第06話 迷走と準備

 現状の最大の問題点は何だろうか。


 携帯電話が無い事。

 カバンが無い事。


 いや、昨晩の記憶が無い事だろう。そして、その記憶を取り戻せる可能性はゼロだ。


 飲酒による記憶喪失は、元々存在していた記憶が無くなるわけではない、と聞いたことがある。アルコールによって記憶ができない状態に陥るらしい。ヒトの脳の中でも記憶に関する機能を持つ部分は、アルコールに弱い。そのため、アルコールによってその部分が機能をしない状態になっても、脳の他の部分が動き続けることはあるらしい。つまり、記憶ができなくても、話したり歩いたり酒を飲み続けたりできるのだ。あくまで山岡に聞いた話ではあるが。


 普通に飲んで帰ったのに飲み会のことを覚えていない、という話は聞いたことがある。というより、俺自身も経験済みである。一次会までの記憶はある。ただ、何となく二次会に行った気がするのだ。二次会でどうなったのか。そこで荷物を忘れてきたのか。そこから帰ろうとして荷物を街中に置いてきてしまったのか。それが分からなければ、荷物を探しに行くことすらできない。


 昨日の夜、自分が何をしていたかを知るためには、一緒に飲んでいた人に話を聞くしかない。とは言ったものの。携帯電話は持っていないため、電話、メール、アプリを使うことはできない。便利な世の中といっても、インターネットにアクセス可能な端末が無ければ何もできない、と思い知らされた形である。今ではインターネットにアクセスする端末を持っていない方が異常なのだ。


 次に考えたのが公衆電話である。最近ではあまり見かけないが、未だに街中に点在している。探してみると、黒く縁取りされた長方形のガラスケースは、駅前にぽつんと佇んでいた。中には誰もいない。ドアを押すと、折りたたまれる形でドアが開く。前に使ったのはいつだったか思い出せないまま、受話器を手に取る。その重さを手に感じながら、硬貨投入口を見つめる。そういえば、現金を持っていない。ICカードはあるが、公衆電話はそれには対応していない。連絡手段として名案に思えた公衆電話は、現状の俺にはどうやっても扱うことができないものだった。


 時刻は午前十二時。疲労はピークに達しつつある。最終手段としては、交番に行って事情を話し、電話を借りるといったところか。そうすれば、管理会社に家の鍵を開けてもらえる可能性がある。ただ、カバンを誰かが持っていた場合は、管理会社に電話する必要が無い。カバンを回収すれば家の鍵を手に入れられるからだ。ちなみに合鍵は室内である。危機管理能力が低い。


 公衆電話から離れ、歩きついた先は駅の改札前であった。ICカードにチャージされた金額は二千五百円。電車に乗って山岡や佐竹や木下を探しに行こうか、などと訳の分からないことを思う。改札前を右往左往するのも気が引けたので、改札近くにある地図を眺めるふりをした。駅にある地図は、自分の背丈よりも高く、横幅は両手を広げても届かないほど長い。今の時代、携帯があればいつでも地図が見れこんな地図を誰が使うのか。そう思うこともあるが、案外、旅先やちょっとした出先でもこれがあると便利だ。かくいう俺も、こうして今お世話になっている。頭が上がらない。駅にある地図は、目的地となる建物の名前や飲食店等の情報がきちんと書かれている事が多い。眺めているだけで、こんなお店があったのか、と気づくこともある。正に今、俺の視線は一つの店に釘付けになっていた。






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【一年三ヶ月一週間前】



「次、中田の番だぞ。」


「おう。」


 薄暗い広い部屋には、ビリヤード台が複数置かれている。人の腰ぐらいの高さにあるそれは、中心を緑色のマットに覆われ、縁の部分はコーティングされて光沢を持った木枠に覆われている。マット部分はなんとなく使い込まれた感じがあり、木枠の部分は所々汚れが見られる。


 ビリヤードの球を打つための棒――キューの先端にチョークを塗る。あまり詳しくないが、これを塗らないと球を打つ時に打点が滑ってしまうらしい。指についた青いチョークを見て、高校時代を思い出す。そういえば、大学に入ってからは黒板とチョークを使うことはほとんどなくなった。使うのはホワイトボードとマジックである。台の縁に手をかけ、球を打つためにキューを構える。これから打つ手玉、狙うべき球、入れるべき穴――ポケットはちょうど一直線上に揃っている。手玉と狙っている球の距離は腕一本分の長さだろう。ポケットまでの距離はさらに腕一本分といったところか。一回、二回、とキューを押し引きさせ――ストロークさせて、打つ。手玉は勢いよく転がり、狙っていた球に当たる。そのまま転がっていくが、思っていた軌道からは右にずれている。そして、ポケットの傍の縁に当たり、跳ね返ったところで球は止まった。


「外した……。」


 ポツリと俺がつぶやく。


「まだまだだな。」


 泉谷が立ち上がる。手近にあったキューを取り、俺が外した手玉の傍へ向かう。ビリヤード台の縁に手を置き、ジッと台全体を見渡している。俺は邪魔にならないように壁際にある机に向かい、置いてあったジンジャエールを一口飲んだ。泉谷は台の上を見ながら、キューの先端にチョークをつける。泉谷が手玉を打とうとする前に、俺は声をかけた。


「もう一回正しい打ち方を教えてくれ。」


「いいわよーん。」


 視線はこちらに向けず、泉谷が答える。泉谷は昔からこちらが何かを頼もうとすると、何故かおねえ言葉になる。泉谷は高校生の頃の同級生だ。俺が大学院二年生であるのに対し、泉谷は大学を卒業して社会人二年目である。社会人になった泉谷と比較すると、俺はまだまだ振る舞いもお金の使い方も学生であると実感させられる。今日は休日であるため泉谷も私服である。黒のスラックスに、グレーのニットのセーターを着ている。背が高く手足が長いためか、シンプルなその装いが一層清潔感を醸し出していた。


「まず、手玉と狙いたい球とポケットの位置を確認する…ってのはいいな。」


「もちろん。」


 腕を組み、俺が答える。調子に乗るな、という泉谷の視線を浴びて俺はそれ以上何かを言うのはやめた。とりあえず組んでいた手も解いた。


「今回狙うのは、それぞれが一直線上にあって狙いやすい十三番だ。」


 泉谷がキューで十三番の球を指す。手玉、十三番の球、ポケットの位置が一直線上にある。それぞれの距離関係は先ほど俺が打った状況の倍以上はあるが。


「そうしたら、その後に狙いたい球を考える。この場合は、ここにある十番だ。」


 十番の球は、手玉から見て十三番の球の左隣にあった。こぶし二つ分ほど離れている。手玉は泉谷の左手前のポケットの近くにある。十三番の球を手玉の対角線上にある、右奥のポケットに入れるつもりだろう。


「この十三番を入れた後、手玉はどこにあると楽だと思う?」


 泉谷がこちらを見ている。俺は数秒思考し、答える。


「まぁ……手玉が十三番の位置にあると、十番を落としやすいな。」


 十三番を右奥に入れて、その位置に手玉が止まれば、十番の球を左奥に落としやすそうだ。


「その通り。そうやってきちんと後の事を考えて打つのが、正しい打ち方だ。」


「……おう。」


 それくらいは分かる、と言おうかと思ったが、素早く泉谷が口を挟んだ。


「お前さっき、後の事を何も考えてなかっただろ。」


 図星だった。


「あんなに簡単な球を落とせなかったのは、単純にへたくそだって言うのは事実だ。」


 それには全面的に同意である。ビリヤードは数えられる程度にしかやったことがない。泉谷は大学に入ってから、暇さえあればビリヤードをしていたはずだ。技術の差は歴然である。


「それでも肩に力入りすぎ。この球は絶対に落とすぞ、って力み過ぎだったしな。後の事を考えてリラックスして打つのが大切だな。」


 泉谷がじーっとこちらを見ている。ちなみに後の事を考えろ、力を抜いてリラックスして打て、というのは昔も言われたことがある。


「うっす。」


 素直に俺は答える。俺は全く基本がなっていない、技術も、思考も。


「あとストローク少なすぎ、腕が変に上がりすぎ、脚短すぎ。」


「何気なくコンプレックスをいじるのやめてくれる?」


 言われっぱなしも癪なので、抗議する。泉谷は笑いながら、手玉を打つ態勢に入った。背筋をビリヤード台と平行に伸ばし、顔をビリヤード台ギリギリまで近づける。手玉を打つために全神経を集中させているのが分かる。一度、二度、ストロークをした。泉谷の長い腕が、滑らかに動く。それでいて緩急があり、思わず見惚れる。三度、四度、五度とストロークが続く。俺が数えるのをやめた少し後に、泉谷は手玉を打った。手玉は勢いよく転がっていき、十三番の球に真っ直ぐ当たった。十三番の球は、手玉が辿るはずだった軌跡を描くように転がり、ポケットに吸い込まれていった。この長い距離をよく入れられるな、と感心する。手玉を見ると、十三番があった位置にずれなく綺麗に止まっていた。


「すごいなほんと。」


「こうやって手玉を狙った位置に止めるとかは練習が必要だけど。」


 キューを置き、泉谷は机にあったグアバジュースを飲む。グアバジュースなんてそうそうあるものではないが、泉谷はそれを見つけると必ず注文する。


「事前に次の事を考えないと、今何をすべきかも分からないからな。」


「なるほどな。」


 耳が痛い。準備の大切さは、ここ最近実感していることだからだ。


「ビリヤードは手玉を打つ前までの準備が重要。頭を使うスポーツだからね。」


「……俺は明後日の面接の準備をしなくていいんだろうか。」


 明後日はとうとう第一志望の企業の面接日である。にも関わらず、俺は泉谷とビリヤードに興じている。唐突に誘われ断ったものの、泉谷の巧みな話術に乗せられ、連れ出された形である。俺自身が家で引きこもって面接の準備をするのに嫌気がさした、というのも十分な理由である。


「大丈夫でしょ。ここまできたら、あとは家で悩んで考えても仕方ないし。」


 再びキューにチョークをつけながら、泉谷は言う。


「それはそうなんだけど、不安だわ。」


 どう準備をしても、不安なものは不安なのだ。それをこの就職活動を通じて学んだ。不安なのは、これだけ準備したにもかかわらず、落ちてしまったらどうしよう、と思っているからだと気づいた。努力は必ずしも報われない。努力をした分だけ前に進めるわけではない。準備をして本番に臨み、失敗したらその原因を追究する。原因が分かったらその改善策を考え、身につける。そして再び本番に臨む。この一連のサイクルを何度も繰り返すことを、努力と言うのではないだろうか。努力が報われるのは、本番に成功した時だ。その本番がいつなのかを明確化するのは難しい。おそらく、今回の自分にとっての本番は明後日の最終面接だ。長期間に渡って就職活動を続けてきて、第一志望と定めた企業がそこだからだ。それを決めたのはここ最近の話、二週間ほど前だ。期限ぎりぎりまでそれが定まらなかったのは、自分の優柔不断な性格からくるものだろうか。


「大事なのは日頃から準備をする事。後は本番でビビらない度胸。」


振り返って、笑顔で泉谷は言った。


「その二つをお前はもう持ってるよ。明後日は自信を持って決めてこい。」


 泉谷は次の手玉を打つ準備に入る。先ほどと打って変わって、十秒ほどで十番の球をポケットに入れた。手玉は、これもまた、次の球を落としやすい位置に止まっていた。


 結局このゲームは、俺の順番が回ってくることなく終了した。






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時刻:午前十二時

所持品:交通系ICカード(残額:二千四百円)、目薬、傘、電話番号の書かれた紙

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