ぼくの大切
僕は夕暮れの小さな公園にいた。左手に腕時計をして、右手にビジネスバッグをもって、足にはまだ新しい革靴を履いている。どこかの帰り道だっただろうか。影の長く伸びたブランコを見つめて、ぼんやりと考える。
小さな子供が、足元に駆け寄ってくる。誰だろう。緑色のキャップを深くかぶっているせいで顔が見えない。
その子は、右手に持ったぬいぐるみを僕に差し出している。ボロボロに汚れたペンギンのぬいぐるみ。目の焦点があって、ハッと息をのんだ。
幼いころ、僕が持ち歩いていたぬいぐるみだ。いつも一緒だったペンギン。夕食の時は、机の上に乗せて一緒にご飯を食べた。夜は枕元に置いて一緒に寝ていた。保育園のカバンにもこっそり忍ばせて一緒に通った。本当はおもちゃをもっていくのはダメなんだけど、ペンギンと僕だけの秘密。
確か、おばあちゃんが水族館のお土産に買ってきてくれたものだった気がする。ずっと一緒だったせいで、色は褪せて、シミは付いて、ボロボロに汚れている。けれどもペンギンは満足そうだった。幸せそうに汚れている。
僕は忘れていた。とてもとても大事にしていたのに、忘れていた。そんなぬいぐるみがあったことも忘れていた。
保育園のころの出来事は、運動会も友達の家も先生の顔も、ぼんやりとだけど覚えているのに。どうして、こんなに大切なことを忘れていたのだろう。
忘れるのは、『大切』の気持ちとは関係ないのだろうか。もしかしたら、好きな人も、なりたかった夢も、今が一番楽しいという感覚も、この先忘れてしまうのかもしれない。
嫌だ、忘れたくない。全部全部覚えていたい。
涙は出てこないけど、体に力が入らなくて、僕はしゃがみ込む。
少年の顔が見えた。
僕だ。
もう捨ててしまった緑の帽子と、お気に入りのライオン柄のtシャツ。夏休みは毎日のようにしていた恰好。
小さな僕は優しい顔をしていた。大切なものを忘れた僕を糾弾することもなく、ニカッと笑った。
「お兄ちゃん悲しそうだから、僕の大切なものを貸してあげる」
今の僕は、あの頃のペンギンよりも大切なものを持っていない。代わりに貸せるようなものなんてない。だから。
「いいよ、僕は自分でみつけるから。大丈夫。ありがとう」
小さい僕はもう一度、笑った。
微熱のまどろみ 七川 @coffee_time
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