巻き戻しパレット

傘木咲華

巻き戻しパレット

「ミキくん」

 彼女は自分――和佐間わさま幹久みきひさのことをそう呼んで、

「アヤちゃん」

 幹久は彼女――色川しきかわ彩名あやなのことをそう呼んでいる。

 二人は幼馴染で、家も隣同士。幼い頃からいつも一緒で、最早家族みたいな関係だった。周りからもからかわれて、恥ずかしいという感情も覚え始めた高一の冬。

 幹久はいつも通りに下校して、玄関の扉を閉める。すると何故だろう。唐突に視界が滲み始めて、その場にしゃがみ込んでしまった。理由はとっくにわかっているはずだった。なのにどうして、一週間経った今なのか。どれだけ叫んでももう手遅れだというのに。


 彩名は一週間前に転校をした。

 親の転勤という良く聞く理由で、彩名からは「ごめんねー」と軽い感じで打ち明けられたような覚えがある。だから幹久も、まるで旅行にでも出かける家族を見送るように「じゃあね」と言った。彩名は別に恋人ではない。友達ともちょっと違って、やっぱり家族という言葉が一番しっくりくる。当たり前のように幹久の部屋に上がり込んで、ゲームをやることが多かった。幹久の姉も彩名のことを妹のように可愛がっていて、それで……。

「……何でだよ」

 そんな当たり前が、いつの間にかなくなってしまったなんて。

 時間が経てば経つ程に、心が苦しい。苦しくて苦しくて、たまらない。今まで平気だったのが不思議なくらい、家に入った瞬間に感情が溢れ出してしまった。

 いや、今までずっと我慢していた、と言った方が正しいのだろう。所属している美術部だってずっと顔を出せていないし、好きだった絵とも向き合えていない。だいたい、幹久がちゃんと部活に参加していれば、帰宅部である彩名の方が先に帰っているはずだった。

 そう、まるで今日みたいに。家に帰ってきたら自室の電気が点いていて、彩名が勝手にくつろいでいる。そんな日が何度もあった。

(え……?)

 幹久は慌てて目元を拭い、何度も瞬きをした。

 視線の先には幹久の部屋があって、扉の隙間から光が漏れている。まさか点けっぱなしで家を出た……なんてことはないだろう。むしろそうじゃないと信じたい気持ちが高まっていた。

 一歩一歩、自室に近付く度に鼓動が高鳴る。

 期待なんてしない方が良い。そんなことはわかっていた。でも、一ミリも希望がないのかと問われたら、そんな訳はない。

 きっと、彩名も後悔しているのだ。

 一緒にいるのが当たり前すぎて、改めて何かを伝えるのは小っ恥ずかしい。恋人でなければ友達でもなく、ただの幼馴染だから。顔を合わせるのが日常なだけの間柄だから。いい加減「ミキくん」と「アヤちゃん」からも卒業すべきだと心のどこかで思っていたから。

 だからこの別れは必要なものなのだと、一週間前は思っていた。

 でも、気付いてしまったのだ。これはただの高校生の背伸びだったのだと。別れの瞬間だけ大人ぶって、強がって。だけど結局心は子供だから、あの日の行動に後悔してしまう。

 後悔して終わりなんて、そんなのは嫌だ。

 せめてちゃんと伝えたい。彩名もそう思ってくれているのかも知れない。

「アヤちゃん……?」

 恐る恐る、扉を開ける。

 伝えることも上手くまとまらないまま、鼓動だけが速くなる。でも、それがどうしたと幹久は思った。格好付けるのはもうやめよう。どんなに顔が歪んでも、後悔は繰り返したくなかった。だから、前を向く。前を見て、逃げずに扉の先の相手と目を合わせた。

「…………」

 すぐに言葉は出せなかった。

 だって、意味がわからないのだ。

 ――姉がいる。彩名ではなく、ただの姉だ。

「おかえり、今日も早かったな」

「……何でいるの」

「お前、才能はあるんだから部活くらい顔出しとけ。それが嫌ならここで描け」

 気だるそうに頭を掻きながら、姉は一冊のスケッチブックを差し出してくる。唖然としたまま受け取ると、そこには何かの紙が栞代わりに挟んであった。

 だいたいは想像できていたが、姉が見せたかったページには彩名がモデルになった書きかけの絵があった。色が塗られていない中途半端なもので、それ以降はまっさらだ。

「ん。……ほら、拾って」

 姉の言葉に幹久は首を傾げる。絵に気を取られていて気付かなかったが、栞の紙が床に落ちてしまったらしい。一瞬、幹久は「ごめんごめん」と軽く言いながら拾おうとする。でも、そんな軽く言える代物ではなかった。

「何これ」

「見てわからないのか? 新幹線のチケットだよ」

「いやそれはわかる、けど……」

 思わず眉間にしわが寄る。でも、それはきっとポーズだけだ。

 ――後悔して終わりなんて、そんなのは嫌だ。

 彩名にそう思っていて欲しいと願った感情は、紛れもない自分の感情だった。後悔して、苦しんで、それで終わりなら本当にただの幼馴染でお隣さんだったのだと思う。でも、自分の中の後悔はずっと胸の中で渦巻いている。

「後悔したら全部終わりだって、誰が決めた?」

 すると、姉が自分の頭の中を見透かしたようなことを言ってきた。流石は姉弟だし、彩名の姉的存在だ。姉がニヤリと笑うと、自分の口角も自然と上がったような気がした。

「その顔ができるってことは、行けるんだな?」

「……ねぇ、姉さん」

「んだよ。言っとくけどあたしは行かないからな。お前一人で行くから意味があるんだよ」

「わかってる。ありがとう」

 まずは姉に素直になることから始めないと。そう思って告げた言葉は、姉の頬を一瞬で朱色に染め上げた。恥ずかしいことに慣れていないのもやっぱり姉弟だ。

「じゃあ、行ってくるね」

「……おう」

 踵を返し、自室を出ていく。

 本当はもっと準備とかをした方が良いのかも知れないが、身体が言うことを聞かなかった。彩名に会いたい。会って本当の気持ちを伝えたい。

 そのために、今から少しだけ時間を巻き戻そう。描きかけのスケッチに色をつけるために。後悔を後悔にしないために。

 また、前に進めるように。



                                    了

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