第05話 さし、進む
何時間もかけて帰ってきたのに、家に入れないとは何事か。
自分の浅慮さに落胆した。カバンを無くしているのだから、鍵が無いのは当たり前なのに。自宅の扉の前で途方に暮れる。ドアノブを回して引いても、金属同士がぶつかる音が響くだけだ。窓側に回ってみたが、鍵がかかっていた。普段は開けっ放しなのに、こういう時に限って窓の鍵を閉めてしまっていた。座り込みたくなる衝動に駆られる。ただ、ここで座りこんでしまえば動けなくなる。
雨がしとしとと降る中、歩き出す。持っていた傘に、この時ばかりは感謝した。雨の中、傘も差さずに歩き回ることができるほどの体力はもう残っていない。持っていてほしかったのはカバンであるが。
次に向かうべき場所は、家を借りた店舗だ。鍵を無くしたと言えば、何かしらの対応をしてもらえるだろう、という希望的観測によって向かうことにした。いつもの半分ほどの速度で街を行く。街を歩く他人の数が増えてきた。休日だからだろうか。母親と子供が大きな紺の傘と小さな黄色の傘を差して歩いている。自分の持っている傘は、柄が黒色のビニール傘だ。記憶違いでなければ、元々持っていたビニール傘の柄の色は白だった。どこかで取り違えたのだろう。にも関わらず、ここまで傘を手放さずにいる経緯は推測不能である。傘じゃなくてカバンを持てカバンを。
以前、自宅を借りる時に来たことがあるので、家を借りた店舗への道を覚えていたのは幸いだった。しかし、流石に営業時間まで覚えていたわけではない。店舗の自動ドアはうんともすんとも言わず、白文字で十一時開店と書かれた文字にため息がこぼれた。
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【一年三ヶ月前】
「自分が本当にやりたいこと、って何だろうな。」
俺がつぶやき、山岡が歩を前に進める。大学生になって将棋を指したのは、後にも先にもあの一回だけだった。
「本当にやりたいこと、か。」
「そうそう。」
一人暮らしをしている山岡の部屋。お互いの視線は盤上の駒に注がれている。ルールこそ知っているが、戦術だの何だのを知らない二人の一局である。駒の位置はまばらで、特に一貫性があるようには見えなかった。
学生は勉強をすることが本文である、と大学に入るまでは思っていた。小学校の勉強は、中学校で活かされ、中学校の勉強は高校で活かされ、高校の勉強は大学で活かされる。そうしたら、大学での勉強は何に活かされるのだろうか。社会に出て、大学の勉強が大いに活かされる気がしないというのが、俺と山岡のなんとなくの共通認識だった。そして、勉強とは何なのか。勉強とは、机に向かってやることだけを指すのではなく、もっと広いものを指すのだということは、経験として分かるようになった。
「山岡は何がやりたいの?」
「ゲームかな。」
あっけらかんと答える。前から山岡は本当なのか冗談なのか判別しにくい返答をすることが多い。あなたのやりたいことは何ですか、なんて質問はこの数か月で嫌と言うほどされてきた。その意趣返しだろうか。ここ数か月、スラスラと応えてきた答えはこの場には相応しくないというのは明らかだった。
「中田はどうなんだよ。」
俺は考えてみる。自分のやりたいこと。ここ最近は就職活動一筋で、特に休んだりもしていない。日に日に寝ても取れない心労が溜まっていっている気がした。
「俺は……温泉に入りたいかな。」
俺の返事に対し、山岡が一瞬こっちを見て、盤上に視線を戻した。
「それいい。ほい。」
俺の歩が、山岡の歩に取られた。
「いくならどこがいいかな。草津とか。」
割と真面目に聞いた質問が、いつの間にか旅行の算段を立てる話になっていた。それもいいかなと思い、思いついた温泉地の名前を口にした。
「まぁ温泉なんてどこにでもあるからな。九州の湯布院とかどうよ。」
山岡が俺の次の手を待ちながら、携帯をいじる。湯布院の名前が山岡の口から出てくるとは思わなかった。
「湯布院かー、行ってみたい。」
お互いに分かっていることは、俺らが大学に入るまでに描いていたやりたかったことは、もう無いということだ。そうなった時に、学生はそれぞれ自分がなりたい将来の姿を、妙に悲観的に描きがちになってしまう。気がする。俺は香車を前に進める。
俺はやりたいことを選び、山岡はなりたいものを選んだのだろう。
携帯電話が鳴り響いた。俺は慌てて携帯電話を取る。山岡が笑みを浮かべながらこちらを見ている。その電話は、俺が最終面接に合格したという連絡だった。
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第一志望の企業から内々定の連絡があったあの日、俺は山岡の家に遊びに行っていた。その時の将棋は、結局俺が勝った。泥仕合だったと思う。勝ったと言ってもなぜ勝てたかは明確には分からないし、二人の実力差が原因では無いと思う。次も勝てる確証は無い。次があるのかも分からないが。
午前十一時までの時間を持て余した俺は、近くのコンビニでおにぎりを二つとペットボトルのお茶を買い、店内で食べていた。最近のコンビニは、飲食のできるカフェスペースのようなものが増えてきている印象だ。ICカードが使えるのも助かった。おにぎりが百円セールをやっていたのも、店内に入った理由である。無駄にお金を使えばピンチに陥るのは目に見えている。緑色のラベルに包まれたペットボトルを傾け、お茶を飲む。喉を通るお茶の感触が爽快だった。昨晩のビールよりも遥かに美味しく感じた。体に水分と栄養が補給され、なんとなく落ち着いた気分になる。座っていると、体がいつもより熱を持っていることが分かる。両腕は重く、体が前のめりになるのを抑えられない。無理矢理立ち上がる。店内の時計が十一時になったのを確認して、コンビニを出た。
店舗に到着し、中に入ると既に何組か訪れている人たちがいた。日曜日なので、家を見学に来る人が多いのだろう。店内は明るく、白を基調にした机や椅子が揃えられていた。店内で対応している方々はお店で統一された赤いジャケットを身に纏っている。俺は手が空いていそうな人に声をかけた。正直に、家の鍵を無くしてしまったことを伝えると、管理会社に連絡する必要があるとのことだった。その人はこちらの番号に電話してほしい、と言って電話番号の書かれた紙を渡してきた。礼を言って、その場を後にした。
外に出て、紙を見ながら思った。
さて、どうやって電話をかけようか。
時刻:午前十一時
所持品:交通系ICカード(残額:二千四百円)、目薬、傘、電話番号の書かれた紙
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