【落語台本】三味線堀奇談(しゃみせんぼりきだん)
紀瀬川 沙
第1話
▼三味線堀 船問屋「喜ぬ屋」
【春めいてきた江戸の町の午後、ここは三味線堀の船着き場です。旧暦二月の末、今でいうと三月末から四月の頭の頃のお話。ここ三味線堀の船着き場には、お米や野菜、材木などを運ぶ多くの船が行き来しており、船頭も、陸の問屋も、大忙しの様子で働いております。昨夜から強まる春風のなか、人々は揚げ荷、積み荷に精を出しています。そんな昼下がり、一軒の船問屋に、同じ問屋の仲間が店の旦那を訪ねてきたようであります。どうやら梅や桜を見に行こうといった呑気な話ではないようで】
問屋仲間 「こんにちはー。旦那さんはいらっしゃるかい?」
丁稚 「こんにちは。少々お待ちください。旦那様ぁ、お客さんが参りましたよー」
旦那 「あ、はいはい、ただいま。お、これはこれは、志津屋さんの」
問屋仲間 「突然悪いね。いや、今日も商売繁盛しているようで何よりだ」
旦那 「いえいえ、おかげさまで。朝からたくさんの揚げ荷がありましてな。揚げてはたちまち運ばれ、積んではすぐさま船が出るという」
問屋仲間 「いいですな。物が行き来すればするほど、我々も商売繁盛できますもの」
旦那 「おっしゃる通りで。揚げても積んでも陸の荷は一向になくなりゃしません。大変やら嬉しいやら」
問屋仲間 「そんなお忙しいところ、悪いんですが、ちょっと話をしたくてね。お時間ありますか?」
旦那 「なんでしょう、いいですよ」
船頭 「お~い、旦那ぁ、この俵はもう積んじまっていいかい?」
旦那 「と言ってる矢先に。志津屋さん、ちょいと失礼。あぁ、船頭さん、どうぞどうぞ。安全に頼むよ」
船頭 「あいよ。帰りは木場に寄ってくるからよ」
旦那 「承知しました。だいたい夕刻ごろ、材木を揚げる用意しとくよ」
問屋仲間 「いやはや、やっぱりお邪魔でしたかな?」
旦那 「いえいえ、そんなことありません。商売は時機が肝要で。ご理解頂けますでしょう?」
問屋仲間 「もちろんです。わたしは店のほうはせがれに任せてきた身なんで、こんなこと言えるのですが。こちらは時間に余裕のある身、いつまでも待たせて頂きますよ」
旦那 「恐れ入ります」
船頭 「船出す前に、水もらっていいかい?」
旦那 「いいですよ。この瓢箪でも使ってくださいな。夕方に返して頂ければ」
船頭 「ありがとよ。行ってくるぁ」
旦那 「はいはい。あぁ、お待たせしました。ようやくひと段落しました」
問屋仲間 「よかった、よかった。船頭が出たり入ったり忙しいことで。うちの店も頑張らないといけませんな」
旦那 「何をおっしゃいますやら」
問屋仲間 「いや、今日訪ねてきたのは他でもないんです。先日ご紹介した、弥太郎の働きぶりはどうですかな?」
旦那 「弥太郎ですか?よく働いてくれてますよ。それこそ、荷とともに堀を行ったり来たり。今日も朝から休む間もなく、どこにいるかもわからないくらいで」
問屋仲間 「よかった、よかった。紹介した手前、しっかり働いているかどうか気になったものですから。安心しました」
旦那 「そうですね。いい者を紹介して頂きましたよ。今日び、人手は足りないとはいえ無宿人など雇えなかったりしますから。つてのあるところからでよかったですよ」
問屋仲間 「うちでも存分に働いてくれておりましたらから」
旦那 「でも、そんな働き者をどうして、うちなんかに?」
問屋仲間 「それは、実は、うちのほうで雇い人を新たにしないといけない事情がありまして」
旦那 「へぇ、弥太郎を手放すほどに、ですか?」
問屋仲間 「ええ、まあ」
旦那 「これ以上うかがうのは野暮なことかもしれませんな」
問屋仲間 「いやいや、特に変なことではなく。実をいうと、うちは元をただせば本家が紀州のほうで同じ商売を営んでおりましてな。今度そこから親戚の若い衆が何人か江戸に奉公に出てきたいということで」
旦那 「それはお身内の奉公修行も大事ですな」
問屋仲間 「そうなんです。そういうわけで、いくら商売がつつがないとはいえども必要以上に人手があるのは、ねぇ、分かって頂けますでしょう?」
旦那 「もちろん。そういう事情があったのですな。深くうかがってしまい、相すみません」
問屋仲間 「構いませんよ。紹介文では言葉足らずだったかもしれませんし」
旦那 「いずれにせよ、弥太郎のような働き者を、ありがとうございます」
丁稚 「旦那ぁ、今度の船で来る酒樽はどう致しましょう?」
旦那 「はいよ。それは、「ほ」の三番の蔵へ入れてくれ」
丁稚 「はーい」
問屋仲間 「お酒がきますか、いいですね。樽はどこかのお大尽のところにゆくのでしょうけども。我々も近々、近隣の株仲間をつのって一献どうですか?」
旦那 「すばらしい。ぜひとも。大川に船浮かべて、桜の土手を眺めてなどいいですね」
問屋仲間 「土の上、橋の上から花をめでるより乙なもの」
旦那 「いま来るのは、みちのくの酒なんですが、その席には選りすぐりの銘酒を持参しますよ」
問屋仲間 「きっとですよ」
【すると、到着した船に同乗していたのでしょう、噂の弥太郎が戸口に立って旦那に報告を致します】
弥太郎 「旦那様、ただいま戻りました」
旦那 「おう、おかえり。お疲れさま」
弥太郎 「酒樽のほうは仰せの通り「ほ」の三番の蔵に運びました。これらは明日朝、馬借の蓮次郎がたに受け取らせますから。朝、わたしが応対致します」
旦那 「ありがとう。たのむ」
問屋仲間 「弥太郎、ご無沙汰しているね」
弥太郎 「あ、これは志津屋の旦那様。ご無沙汰しております。今日はどんなご用件で?」
旦那 「ちょっと商売の様子をお互いにね」
問屋仲間 「そうそう。それに、お前のことも。うちから移って行ったんだ、今でも気にかけているんだよ」
弥太郎 「それはありがとうございます。こちらでかわいがってもらいながら、元気にやっております」
問屋仲間 「うんうん」
船頭 「お~い、弥太郎さん、ふかのひれはどこに置けばいい?」
弥太郎 「はいはい、今行くよ。旦那様、どたばたして失礼しますが、呼ばれてるんで行きますね」
旦那 「おう。またあとでな」
【弥太郎は前評判の通り、手際よく船着き場と蔵を行き来し、船頭や人足とも盛んにやり取りしてテキパキと荷繰りの仕事を進めてゆきます。こうして弥太郎が場を去ったのち、旦那がふと気づいたようにこぼします】
旦那 「そういえば、弥太郎には大いに助けられてるんですが、ひとつだけ気になるところはありますな」
問屋仲間 「ほう、どんなことですか?」
旦那 「弥太郎は誰か見初めたおなごでもおるのですかね?よく働く一方で、全然仕事以外のことが見えないので」
問屋仲間 「思い当たりませんな。うちで働いてた頃も、そんなもんだったと思いますよ」
旦那 「最近になってから、なのでしょうか。いや、なぜかといいますとね、弥太郎のやつ、夜、時々屋敷を抜けて出してるそうなんですよ」
問屋仲間 「へぇ、どれくらいです?」
旦那 「四日に一度、くらいですかね。家の者が時々見かけるそうなんです」
問屋仲間 「うちの頃はあまりなかったですな」
旦那 「そうですか。それで、どこかで逢引きでもしてるのかと、少し噂になりましてね。まぁまだ若いですからね。悪いことにならなければ全然いいんですが」
問屋仲間 「聞いてみたらいかがです?」
旦那 「それが女中などが戯れに聞いても、そもそも夜にうちを出てないって言うんですって」
問屋仲間 「相手が女中だから本当のことは言いたくないんでしょう?」
旦那 「わたしが聞けば本当のことを言いますかね?」
問屋仲間 「おそらく」
旦那 「まぁ悪いことではないから、次に夜見かけたら聞いてみますかね」
問屋仲間 「それがいいです。おっと、そろそろ木場から船が戻ってくるかもしれませんね。そろそろ失礼」
旦那 「いや何のもてなしもできず恐れ入ります」
問屋仲間 「いえ、こちらこそお邪魔しました。弥太郎をよろしく」
【二人の話が進むにつれ、徐々に日が傾いて参りました。物寂しく赤みがかってきた三味線堀の風景であります。やや弱まった春風ですが、今度は肌寒さを連れて、狭い戸棚の隙間からヒュウという音を発します。残された旦那は小さく身震いをしてから、襟を正して仕事に戻ります。弥太郎はまだ戻ってきません。仕事はしっかりするが、奇妙な夜の外出をするというこの弥太郎、いったいどういう事情があるのでしょうか。続きは次回のお話にて】
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