微熱のまどろみ

七川

プロローグ

 トントントントントン。


 リズムのいい音が聞こえる。まどろみの淵から這い上がり、重い瞼を上げる。頭がぼんやりとしていて、ここが現実なのか夢なのかが分からない。

 

 すぐ横の窓からは暖かい色の光が部屋に差し込んでいる。僕が寝ている布団も、すぐ隣に置いてある体温計も、熱さましシートの箱も、ランドセルも、みんなうっすらとオレンジ色に染まっている。絵の具が空気に溶け出したように、部屋の空気そのものが淡く染まってしまったようだ。


――ああ、そうだ、今日は学校を休んだのだ。


 ふわふわとした頭に、少しずつ意識が戻ってくる。


 トントントントン。


 包丁がまな板を叩く音が聞こえる。キッチンからだ。お母さんが夕飯を作っているのだろう。何となく、幸せな気分になる。


 キッチンのほうに顔を向けると、頭の下から、たぷん、という音が聞こえた。すっかり溶けた氷枕の音だ。その上に敷いたタオルのザラザラした感覚が、頬越しに気持ちいい。


 まだ熱はありそうだけど、もう苦しいほどじゃない。できれば学校は休みたくなかったけど、こうして夕陽を眺めながら、布団に入って夕飯を準備する音を聞くのは特別な感じがした。とても、特別な日。


 ぱたぱたとスリッパの音が聞こえる。目を覚ましたことに気が付いたのか、お母さんが手を止めてこちらへやって来る。


「目を覚ましたの?熱は大丈夫?」


 うん、と僕は答える。


「夕飯はもうちょっとかかるけど、食べられる?ああ、それか、りんごおろしてあげようか」


 りんご。


 すりおろしたりんごは、ふわふわと柔らかくて、瑞々しくて、優しさの象徴のようだ。風邪をひいたときだけの特別な食べ物。なんだかとても懐かしい。

 りんご食べたい、と僕は答える。


「わかった、ちょっと待っててね」


 とても優しい顔でそう言って、お母さんはキッチンに戻っていく。やっぱり今日は特別だ。


 もう少し、この優しい時間を味わいたいけれど、まだ眠気が残っている。後ろから、眠りの世界に引っ張られている感覚。


 りんごを待つ間、少しだけ眠ってしまおう。オレンジ色の世界に別れを告げて、再び、瞼を閉じる。


 その微熱のまどろみの中、夢なのか現実なのか分からない世界をいくつか見た。

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