episode 5 ー譲歩と拒否ー
家に着くと氷を出して水と一緒に袋に入れた。
薬を塗ってパッチを貼った上から冷やす。
『コンビニでなんか食べ物買ってくるよ。』
「じゃあパスタ買ってきて。」
『りょーかい。』
私のキーケースごと持って行った五十嵐の背中を見て思う。
これは良くない。側から見るとただの同僚ではなくなっている気がする。
もう1か月以上会っていない彼氏。6年付き合っている彼とは結婚を考えたこともあった。お互いの家族も知っている。高校の友達はみんな私達が結婚するんだろうなと思っているぐらい私達は一緒にいる。
外堀が埋められている。でも中身が伴わなくなってきている。
北陸の小さな町の中で選んだパートナーは、東京という大都市に出たことによって霞んでいった。
東京の大学に進学した彼から2年ほど前に言われた言葉がある。
「俺、麗衣のこと好きかどうか分からんくなってきた。」
そのときは悲しくて意味が分からなくてひたすら泣いて引き留めた私も、就職で東京に引っ越してきた今その意味がよく分かる。
世界は広い。
もう恋心は無いのに。
6年という歳月は「別れよう。」その一言をなかなか言わせてくれない。
残っているのは情、なのだろうか。
******
ドアに鍵を刺す音がして思考が引き戻される。
何度か回しているあたり慣れてない感じが読み取れる。
ガチャッ
あ、開いた。
『どうしたの?』
五十嵐が戻ってきた。顔を覗き込んでくる。
そんな変な顔をしてるだろうか。
『なんか泣きそうな顔してる。』
「なんでもないよ。刺されたとこが痒すぎてマヌケすぎて情けなくなった。」
五十嵐はほんの一瞬だけ微かに眉間に皺を寄せた。
『蚊にモテモテなのもつらいね。』
どうやら誤魔化されてくれたようだ。
袋をガサガサとしながらパスタをチンしてくれる。
なんとなく顔を見られたくなくて動かなかった。
パスタを取り出してビニールを破って蓋を開けた状態で目の前に置かれた。
スプーンとフォークも袋から出してくれる。
こんなに甲斐甲斐しく世話するやつなんだと内心感心した。
今までこんなことしてもらったことがない。
女にモテそうなやつだ。
******
「ごめん。ありがとう。」
そう言うと『何が?』と言われた。
奴はナチュラルにこんなことをしているのか。
「チンしてくれて蓋も開けて袋まで剥いてくれたから。」
『雨宮は猫舌だもんね。』
そう言うと五十嵐は少しだけ笑った。
なんで知ってるんだ。
お礼ポイントはそこじゃなかったんだけど、まぁいいか。
私はパスタを、五十嵐はおにぎりを黙々と食べる。
食べ終わって残ったお酒を飲んでいたらいつの間にか終電の時間になっていた。
「五十嵐、終電。」
『あーそれ言っちゃうんだ?バレないように逃すつもりだったのに。』
いや帰れよ。明日は休みだろうが。
そう思って睨みつけたら目の前にスーパー袋を掲げられた。
『お泊りセット、また買っちゃった。』
なんで家に帰らないんだコイツは。
五十嵐には前科がある。泊めると良くないことが起きる気がする。
今の今まで抜け落ちていたが、そう言えばコイツは付き合ってもない女(彼氏持ち)に結婚しようとか言ってくるとんでもない奴だ。
泊めて、嫌だ、泊めて、と言い合ってるうちに終電の時間が過ぎてしまった。
『あ、時間過ぎちゃった。帰れなくなったから泊めてくれるよね?』
自分で時間稼ぎしたくせに。
ぶん殴りたくなる気持ちを抑えて深い溜息をついた。
******
お風呂にも順番に入って私が出てきたとき、五十嵐はなぜかベッドの上にいた。
『おいで〜。』
な・に・が「おいで」だ!
「五十嵐は床に決まってるでしょうが!!!」
『え、そうなの?』
しゅんとした目でこっちを見てくる。
五十嵐ってこんなことするやつだったっけ?
そんな目で見たって女が全員落ちると思うなよ。
「私彼氏いるって言ったよね?」
思わず低い声が出た。
『知ってるって。でも1か月も会ってないくせに付き合ってるって言えるの?』
先程とはうって変わった五十嵐の冷たい声色にびっくりしてヒュッと喉がなった。
なんでそんなこと知ってるんだ。
私に彼氏がいることは会社の人間も知ってるけど、だからといってプライベートをどんなふうに過ごしてるかなんて誰にも言ってない。
どこかで見かけたとかいう話なら分かるが、ずっと会ってないということなんて四六時中張り付いて監視でもしとかないと分からないじゃないか。
「五十嵐には関係ないでしょ。」
動揺してしまってそんな突き放した台詞しか出てこなかった。
『関係ない…ね。』
小さく呟いてひどく傷ついたような顔がしばらく頭から離れなかった。
居候様が言うには。【連載中】 藤セナ @fuji_sena
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