二日目・夜



 それから幾ばくかの時間が過ぎ、夜。

 再び気の重くなる時間が来たことに辟易としながら、蒼が今は自分の部屋でもあるやよいの私室へと戻ってきた。


 朝食を取り終えた後、稽古や湯浴みやなんやらかんやらで時間を潰し、出来る限り部屋で過ごす時間をなくそうと懸命に努力したわけではあるが……どうしたって、就寝の際にはここで過ごさなければならない。


 何度か本気で廊下で寝ることも考えたが、一定の時間を過ぎると部屋の前には百元お手製のものと思わしきからくり人形が立ち塞がり、厳しく外出を取り締まろうとしてくるのだ。

 お陰で厠に行くのも一苦労、時間が長すぎるとわざわざ確認しにやって来る高性能なんだかお節介過ぎて逆にぽんこつなんだか判らない人形のせいで、蒼は夜の時間帯を半強制的にやよいの部屋で過ごすことになってしまっている。


 何とかして燈の部屋に逃げ込み、彼の下で就寝出来ないかと思案を巡らせる蒼であったが、あの桔梗ならばそういった自分の考えくらいお見通しだろう。

 おそらくはありとあらゆる方法で自分の脱出を封じる策を講じているであろうと判断した蒼は、うんざりとした溜息を吐きながら少なくとも今晩はここで過ごすことにした。


 幸いなことに、普段着から寝間着への着替えは風呂に入った時点で行われるため、朝の時のような予想外の事態が起きる心配はない。

 昨日同様、自分の布団をやよいの布団から限界以上に引き離し、彼女と距離を取った蒼は、既に何度も読み返した書を読み耽っているふりをすることで、彼女と関わる時間を出来る限り少なくしようとしていた。


 話しかけたり、話しかけられたりした結果、妙な方向に話が進んでおかしな雰囲気になることだけは避けねばならない。

 ならば、そもそも最初から会話などしなければその心配もないだろうと、やよいとの間に見えない壁を作り、畳一枚にも満たない大きさの布団の上に自分だけの世界を構築した蒼は、やよいの方を見ないように細心の注意を払って時間を過ごしている。


 目下最大の目標は、この七日間を何事もなく乗り切ること。

 師匠たちのふざけた思惑に乗って堪るかと決意を新たにする蒼がぺらぺらと頁を捲り、そこに書いてある文字をただ目にしているだけの読書を続ける中、静寂に満ちた室内の空気を打ち壊すようにして、やよいが口を開く。


「ねえ、蒼くん。ちょっといい?」


「……なんだい? 手短に頼むよ」


 こちらから話しかけはせず、話しかけられたとしても出来る限り最短で会話が終わるようなやり取りを選ぶ。

 無視は絶対にしない。そんなことをすれば間違いなくお尻が飛んでくる確信があるからだ。


 被害を少なくするには、やよいの気分を損ねぬようにしつつ、当たり障りのない会話を行うことが必至であると自分に言い聞かせた蒼は、彼女がどんな話を振ってきてもいいよう、あらゆる会話のパターンを想定して身構えていたのだが――


「ああ、ごめんね。そろそろ眠りたいから、部屋の明かりを消してもいいかな~って、聞きたいだけだよ」


「え、あ、ああ、そう……」


 ――予想外にあっさりとした彼女の言葉に、逆に拍子抜けしてしまった。


 もっと遅くまでお喋りをしようとしたり、あるいは向こうの方から自分の布団に侵入しようとしたりするのではないかと考えていた蒼は、やよいが自分の想像を遥かに超えた大人しさを見せていることにやや困惑してすらいる。

 だがしかし、向こうがいつものようにぐいぐい来ないのならそれでいいじゃないかと、自分の望む方向に話が進んでいることに歓喜した彼は、ぱたんと読んでいた本を閉じると、自分も眠りに就く構えを見せながら彼女へと言った。


「構わないよ。気を遣わせちゃってごめんね」


「ううん。じゃあ、明かりを消すね……おやすみ、蒼くん」


 たったそれだけの、短い会話。

 二言三言だけのやり取りを繰り広げた後、やよいが灯篭の火を消し、部屋の明かりを消失させる。

 そうやって暗闇が満ちた部屋の中で、妙な雰囲気にならずに就寝の時間を迎えられたことに安堵の感情を抱く蒼であったが……そんな時にふと、異様な感覚を覚えた。


 それは強い視線、誰かに見られているという明らかな感覚。

 じっとこちらを見つめ、その動きを観察しているような何者かの視線を浴びている感触を覚えた蒼は、それが間違いなくやよいの放つ感覚であることを悟ると息を飲んだ。


 どうして彼女がこんな雰囲気を放つ? 暗闇の中、自分が不埒な真似をするために動き出さないか警戒しているのだろうか?

 だとするならば、安心してほしいとこちらから言いたい。自分にはやよいに手を出すつもりはないし、桔梗や宗正から何を言われたところで彼女を抱くつもりはないのだと、そう言い切れるのだから。


 だがしかし、それを口にすることでまた彼女との関係性がぎくしゃくとしたものになってしまうのではないかと不安になり、何も言えずにただその感覚に気付かないふりをしていると……不意に、突き刺さるような眼差しの感触が消え、室内はただの暗闇が支配する普通の雰囲気に戻った。


 時間にして十数秒。たったそれだけの時間であったが、その感覚の異質さは蒼にはっきりと刻み込まれている。

 やよいが自分のことを警戒し、就寝前に自分の動きを見張っていると考える方が自然だが……それにしては一つ、妙な点があった。


 彼女からのものと思わしき視線が途切れる寸前の、ほんの僅かな一瞬。

 刹那にも満たない時間の中で、警戒とも愉悦ともまた違う物悲しい感情がその視線から感じられた。


 上手く言えないが、どうにも不思議な感覚を覚えるその眼差しに困惑しながらも、それもきっと自分の勘違いであると決めつけた蒼は、これ以上はもやもやを抱えたくないと思考することを放棄し、夢の世界に旅立つために両目を強く閉じる。


 余計なお世話も、お節介な茶々入れも、自分は望んでなんかいない。

 このままでいい。これが最上なのだと自分は思っているのだから、変な風にやよいとの関係性を搔き回されて堪るものか。


 今日と同じように……訂正、朝はもっと早く起きよう、最低でもやよいが着替えるよりも早くにだ。

 そこだけを変更して同じように一日を過ごせば、特に煩わしい思いをせずとも部屋が修復されるまでの七日間を無事に乗り切れるはず。

 この調子で時間を潰せば、あと五日、どうにかして凌ぎ切ることなんてそう難しいことじゃない。


 まだ少し、こうして同じ部屋で寝ることには緊張してしまうが、おそらくは明日か明後日にはそれも慣れる。

 そうすれば、自分の障害となる材料は何処にもないと、自分自身を強く鼓舞した蒼は、最後に自分に対する励ましの言葉を心の中で念じた。


(大丈夫、何も心配するな! 要は慣れてしまえばいいんだ、慣れてしまえば!)


 緊張も、動揺も、困惑も、全て飲み干せるだけの度胸を身に着けてしまうためには、この状況に対する慣れが必要だ。

 それはきっと、時間と共に間違いなく得られるはずのもので……故に、焦る必要はないのだと自分に強く言い聞かせる蒼。


 時間が経てば経つ程、有利になるのは自分の方だ。

 焦るな、惑うな、どっしり構えろ。それを意識すれば大丈夫、大丈夫だ。


 そうやって、ある意味では正しい意見を自分の中で反芻しながら眠りに就こうとした彼であったが……その胸に、朝方師匠から投げかけられた言葉が蘇ってきた。

 手遅れになる前に、自分で答えを見つけ出せ……普段はお茶らけている師匠が、真面目そうにそう語った姿が、どうしてだかとても気になってしまう。


 しかし、それすらも振り払って睡魔に身を委ねた蒼は、父親代わりである師の言葉を無視することにして本日の眠りに就く。

 夢の世界では、どうか誰も自分を困らせませんように……と、下らないようで重大な願いを思い浮かべた彼は、それを最後に意識を手放すのであった。

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