彼女の部屋まで、思いを伝えるまで5M
大宮 葉月
この思い届けるまで5M
ピンポーンとチャイムを押す。
やや間が空いた後、インターホンから「⋯⋯あがって」と彼女の遠慮がちでまだ迷ってそうな声が聞こえた。
僕は「うん——」とだけ答えて玄関のドアに手を掛ける。何故か初めて彼女の家にお邪魔したことを思い出した。
彼女と知り合うきっかけになったのはとあるイベントだ。都内でも最大の同人誌即売会。
僕はとあるサークルの売り子として、人が密集するブースでとあるアニメキャラの衣装を着ていた。
大学に入ってから目覚めた女性の格好をする趣味。
元々色白で男にしては身長も低く、しょっちゅう女の子に間違われることも多かった僕は男性であるという自覚は薄い。
小中高の体育の着替えの時間が嫌で堪らなくて、着替えはいつも人気の無い空き教室をこっそり使っていた。
ガチャリとドアを開けて玄関に入る。
綺麗好きな彼女の家は相変わらず整理整頓が行き届いている。
目の前に置かれている彼女の靴の横に、履いてきたミュールをそっと揃えた。
玄関から彼女の部屋までは大体5
でも、部屋に近づく度に足が重くなる⋯⋯。
『素敵な衣装ですね、自作されたのですか?』
2L D Kの部屋の間取り、玄関近くのトイレを通り過ぎる時に過去の彼女の声が不意に聞こえて来た。
——————準備してきた同人誌も無事全部売り捌き、パイプ椅子に腰掛けて一服してると、知らない女性から声をかけられる。
振り返るとそこには茶色いウイッグをツインテールにして、女子中学生のようなコスプレをしている彼女が立っていた。腕には「風紀委員」と書かれた腕章を着けている。
どうしよう⋯⋯。サークルの皆には声は出さなくていいから! と言われたから、ここで地声で喋ろうものなら男だってバレちゃう⋯⋯。
僕がどうすべきかおたおたしていると、大胆にも彼女は近寄って来て耳元でこしょこしょと話し始めた。
(男性⋯⋯の方ですよね? 女の子にしか見えないから、びっくりしちゃった)
(え⋯⋯? なんで分かったの?)
(うーん⋯⋯肩幅とかお尻の形からかな? 半分は勘みたいなものだけど)
そう言って彼女は小悪魔ぽくっウインクをして見せる。たぶん、端から見たらこの光景はコスプレ元のアニメと同じようなシーンを演じているようにしか見えないだろう。
僕がコスプレしているのは彼女がコスプレしているキャラから「お姉様⋯⋯」と慕われているキャラだし⋯⋯。
そんな二人がこんなところで仲睦まじい様子を晒そうものならどうなるか?
考えるまでも無い。あちらこちらから不躾なスマホカメラのシャッター音が聞こえてくる。これマナー違反だと思うんだけど⋯⋯。
参ったな⋯⋯。この趣味は親や妹には内緒にしているから、顔バレは勘弁してもらいたいけど⋯⋯。
(もしかして⋯⋯、即売会に来るのは初めて?)
(今回が初参加です⋯⋯)
(今日の営業は終わり?)
(売り上げ金のチェックと片付けが終わったら帰っていいよ、と言われてるけど?)
(そうなんだ。せっかく知り合えたんだし、終わったらお茶しない? 同じアニメのコスプレしてるくらいだから、趣味も合うかなー? と思ってさ)
じゃ、終わったらこの番号に電話してと、メモを渡し彼女は手を振りながら爽やかに去って行く。僕はそんな彼女を、ただ惚けて見送ることしか出来なかった。
——————懐かしい光景を思い返し、僕はしばし立ち止まる。
彼女の部屋までは残り4
あたかもそれは僕のとある決断の代償のようでもあり、彼女に今の姿を見られるのがそんなに怖いのだろうか⋯⋯と、客観的に告げるもう一人の自分が心の中で呟いた。
『ねぇ? 今日暇なら、ちょっと付き合ってくれない?』
あの出会いの日からしばらくの時が経過した。
約束通り一緒に帰りがてらカフェでお茶をして、連絡先とLineの交換を行い同じコスプレをしたアニメの話題で彼女と大いに盛り上がった。
初めて共通の趣味を持つ友とも呼べる彼女と、恋人同士になるのもさほど時間もかからず、休日はお互いの家に通い合ってコスプレ用のメイクの練習や、アニメの観賞をしたりと、充実した時間を送ることが出来た。
「○○君はメイクのしがいがあるね、ちょっぴり羨ましいなー」
大抵の場合、彼女のメイクの練習に付き合うことが多かったけど、僕も綺麗になることは満更でもなかったから彼女にされるがまま。
——————幸せな日々を送りながら、僕は自分の心の隅で感じていた小さな違和感を必死に閉じ込めていた。
けれども、彼女にメイクをしてもらい綺麗に着飾るほど、違和感はまるで染みのように広がって行く。それでも、彼女の為を思って必死に我慢していた。
彼女の部屋まで後3
手前が彼女の部屋で、もう一つが二人用のツインベッドが置いてある寝室だ。
二人でバイトして少しずつ貯金してやっと買えたものだけど、結局使ったのは三回くらい。
どうしてこの気持ち抑えきれなかったのだろう⋯⋯と、僕は再び足を止める。
『こちらが診断書です。○○○○療法を始めれば、貴方は○○では無くなります。子供も作れないかもしれないことを良くお考えになってください』
『そうですね⋯⋯、それでもこの気持ちと違和感に向き合うのはもう耐えられません』
『⋯⋯分かりました。これから二週間に一回の通院をお願いします。○○ー注射による、○○○○療法を始めましょう』
二年前、精神科で交わした先生とのやり取りが鮮明に蘇る。
○○○○療法を初めてから、元々男ぽく無かった顔は更に中性的になり、ほぼほぼ○○としか見られなくなった。
自然と服装も変わり——————、男性モノの洋服はタンスの肥やしとなり、○○物の洋服が増えて行く。バイト先のカラオケボックスではいつの間にか○○用の制服が支給され、低い地声を聞いてようやく男性だと識別されるほどだ。
無論、偏見の目は少なく無く⋯⋯、その度に辛い思いを味わったこともあった。この国にそういった土壌が根付いていないことを実感させられた。
『⋯⋯もう、別れましょ』
彼女からそんな話が切り出されるのも仕方のない話だった。
しばらくは段々と○○化していく僕のことを応援してくれていたのだが、二人で撮ったコスプレ写真をSNSに投稿して反応を見る遊びをするようになってから、彼女の機嫌は目に見えて悪くなっていった。無理も無い⋯⋯、バズったって話題に上がるのは僕の容姿のことばかり。
挙句の果てに僕だけが着飾った姿を見たいと、要望をリプライしてくるファンまで出てくる始末。
コスプレが生きがいの彼女に取っては、とてもでは無いが耐えがたかったのだろう。
この頃には僕もコスプレに余り興味は無くなり、もっぱら可愛らしいメイクやファッション、アクセサリーなどに興味深々で⋯⋯趣味や嗜好は完全に変わっていた。
あれだけ楽しかった彼女と共に過ごす時間は、いつの間にか苦痛なものへと変わってしまったのだ。
「——————」
彼女の部屋まで後1
なのに、開こうとする手は震えが止まらない。
「⋯⋯あ」
ふと、横を見れば姿見に写った
ネイビーブルーのノースリーブブラウスの下に、丈が長いブラックのフレアスカート。背中ほどまである髪はストレートヘアでさらさら揺れている。両手の爪にはネイルサロンで綺麗に塗ってもらった紫陽花をデザインしたマニキュアに、両耳にはハート型のイヤリング。
何処からどう見たって女性だ。オペも済んで戸籍も変わっているというのに、今更になって気付いた
僕は。
私は。
届けられるのだろうか?
いや、届けるんだ。彼女が僕に初めて話かけてくれたように。
今度は
——————意を決してドアノブに手を掛ける。
震える右手を左手で押さえ付け、開けようとした時。
ガチャリ⋯⋯と、内開きのドアが開いた。
彼女の部屋まで、思いを伝えるまで5M 大宮 葉月 @hatiue
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