第3話

▼三味線堀 船問屋「喜ぬ屋」


【池之端のあばら屋から旦那と丁稚が逃げ帰ってきた翌日のこと。昨夜はあれから二人は言葉も少なで、そうそうに床につきました。とはいえ、二人とも寝つけるはずもなく、一晩中眠れずに夜を明かしました。翌日は充血した目をこすりながら、いつもと同じ船問屋の仕事に取り掛かります。弥太郎はというと、二人とは遅れてそぉっと帰宅し、今日は朝からまるで何事もなかったかのように働いております】


丁稚  「旦那様、おはようございます」

旦那  「おはよう」

丁稚  「あのぉ」

旦那  「なんだ、仕事のことか?」

丁稚  「いえ、その、昨日の」

旦那  「仕事に集中せい」

丁稚  「はい」


【昨夜のことを言い出せない丁稚と、圧力をかける旦那。そこに、当然何も知らない船頭が船と荷のこと、つまりは仕事のことを話しに参ります】


船頭  「増上寺普請のための材木を運ぶが、いいかい?おい、旦那」

旦那  「ん?ああ、ああ、いいよ」

船頭  「旦那、今日は元気ないな?どうしたい?」

旦那  「ちと昨晩眠れなくてね。別にどうってことないよ」

船頭  「働き過ぎるのもほどほどにな」

旦那  「わかってるよ。ありがとう」

船頭  「小僧、船を出すから手伝ってくれ。おい」

丁稚  「ん?ああ、はい、ただいま」

船頭  「あれ、小僧さんも疲れてるな?」

丁稚  「はは、お気になさらず。大丈夫ですよ」

船頭  「ここのところ、寒の戻りもあるし。空気は乾燥してるうえに風も強え。流行り病だといけねぇから、お大事にするこった」

旦那  「ああ。病ねぇ、病かな、病かぁ」

船頭  「ますます悩んじまって。しょうがねぇな。もう行くぜ。お、弥太郎、お前は大丈夫か?」


【そこへ、まさに昨夜奇妙奇怪な姿をさらしていた弥太郎が参ります。船頭にとってはいつもと変わらない弥太郎。丁稚にとっては恐るべき弥太郎。弥太郎のほうは時折微笑みも見せるような屈託のない様子。旦那と丁稚にとって、それがまた怖い】


弥太郎 「なんです?藪から棒に。大丈夫ですよ。今から出立ですか?手伝いましょう」

船頭  「頼んだ」

弥太郎 「あなたも力をお貸しください」

丁稚  「えぇっと」

弥太郎 「さぁ、いきましょう。さぁ」

丁稚  「だ、旦那様」

旦那  「いきなさい」


【何事もなく振る舞う弥太郎と、昨夜の光景が目に焼き付いて離れない丁稚の二人。丁稚のあからさまな動揺に船頭は終始首をかしげています。それでも船問屋の仕事は止められません。せわしない船着き場の喧騒へと向かいます。店に残った旦那は、思案顔を続けていましたが、みなの後ろ姿を見送ったあと、思い立ったような顔つきとなりました。旦那、このままぎくしゃくとした弥太郎との関わりは良くないと思い、機を見て昨夜のことに決着をつけようと決心した次第】


【ややあって、一仕事終えた弥太郎が店に戻ってきたところで】


旦那  「これ、弥太郎」

弥太郎 「はい、なんでしょう?」

旦那  「あとで、ちょっと話がある」

弥太郎 「はい」

旦那  「手があいた時でいいから、奥の間で少し話そうじゃないか」

弥太郎 「ええ、かしこまりました。もう一刻ばかりは他にやることがあるので、そのあとに」


【旦那にとってはいつもより遥かに長く感じられる時が過ぎまして、弥太郎がもう一仕事終えて帰って参りました。そうして二人は約束通り、奥へと入ってゆきます】


旦那  「弥太郎、話というのはだな」

弥太郎 「はい」

旦那  「お主もだいたいは勘付いているであろうが」

弥太郎 「(黙したまま)」

旦那  「わたしたち二人だけだ。誰も聞いてるものはおらん。はっきり言う。昨夜のことだ」

弥太郎 「大変申し訳ございません」

旦那  「なにも謝る必要はない。わたしたちのほうこそ、後をつけていったりしてすまないと思ってる」

弥太郎 「大変申し訳ございません」

旦那  「いい、いい。ただ、あれがどういうことだったのか、今のところ誰にもわからぬ。お前しか」

弥太郎 「(黙る)」

旦那  「嫌かもしれないが、誰もいないのだ、いったいどういうわけだったか、教えてくれるか?志津屋さんも関わりがあるとかないとか」

弥太郎 「志津屋さんとは、今回と同じようなことが過去にもあって」

旦那  「それで、そのことは伏せたまま紹介文とともにうちへ来たのか?」

弥太郎 「申し訳ございません」

旦那  「お前が謝ることじゃぁない」

弥太郎 「(黙る)」

旦那  「まったく。しかたがない。まず、お前はどうしてあんなところへ?見たところ、墓参りだろ?」

弥太郎 「ええ、好き合った娘で、お糸という、今はもう亡者でございますが」

旦那  「野暮なことは聞かないよ。好いた者同士だ。だがな、片や今は亡き者ならば」

弥太郎 「わかっております」

旦那  「ふんぎりをつけるしかないよ」

弥太郎 「わかっておるのですが」

旦那  「が、なんだい?お前さんが辛抱できないのかい?」

弥太郎 「それもあります。それ以上に、どういうわけか、呼ばれるのです」


【呼ばれる、と聞いて昨夜の記憶がにわかによみがえりゾッとする旦那。しばらく沈黙の時間が流れます。弥太郎は何か言葉を継ごうとして話し始めます】


弥太郎 「最初は空耳や気の迷いかと思いました。でも、ちょうど志津屋さんに奉公する頃から、昼日向でもはっきりと聞こえるようになり。日中は仕事でごまかしますが、夜になると、ましてや眠る頃になるともうダメで」

旦那  「ほ、本当かい?そりゃ」

弥太郎 「この期に及んで、嘘をついて何になりましょう」

旦那  「それでも、お前、水を飲んで倒れたときには嬉しそうな顔を」

弥太郎 「(黙る)」

旦那  「本心ではなく、あんなことを?」

弥太郎 「ええ、眠りから覚めて徐々にではあるのですが、ああいうときになると、もう自分自身の気は薄く薄く」

旦那  「覚えてはいるのかい?少しでも」

弥太郎 「かすかに。ただ」

旦那  「ただ?」

弥太郎 「わたしが覚えているのは、決まって、お糸と逢えて心持ちの良かったということしか」

旦那  「(黙る)」

弥太郎 「旦那様、ここまで話して、それでもわたしは、このお店にいれますでしょうか?またどこかへ」

旦那  「大丈夫だ。大丈夫だが、その、呼ばれて行くのをなんとかしなければなるまい」

弥太郎 「はい」

旦那  「今すぐには何ともわからないが、わたしも、知り合いの医者に尋ねてみよう」

弥太郎 「はい」


【ところが、その晩のこと。三味線堀船問屋「喜ぬ屋」をふらふらっと出てきたのは弥太郎であります。そうして店先の堀の水へ、ドボン。真夜中過ぎにもかかわらず数人がこれを目撃しまして、助けようとしますが見る見るうちに弥太郎の骸は真っ黒な堀の中へと消えていってしまいました】


通行人  「なんだい、なんだい、今のは?水に飛び込んで。火事か?」

仏僧   「補陀落渡海でなかろうか」

通行人  「なんだって?あぁ、ただの入水だ。加持(祈祷)にはならないだろう」

仏僧   「拙僧(節操)がなければ加持(火事)にもなるまい」


【弥太郎の死に「喜ぬ屋」の者たちが気づくのは翌朝のことでございましょう。余談ですが、通りがかりのこの坊主こそ、目黒行人坂は大円寺の坊主。この夜は馴染みの女のもとへ行った帰り道。明和の大火前夜のことでございました】


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【落語台本】三味線堀奇談(しゃみせんぼりきだん) 紀瀬川 沙 @Kisegawa

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