檻の中で(未完)

火野佑亮

 新しい曲ができあがった。ギターをスタンドに置き、歌詞をメモした紙にコード進行を書き込む。作品が完成した時の達成感はひとしおだが、それも続けていくうちに、いつしか酷く白けた気分になってきていた。これからどうしようか、と明が言った。

「散歩にでも行かない?」彩織の提案をあきらは受け入れた。

「悪い、その前にちょっと準備させて」

 鼻に貼っていた絆創膏を剥がして髭を剃り、手足の爪を切って角がなくなるよう綺麗にやすりをかけてから、脂気のない手を入念に洗う。どこか儀式じみている、非常に洗練された手つきだった。

「本当に手を洗うの好きね。今日だけでもう何回目?」

「自分自身が汚れているように感じられて仕方ないんだ。何度洗って、石鹸を擦りつけても、決して拭い去れない汚れ。俺はきっと、罪悪でまみれてるんだろうな」

「そうかしら。もし仮にそれが事実だとしたも、きっと悪いのは私たちだけじゃない。この世界のみんな一人一人、汚れを分かち合いながら生きているのよ、そう考えられない?」

「俺も分かってる。でも、どこか納得しきれないんだ。俺を俯瞰するもう一人の俺が許してくれないんだ」

 つけっぱなしにされていたリビングのテレビからはニュースが流れ、日米貿易協定が国会で承認されたとアナウンサーが話をしていた。

「思いつめないでね。話ならいくらでも聞いてあげるから」

「ありがとう。彩織も無理するなよ」

 二人がアパートを後にして歩道に出ると、二羽の烏が空高く舞っていた。互いに片方を追いかけるように円を描き、やがて東の方角へ飛び去っていった。

 永井明は緒方彩織と共依存の関係にあった。他に手を差し伸べる人間がいない日常の業火の中、二人にとって同じ大学で知り合ったお互いの存在だけが、死の眠りを遠ざける唯一の希望の光だったのである。彩織はある精神疾患を抱えており、明は彩織と同じように、自分が精神疾患であることを望んだ。が、その願いは叶わなかった。彼は彩織の疾患に激しい嫉妬を抱いた。たとえそれがどれほど破廉恥で愚かな嫉妬であろうと、彼はその憧れを否定できなかった。明にとって、彩織は純粋な存在だった。悲劇的なまでに純粋な存在だった。彼は歩を進めながらも、破滅的な誘惑と戦っていた。真に不幸な人間は最早不幸を恐れはしない。不幸こそが、その人間にとっての存在意義なのだ。この飽和した欲望は彼の病的なまでのストイシズムと表裏一体なのであり、他ならぬ恐怖だけが倦怠に満ちた精神に喝を入れる。彼にとっての運命のときとは即ち、倦怠が恐怖の劇薬の効能を上回る瞬間なのである。

 朦朧と立ち込める雲の隙間から、太陽が弱々しい光を放っていた。道から眺められる丘には見渡すばかりの家、家、家。多少の壁色のバリエーションはあれど、屋根は八割方黒で統一されていた。明はこの景色を見て、不意に果てしなく遠い異国の街に紛れ込んでしまったような錯覚に陥った。いくら景色を眺めても、その中に詩を見つけ出すことはできない。胸を詰らせる唯物的な気分を吐き出すように、大空の下、小さな溜息を落とした。白く立ち昇ったそれは、天上に吸い上げられるかのようにほどけてゆく。時が経てば、そこにあった温度は忘れる。

 明のかつての記憶は朧げになっていた。多くの時間が過ぎ去っていった気がするが、その長さが想像の範疇を超えてしまっているので、かえって酷く非現実的に感じられてくるのである。

 現在とは、未来の暗闇を切り裂きながら永遠に飛翔する矢の切っ先に他ならず、言うなれば記憶は、生命が描く軌道の安定を保つ役割を担う矢羽やばねである。だがふとした瞬間、それは果たして飛んでいるのだろうかという疑問がちらつく。本当は未来も過去も無いのではなかろうか?自分という存在はただ、虚無の口元のように広大無辺な中空の一点に静止しているだけではなかろうか……

 かつて自意識は、重力に従って首を吊ろうとしていた。重力から解放される方法、それは即ち重力に素直に従うことであった。明にとって「自分に忠実に生きる」とはつまりなのである。だがそれは方法論の一つに過ぎない。結局彼は、その先に待ち受けている結末の尋常ではない軽さに耐え切れなかったのだ。

 明はこの暴力的な自由に代わって、自分を束縛してくれるものを探した。そのうちの答えの一つが彩織だった。こうして彼は、存在の輪郭という永遠の仮説を証明する為に「永井明」として生き抜く振りをすることを強いられたのである。

 車道との間には末枯うらがれた街路樹が、衆目に晒されるように立ち並んでいる。明の目にはそれらが自分自身の投影のように映り、酷くいたたまれない気分になった。次々と通り過ぎてゆく車のタイヤに目で追いかけながら歩く道は、近くのどぶ川の匂いがしていた。

 死を肯定する価値観は生命の尊厳と共に、アスファルトとコンクリートの下敷きになっていた。そして前者だけが、亡霊のように、何度となく甦ってはこの街を侵している。きっとそれは、長い間「死」から目を伏せてきた者たちに対する呪いなのだ。人間がどれ程驕り高ぶろうとも、生き死がその存在を支える両輪である事実は変わらないのだから。

「見渡せば、花も紅葉もなかりけり」

「浦の苫屋の秋の夕暮れ」

 彩織の甘く張りのある声と、明の重みを帯びた声が交差した。

「どうしたの、突然」

「街の風景って、この歌みたい。最早、本当に何もないんだなって」

「そうだな。ここには、何もない。『何もない』と言えてしまうほどに、俺たちの周りは物に溢れ、安全であるよう整備され過ぎてしまった」

 沈黙が二人の間に分け入った。逃れようもない、あらゆる生気を奪い去るような沈黙だった。

「この歌、源氏物語を典拠にして詠まれたって知ってた?」

「そうだったのか、初めて聞いた」

「光源氏が明石で侘しい暮らしを余儀なくされる場面があるじゃない?その時の心境を歌っているのよ」

「成る程。……でもこの街は海がない分、当時よりも尚更悲惨だな」

「そうね。この街には、海がない。」

 二人は帰り際、アパートの近くにある神社に立ち寄った。十数段ある石段を登った先の狛犬の裏側には、葉を落とした木の梢に引き終わったおみくじが括り付けられていた。

「私、時々こう思うの。純粋な悲しみって、きっと時に縛られないんだって。時にも場所にも左右されず、ただ澄んだ悲しみのままで、あるがままの姿でにあり続けるの」

 通り過ぎる車の音はいつしか消え、鳥のさえずりが聞こえる他には至って静かである。明はそのさえずりを聞きながら、ふと鶏の鳴き声を聞いたのは、果たしてどのくらい前のことだったかと考えてみた。しかし答えは出てこなかった。

「俺さ、この場所のしんとした静寂が好きなんだ」

「その話、よくするわね。ここに何か自分にとって大事なものがあるって、そう感じるんでしょ?」

「あれ、もう話してたっけ?言葉にするのは難しいんだけど、なんとなくね」

 御神木は遠い昔に雷が落ち、枯死寸前となっていた。根から養分を吸い上げることはできるのだが、梢に緑は茂らず、そこにおける命の循環は失われている。その沈鬱な姿は、やがて起こるであろう波瀾の焔にたそがれゆく、生きた神話の運命を象徴しているのであった。あるいはその政治的及び経済的な波瀾は既に人知れず、着々と、触れてはならぬ禁断の領域を脅かしているのやもしれない。

 二人は手水舎で手を清めた後、賽銭を投げて鐘を鳴らした。二礼二拍手一礼を終えた後、明は彩織の目頭が熱くなっていることに気付いた。

「どうかしたか」

「いや、なんでもないの」彩織は首を振って否定した。

「そうか」明は今まで歩いてきた道を引き返しながら、こう付け足した。「きっと、本当に心の底から思っていることなんて、俺たちには言葉にできないんだろうな。もし仮に言葉になったとしても、恐らくそれは伝わらないんだ」

 彩織はその言葉に深く頷いていた。

 帰りの道中、明は彩織が昨晩見た夢の話を聞いていた。それはあまりに不可思議で、抽象的な夢だった。


 檻の中にいるのは五匹の猿だった。猿はいずれも、酷く動きが鈍かった。まるでその場所だけ、時間の流れが極端に遅くなっているかのようだ。そこには梯子があり、登った上には一匹の黒い犬が佇んでいる。猿が梯子を登った瞬間、下に居る残りの猿に水が降り注ぐ仕組みになっていた。檻の外には金髮の大男が立っており、猿の様子を眺めて面白がっている。男は身長が百九十センチほどの初老で日本人離れした体格をしており、オレンジ色の肌に纏った黒のスーツ姿からは強烈な威圧感を漂わせていた。

 猿達は犬が気になるのであろう。そのうちの一匹が梯子を登ろうとするのだが、他の猿が水をかけられないよう熱心に攻撃し、やがてどの猿も梯子を登ろうとしなくなった。すると男は、元々いた五匹のうち一匹を新しい猿に置き換えた。新しい猿は、梯子と犬を発見し、なぜ他の猿が犬に関心を示さないのかと疑問に思いつつも、のろのろと梯子を登ろうとする。そして他の猿達は新しい猿を攻撃した。新しい猿はなぜ攻撃されたのか理解できないが、攻撃されない為に梯子を登ることを諦める。

 この置き換えの動作を五回繰り返し、最初から檻にいた猿は全員いなくなった。檻に居る猿は水を浴びせられたことはないが、梯子に登ろうとする猿もいない。全ての猿は何故こんなことをしているか分からないまま、梯子に登ろうとする猿が現われると攻撃し続けた。

 男は一連の「芸」を眺めてたいそう満足したらしく、梯子の上の犬を抱き上げた。すると猿は一瞬にして動きを止め、辺りはしんとした静寂に包まれていた。そこに安らぎはなく、言いようのない滑稽さだけが感じられる静寂だった。男は笑ってよく懐いている犬を抱きかかえたまま、その場所を立ち去っていった。

「なんと言うか……どことなく象徴的でもあるし、不気味な夢だな」

「そうでしょ。夢から醒めた時は、細かい内容までしっかりと覚えていたこともあって悪寒さえ感じたわ」


 その数日後、明は夢を見た。

 そこは荘厳な杉林だった。木々の隙間からは朝の光が眩しく差込んでくるというのに、辺り一帯には銀の針のような雨が降り注いでいる。

 どことなく、嫌な予感がする。早くここを後にしなければ。そう直感が語るものの、すっかり道に迷ってしまっていてどの方角へ進めばいいのかも分からない。そうしているうちに濛濛たる霧が立ちこめてきた。

 逃れようにも、既に万事は休していた。これから恐ろしいが起こるという確信に、思わず息を呑む。やがて霧の中から、江戸時代風の服装に身を包んだ花嫁行列が現れた。

 思わず大木の陰に隠れる。じっと息を殺しているなか、自身の鼓動だけがやたらと五月蠅い。行列はこちらへ向かってじっくりと迫って来る。止まって辺りを見回す。また進む。おそらく明の気配を感じ取っているのであろう。鳥肌が立ち、額から冷や汗が流れてきた。少しでも見られたらお終いだ。

 行列の者は皆一文字笠の下に仮面を被っていた。花嫁の笠の下からは、彼女の被っている狐の仮面が見えた。明はそれを見た時、仮面の下の彼女がであるかを理解した。

 どのぐらいの時が流れたのだろう、行列が通り過ぎていった後には辺りを覆っていた霧は晴れ、日照り雨も止んでいた。気付けば場所は林の中の川の上流に変わっている。いつの間に自分はこんなところまで歩いてきたのだろう。問いかけこそ浮かんできたが、疲れ切った明に何かを考える余力は残っていなかった。ふと見上げた空には、龍を象ったような雲が木々の隙間から姿を覗かせている。

 その雲を目にした時、明はもはや恐怖を恐怖と思わなくなっていた。あの背後霊のような倦怠との距離がなくなったと同時に、彼はそれからもすら自由になっていた。自分は一体何にそれほどまで拘って生きてきたのだろう。これまで感じてきた苦痛や感傷は嘘のように雲散霧消している。……


 夢から目覚めた翌朝、いつも二人で寝ているベッドから彩織の姿が消えていた。

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檻の中で(未完) 火野佑亮 @masahiro_0791

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