第07話 炭酸賛歌
最終面接前々日、泉谷とビリヤードをしたのは漫画喫茶だった。そして俺は今、同じ系列店の漫画喫茶にいる。ドリンクバーから持ってきたコーラを置き、席に着く。一人が十分に座れるスペースに、腕置きのついた大きめの黒の革張りの椅子、正面の机の上ではパソコンのディスプレイが暗闇の中で煌々と光っている。壁際にあった読書灯を付ける。物音は無く、思っていたよりも快適な空間だった。駅の地図を見ていて目についたのは、漫画喫茶の文字だった。今までの漫画喫茶の利用目的としては、ビリヤードをしたり、ダーツをしたり、終電を逃した時の宿泊先として用いるくらいだった。そして、今回はパソコンを使うべく訪れた形となる。漫画喫茶に、漫画を目的に来ることはあるのか甚だ疑問である。とにかくパソコンさえあれば、誰かに連絡を取ることができる。
長い道程を経て帰宅への道が拓けたかに見えたが、そんなにうまくいくことばかりではない。まず一軒目の漫画喫茶では、身分証の提示を求められた。そこの漫画喫茶には行ったことが無かったため、会員登録をする必要があったのだ。カバンも携帯も財布も無い自分が身分証を持っているわけもない。事情を話しても店員のお姉さんを困らせるだけだと思い、泣く泣く退散した。続いて、歩いて五分程の距離にあった二軒目の漫画喫茶を訪れた。ビル自体が古めの外装で、四階の店内も年季が入っていた。無愛想な髭面のおじさんは身分証の提示を求めて来なかった。内心ガッツポーズをして意気揚揚と店内に入ろうと思ったが、気づいてしまった。ここはICカードによる支払いを受け付けていない。社会は現金を持っていない人には厳しいようだ。おじさんに現金を持っていないことを伝え、謝罪をしつつ店を後にした。おじさんは不審そうな顔をしていた。
漫画喫茶も駄目かと途方に暮れていた頃、ここの漫画喫茶を見つけたのである。入れない可能性もあったが、一先ず入ってみるという選択肢以外は無かった。階段を上り、自動扉を潜り抜け、店員のお兄さんと向かい合う。そして、会員証を忘れたが利用したい旨を伝えた。店員さんに言われた通り、携帯の電話番号を言うと、慣れた手つきで会員情報を検索し、難なく利用可能の運びとなったのだった。ICカードによる支払いも可能だった。
本題はここからだ。パソコンを操作し、ブラウザを開く。連絡手段として思いついたのは、いつも使用しているチャットアプリだった。緑色のやつ。パソコンからも使えるので、まずはそれをダウンロードした。ダウンロードが終わるのを待っている間も、体が休息を求めていることが分かる。現在時刻は午後一時過ぎ。あと数時間で、家を出てから二十四時間が経過する。コーラを一口飲むと、甘さが口に広がり、炭酸が喉を刺激した。コーラが体中に広がっていくのが分かる。この爽快感が、さらに眠気を誘った。
アプリのダウンロードが完了し、意気揚揚とログインする。幸いにもIDとパスワードは覚えていた。やっと連絡を取ることができる、と意気込んだのも束の間、画面に四ケタの番号が表示された。番号を見つめる。分かったのは、その番号を携帯電話から入力しないと、パソコンからのログインはできないということだった。一口、コーラを飲む。今日はとことんツイていない。それとも自分の考え方が甘かったのだろうか。だがまだ諦めるわけには行けない。ここで諦めれば俺は家に帰れないどころか、明日の仕事に行くことも叶わない。再びパソコンに向かい合う。もう一口、コーラを飲んだ。
次にアクセスしたのは、PCメールだった。思っていたよりも容易に、PCメールにログインすることができた。始めからこちらをつかえば良かったかもしれない。メールで友人に連絡をするのはいつぶりだろうか。いつ頃から友人との連絡に、メールを使うことが無くなったのだろうか。幸いにも、山岡と長谷川のメールアドレスが登録されていた。
『急にすまん。俺の携帯電話とカバンがどこに行ったか知らないか。』
一文を打ち、二人に送信した。件名を入れてないどころか、名前も入れ忘れたことに気づいた。俺からのメールだと気づいてくれるだろうか。ただ、メールを打ち終えたいという一心で送ってしまったのだった。
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【一年七ヶ月前】
「自信が無い男は嫌いです。」
きっぱりと言い放つ佐竹。隣に座る山岡がケタケタと笑っている。俺は苦笑いするしかない。
「自信が無いわけじゃないんだけどね……。」
聞いている自分でも弱腰だと思う発言に、苦笑がさらに深くなる。視線を壁に貼ってあるポスターに逃がす。ポスターには、黄色いビキニを着たお姉さんが描かれている。健康的に焼けた褐色の肌に太陽の日差し、黒い長髪が風になびき、後ろには大海原が広がる。加えて、ビールを片手に微笑みかけてくるのだから、夏を想起せずにはいられない。今は真冬も真冬、二月の中旬だけれども。
「なんで中田は自信を持てないんだよ。」
山岡がハイボールを片手に聞いてくる。店内は黒に近い茶色の木材で構成されており、落ち着いた雰囲気を醸し出している。所々、南国を思わせる派手な色使いと小物が、陽気さを演出している。季節に関わらず、こういったお店に来ると明るい気分になれるので、俺は好きだ。山岡の持つハイボールの入った銀色のカップも、その雰囲気づくりに一役買っていた。
「自信って、持とうとして持てるものじゃないだろ? 気づいたら身についているものというか。」
失言してしまった。そう思わせるほど、佐竹が睨んでくる。
「なーにを甘ったれたこと言ってるんですか! 自信は持とうとしないと持てないものですよ!」
「どうどう、よしよし。」
山岡が隣のじゃじゃ馬を落ち着かせる。じゃじゃ馬はなおも言いたいことがありそうだが、隣の先輩になだめられて、少し落ち着く。
「別に、一度もうまくいったことがないわけじゃないじゃないですか。」
山岡が一瞬考えるような仕草をした。
「……正しい日本語だった。」
「茶化さないでください!」
佐竹が怒る。山岡が笑う。つられて俺も笑う。今日の飲み会は、元々予定していたわけでは無い。大学の研究室でパソコンに向かっていたところ、山岡にラーメンを食べに行こうと誘われたのだ。お互い一人暮らしの身であったため、たびたび夕飯を一緒に食べに行っていた。時計が午後六時を回り、研究室を出ようとした時、俺ら二人以外に研究室にいたのは佐竹だけだった。何の気なしに誘ってみると、二つ返事で着いてきた。そこのラーメン屋行ったことないんですよー、なんて言いながらついてくる佐竹を含めた三人でラーメン屋を訪れた。魚粉と醤油ベースのつけ麺屋で、味は濃厚なのにすっきりとした後味で、俺は好きだった。山岡曰く普通らしい。その後、なんとなく居酒屋に流れて行ったという形である。順番が逆な気がするが、良しとする。
「確かにうまくいったことがないわけじゃないけど……。」
やっぱり正しい日本語か、と山岡が言うと、佐竹が山岡の肩を叩いた。そう、うまくいったことが無いわけでは無いのだ。ただ、それ以上にうまくいかなかったことの方が圧倒的に多い。それだけのことだ。だから、俺は自信が無いのだ。
「ミスったことの方が多いからな。」
俺の素直な後ろ向き発言に対し、山岡がやれやれとジェスチャーした。いちいち芝居がかった仕草である。
「数えるべきなのはミスした回数じゃないだろ。」
「そうそう、うまくいった回数を数えるんですよ。」
佐竹の発言に対し、山岡が首を振る。
「違う、お前の凄いところは挑戦した回数だろ。」
佐竹が目を丸くしている中、山岡が続ける。
「俺はすごいと思うよ。それだけ何度も落ちたのに受け続けるってことが。それに、落ち続けるんじゃなくて、途中からしっかり面接に合格してるじゃんか。」
突如、真剣な顔で言う山岡に戸惑い、俺は目の前の銀のカップを取る。それを口に流し込むと、炭酸が喉を刺激し、薄まったウイスキーの苦みと木の香りが鼻を通り抜けた。
「中田の良いところは、失敗してもへこたれないところだろ。最初は大体うまくいかないけど、諦めずに挑戦して、少しずつ修正して、前に進んでる。そこに自信を持つべきだ。」
「山岡さん、良いこと言いますね。」
レモンサワーを飲みながら佐竹がつぶやいた。時々、ハッとするようなことを山岡は言う。山岡との付き合いはそこまで長くはない。お互いをきちんと認識したのは研究室に入ってからなので、せいぜい二年くらいか。学生生活も残り一年と数か月である。そして、二週間後には就職活動本番開始だ。山岡と出会った時のことはあまり思い出せないが、どうでもいいことも、よくないことも、たくさん話してきた。だからこそ、就職活動の事も、人間関係の事も、相談しあえる仲だと俺は思っている。山岡が苦虫を噛み潰したよう顔をする。心の中を読まれたのだろうか。
「こいつはこれくらい言ってやらないと、自分を認めてやれないんだ。お子様だからな。」
違った。杞憂であった。
「とんだネガティブ野郎ですね。」
唐突に批判された。通り魔的犯行とも言える。俺を攻撃する時はこの二人、素晴らしいコンビネーションを発揮する。ダメージ二倍どころか四倍である。俺の体力が持たない。
「上げて落とすのはやめてくれ。」
俺の抗議を佐竹は鼻で笑った。
「いじられているうちが花ですよ。」
佐竹が無表情にこっちを見ている。怖いことをつぶやかないでほしい。ただこれは事実なので、黙ってやり過ごすことにする。ハイボールが美味しい。
「無駄に自己評価が高い奴より全然良いけどね。過大評価は害でしかない。」
山岡が机の上のやまぶどうをつまみながら言う。やまぶどうのプチプチした食感が、山岡は好きらしい。
「私も、根拠の無い自信を持っている奴は嫌いですね。」
笑顔で佐竹がそう言った。目は少しも笑っていなかったけれども。
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ハッとして目を覚ます。漫画喫茶にいたんだっけ、俺。座ってマウスを握ったまま眠っていたようだった。慌ててディスプレイの画面を見ると、意識があった時から二十分ほど経過していた。このまま寝てしまえば、料金がいくらになるか分かったものじゃない。ただでさえ少ない所持チャージ額を憂いながら再度パソコンを見ると、メールの受信を知らせるアイコンが表示されていた。それは長谷川からのメールだった。クリックして中身を確認する。
『お疲れー。カバンは知らないけど、携帯は木下が持ってるよ。』
時刻:午後一時半
所持品:交通系ICカード(残額:二千五百円)、目薬、傘、電話番号の書かれた紙
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