソコンが与えられている。そのスペースとは別に、会議をする用の机がある。部屋が分かれているわけではなく、パーテーションで区切られているだけではあるが。山岡が自分の席に戻って行った。


「N社のインターンだよ。」


「あ、それ、俺も受かったわー。」


 長谷川があっけらかんと答える。


「俺も。」


 山岡の声がパーテーションの向こう側から聞こえた。


「お前らも受かってるのかよ!」


 山岡と長谷川が爆笑する。思わず俺も笑ってしまった。三人で同じ企業のインターンシップに受かっているとは流石に思わなかった。長谷川がこちらに戻ってくる。


「まぁまぁ、とりあえず落ち着けって。」


 季節が秋から冬に移ろいつつあるこの頃。研究室では学会に向けて、学生たちが各々資料作成や実験に励んでいた。それでも、研究室には落ち着いた雰囲気が流れている。秋は夏に比べれば、スケジュール過多にはならないからだ。夏休み中は、学会に行ったり、インターンシップに申し込んだり、旅行に行ったりと、イベントが盛りだくさんだった。修士一年生である俺らの同期達も例に漏れず、同様の時間繰りに追われていた。中でも山岡と長谷川は完璧なスケジュール管理を行っていた。学会の準備の合間にインターンシップの面接に行き、何日か空けば旅行をし、受かったインターンシップの中でも必要最低限のものだけ参加し、学会で発表をし、といった風だった。対して俺は。


「中田が十社のインターンシップに落ちたって聞いた時は、流石に何て声をかけるか迷ったね。」


「気を遣わせて悪かったな。」


 山岡の発言に、俺は悪態をついた。電気ポットが湯沸しを完了した音がした。長谷川が持ってきてくれたお湯でコーヒーを入れる。ドリップ式のコーヒーの粉にお湯を少し加え、湿らせる。三十秒ほど待った後でお湯を三度に分けて注いだ。俺と長谷川はコーヒー派であり、ほぼ毎日こうしてコーヒーを飲んでいる。ちなみにコーヒーは自前で各々買ってきている。山岡はコーヒーを飲まないので、自分の席からコーラのペットボトルを持ってきて会話に参加している。


「今回受かったコツは何ですか!」


 長谷川が煽る。こんなやり取りも日常茶飯事である。俺は一瞬悩むようなフリをしてから答える。


「やっぱり……面接で嘘をつかなかったからじゃないですかね。」


 山岡がなんとなくうなずく。長谷川が首をかしげる。


「こいつ何言ってんだ……? 面接のしすぎで頭がおかしくなったか。」


「心の声が漏れてるぞ。」


 長谷川の心の声に、山岡がストップをかける。長谷川はやっちまった、とでも言うかのように口を手を当て、目を見開く。いちいち反応がオーバーである。ちなみにインターンの合格実績で言うと、この二人は好成績を修めている。長谷川は五社応募し、三社合格。山岡は二社応募し、二社合格している。パーセントで言えば、山岡百パーセント、長谷川六十パーセント、中田十パーセント未満といったところだ。俺の一人負けである。


「別に俺は面接で嘘をつけ、って言ってるわけじゃないよ。相手が欲しがっている答えを与えるわけよ。」


 長谷川が長机の真ん中にあったお菓子に手を伸ばす。誰かがどこかの旅行先で買ってきたお土産のようだ。チョコクッキーのような見た目をしている。


「それが簡単にできたら苦労しないんだよな……。」


 俺の本音が漏れる。相手が欲しがっている答えを与える、というのは感覚的には分かる。というよりも、面接を重ねるうちに分かるようになったというべきか。結局のところ面接は会話である、というのが現状の自分の考えである。どこかで暗記してきた内容を話すのは、はっきり言って小学生にもできることだ。相手の問いかけに対して、自分で考え、答える。その答えが相手の求めているもの、あるいは会社が求めているものならば、面接に受かるはずである。求めていなかった場合、落ちるだけだ。しかし、企業が学生を落としたからといって、それは学生を否定したわけではない。ただ合わなかっただけなのだ。野球チームのメンバー募集に、サッカーがしたいと言いながら訪れる奴がいたら、落とされて当然である。


「確かにその通りだな。」


 俺の例え話を聞いて、山岡が頷く。長谷川も納得している様子だ。


「そりゃそうだよな。野球チームにサッカーをやりたい人が行くのは論外として、ピッチャーを募集しているのにキャッチャー経験者が来たら困るしな。」


 長谷川はチョコクッキーを片手に、コーヒーを飲みながら答える。俺もチョコクッキーを食べることにした。


「そのキャッチャーが極端に上手ければ、チームに加えるってこともあるとは思うけど。」


 長谷川の発言に、コーヒーを飲みながら俺は頷く。チョコクッキーを噛み、ほろ苦い甘さを感じた後にコーヒーを流し込む。コーヒーの苦さの中に、チョコの甘さが際立つ。


「そうだな。でも、そのキャッチャーを加える前にピッチャーを探すべきだろう。」


 山岡がチョコクッキーを食べながらコーラを飲んでいる。甘い食べ物に甘い飲み物を合わせるのはどうなんだろう、と度々思うが、甘党の山岡はそんなことお構いなしだ。


「でもどのポジションを募集しているのか分かりにくい、っていうのが就活なんだよな。」


 俺がそう言うと、長谷川が首を横に振った。


「どこのポジションを欲しがっているのかは重要じゃないんだよ。」


「何すか何すか、何の話してるんですか?」


 研究室のドアから木下が入ってきた。そういえば、俺がかかってきた電話に出るために研究室を出る時には、ここにいたはずだ。どこに行っていたのだろう。俺らが団欒しているのを見て、木下はお湯を沸かし始めた。


「中田がインターンに受かった話。」


「マジすか! 中田さんおめでとうございます!」


 木下が俺の手を握り、振り回す。木下の嫌みの無い豪快な笑顔に、本当に心配をかけていたんだなと思ってしまう。


「後輩に心配をかけるような先輩になるなよー。」


 長谷川の一言が身に染みる。


「はい! 気を付けます!」


 木下の一言が心に突き刺さる。裏表の無い一言である。面接初合格にも関わらず、これだけ精神的ダメージを受けることになろうとは思っていなかった。


 ただ、こうやって本音をぶつけてくれることは、俺にとってありがたい事だった。俺がインターンシップの選考に通らず、苦しんでいた時に助けてくれたのは、長谷川、山岡といった周囲の同期だった。エントリーシートが通らなければ、紙が真っ赤になるまで添削を手伝ってくれた。面接を突破できずに困っていた時は、面接練習を手伝ってくれた。


「本当に……ありがとな。」


 ふと思いがこみ上げ、呟く。すると、長谷川、山岡、木下が虚を突かれた虚を衝かれた顔をした。


「どうしたんだいきなり。確かに中田のエントリーシートを見ても何が言いたいのか分からなくて焦ったり、面接練習で視線が右往左往しているのを見て心配になったり、たくさん大変だったけどさ!」


長谷川が本音を散弾銃のようにぶっ放す。俺の精神がもたない。


「受かったんならそれでいいさ。」


 山岡がまとめ、俺に救いの手を差し伸べた。


 本音をぶちまけすぎだとクレームを言うと、三人とも笑っていた。






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時刻:午後二時

所持品:交通系ICカード(残額:二千五百円)、目薬、傘、電話番号の書かれた紙

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