第2話

▼前半:三味線堀 船問屋「喜ぬ屋」


【前のお話から数日が経った或る夜のことです。弥太郎の夜の外出のことは気になりながらも、この頃は徐々に忘れかけていた旦那ですが、この夜はどういうわけか深夜まで眠れず、床に臥しながらもいよいよ目が冴えていました。寝よう寝ようと思えば思うほど、いろいろなところに神経が向いてしまうものでありまして。ここのところ強く吹く風の音も、家鳴りに姿を変え、梢のそよぐ音に姿を変え、ますます眠りを妨げます。そんななか、何やら家の中で人の歩く音が聞こえてきます。旦那はそっと起きて戸の向こうの様子を伺います】


弥太郎 「あぁ、待っていておくれ」

旦那  「ん、誰だ、あれは?」

弥太郎 「わかってる、今行くよ」

旦那  「弥太郎?」

弥太郎 「このところ行けてなかったものなぁ。水も忘れないよ」

旦那  「あれはたしかに、弥太郎だ」


【夜の夜中、家の中をのそのそと歩く弥太郎が見えます。旦那が気づかれないように気を付けながら目を凝らすと、弥太郎はどうやら小声で何かひとりごとをつぶやいているようです。旦那は唾をごくりと飲み込み、よりいっそう注意深く観察致します】


弥太郎 「あぁ、わかってるって」

旦那  「こんな時間に、何をしているのだろう?」

弥太郎 「今日もよく働いた。わたしも会いたいよ」

旦那  「いったい誰と話している?ひとりのようだが」

弥太郎 「ふふ、ありがとう。よし、準備は整った。水は途中で汲んでゆくよ」

旦那  「うわ、こちらへ来る」


【ちょうど隠れた旦那と真正面を向いた弥太郎。なんと、立って歩いている弥太郎の両目はあたかもまだ眠っているようにつぶられておりました。目をつぶりながらも大きな物音も立てることなく、不自由なく歩き、なぜか木桶を手に持ってしゃべっております。時々は笑顔までこぼれる始末。旦那は、弥太郎の不思議な夜の外出がこれなのかと思い当たり、サァっと身の毛もよだつ気分】


野良犬 「(どこからか聞こえる遠吠え)」

弥太郎 「お糸の合図だ」

旦那  「お糸?誰だ?」

弥太郎 「もう行ってもいいのかい?うん、わかった」

旦那  「女に会いに行くのはわかるが、弥太郎の様子は尋常でない」

弥太郎 「大丈夫、気づかれてはいないよ。気づかれたら、もういられない。お前とも会えなくなるものな」

旦那  「物の怪は信じないが、どうも人ならざるもののようだ」


【見えない誰かと話す弥太郎が、店の者に気づかれないよう、目をつぶりながらも静かに家を出ようとします。足もとには、音の出る下駄を無意識に避けたのでしょうか、足袋が履かれています】


旦那  「追うか、追うまいか」


【じつに怪しい光景を目の当たりにして、旦那は逡巡します。すると、家を出がけに弥太郎が言葉を発します】


弥太郎 「あぁ、わかってる。志津屋の旦那様には知られてしまった。もうそんなへまはしないよ。あの後わたしも大変だったんだ」

旦那  「志津屋、先日うちに来たばかりじゃないか」

弥太郎 「お前のような狂者は置いておけないと、すぐにお払い箱さ」

旦那  「なんだって?」


【先日訪れてきた志津屋の旦那は、弥太郎のこの外出、さらには家を出た後のことも知っていたとのこと。先日訪れたときには一切おくびにも出しておりません。そのことで弥太郎が志津屋にいれなくなったとは、もちろん旦那はいささかも知りませんでした。そんな者をおためごかしの紹介文でていよく斡旋するとは。旦那はムッと怒りまして、弥太郎の行動を最後まで確かめようと決心致します】


旦那  「ええい、これは追って突き止めるしかあるまい」

丁稚  「あぁ、旦那様。おはようございます。あれ、まだ暗い。朝?」

旦那  「寝ぼけてるんじゃぁない。ちょうどいい、お前も来るんだ」

丁稚  「え?え?」

旦那  「一人じゃ怖い。いいから。仔細は道すがら言う」



▼後半:不忍池 池之端の空き家


【かくして旦那と、運悪く夜遅く起きてしまった可哀想な丁稚の二人は、月のない春の夜を弥太郎を追って隠れて歩いてゆきます。風に揺れる柳に驚いても、うかつに声は出せません。後ろ姿で見ると、前を行く弥太郎は心なしか足を引きずって左右に揺れるように歩いております。春の朧がそう見せたものか、春の風がそうしたものか、途中で水を汲んだ桶がそうするのか、距離をとる二人からは判然としません。上野は不忍池の池之端まで参りまして、とうとう弥太郎は一軒の空き家に入ってゆきます。そこは、あばら屋と言ったほうが正確でありましょう】


丁稚  「どうしてこんなところに。あんなボロボロな小屋で何を。桶の水もなんだろう?」

旦那  「それを確かめについてきたんだ」

丁稚  「わたしも一回だけ、夜に弥太郎さんがごそごそしてるのを見たことありますが、特に気にも留めていなかったです。今思えば、同じように桶を持ってました」

旦那  「ここまで追うなんて普通はしないだろう」

丁稚  「あぁ、ゾォっとする」

旦那  「で、どうする?」

丁稚  「どうする、とおっしゃるのは?」

旦那  「ここからでは見えないだろう?もう少し近づくしかあるまい」

丁稚  「えぇ?」

旦那  「先に行け」

丁稚  「えぇ?」

旦那  「いいから。わたしの言うことが聞けないのかい?」

丁稚  「うぅ、わかりましたよ」


【旦那から強いられちゃ、丁稚は断ることができません。池の水面に月も浮かばない暗闇のなか、しぶしぶ恐ろしいあばら屋へと近づいてゆきます。壁際へと近づいて、いくらでもある隙間から中をのぞきますと、思わず悲鳴をあげそうになって口をおさえます。落ち着きを取り戻したあと、かりそめの安全を見計らって、旦那を招きます】


丁稚  「旦那様、こちらへ」

旦那  「大きな声を出してはいかん。何を見た?小声で」

丁稚  「言うよりも旦那様も見たほうがお早い。こちらの穴から中を」

旦那  「わかった。どれどれ」


【旦那が同じようにのぞいてみますと、あばら屋の中は狭く、汚く、全景は一目のもと。そのなかには、真ん中にぽつりと一つの無縁仏がたっております。その墓石はあちこち欠けているけれども、誰かが熱心に洗っているのでしょう、夜目にもザラザラとした表面がうかがい知れます。そのかたわらには、黙して座る弥太郎の姿。これだけでもとても不気味ですが、なんと弥太郎、おもむろに桶の水に顔をつけ、ぶくぶくごぼごぼと泡を吹きます】


旦那  「おい、なんだ、あれは?」

丁稚  「わかりゃあしません。弥太郎さんが入水してるんですか?」

旦那  「海でも川でも、すぐそこの池でもなし。どうやって入水するんだね?」

丁稚  「桶で」

旦那  「桶でできるものかね?」

丁稚  「わかりませんが、あれはどう見ても」

旦那  「何か食べているのではないかね?」

丁稚  「それもそれでおかしいですよ。でもほら、このぶくぶくという音。あぁ怖い」

旦那  「なんとおぞましい」


【見えることは見えるのですが見えるだけで、目の前の光景がまったく理解できないでいる二人。とうとう弥太郎は水の中で失神したと見え、桶の水ごと粗末な筵の上に倒れ伏します。桶の水じゃ最後まで遂げられるわけはありません。すぐに水と泡を吹いて、ゼェゼェハァハァとした荒い息を吹き返します。ここで弥太郎は荒い息とともに言葉を発します】


弥太郎 「お糸、また会えたぞ。たしかに。嬉しい、嬉しい」


【そういって弥太郎は口角に泡を浮かせたまま、あお向けになって体をわななかせております。窒息の苦悶から解放され、今では言葉の通り嬉しさに感じ入っている様子。果ては嬉しさを過ぎて、恍惚の表情にも見えます。隙間からのぞく二人にとっては、まさに恐れおののくような異常な光景。恐怖のあまり、丁稚が無意識に後ずさると、足元の板を踏んでピキッという乾いた音が響いてしまいます】


丁稚  「あ、すみません」

旦那  「なにしてる。に、に、逃げよう」

丁稚  「相すみません。相すみません」

旦那  「い、いいから。早く」


【逃げる段にいたっては二人はもはや立てる音など気にしません。あばら屋のなかに弥太郎も、この物音には気づきます。あばら屋の中の人影が壁に近づいてきます。そして最後には、それまで二人がのぞいていた隙間から、今度は逆に、弥太郎の血走った眼が春の夜をのぞいているだけであります。続く彼らの運命はどうなることでしょう。続きは次回のお話にて】

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