彼女は明らかにマズい勘違いをしていきました


「おい燈! いつまでぼさぼさしてるつもりだ!? 今日こそはお前をぎゃふんといわせて……んん?」


 なかなか修練場に顔を出さない燈に業を煮やした栞桜が、どかんと音を立てて彼の部屋の襖を開ける。

 大声で燈の名を呼んだ彼女は、連れ出そうとしていた彼の姿や道着が見当たらないことに気が付くと、小さく舌打ちをして呟いた。


「ちっ。なんだ、入れ違いになったか。まあ、いい。ならば私も修練場に……うん?」


 タイミングの悪さに悪態を吐きながら、自分も修行に向かおうとする栞桜であったが、その目が畳の上に無造作に置かれた一冊の本を捉える。

 どこからどう見ても、片付けるのが面倒でぽんと投げ捨てたようにしか思えないその本を目にした栞桜は、ふんと鼻息を噴き出しながらそれを手に取った。


「まったく、だらしのない奴だ。床に放り捨てるのではなく、本棚か机にでも置いておくべきだろうに」


 と、蒼天武士団一の部屋の汚さを誇る彼女は呆れ交じりに溜息を吐くと、まったくもって使われている様子がない燈の机の上にその本を置こうとした。

 ……のだが、その際に手にしている本の題名が目に入ってしまった栞桜は、そのタイトルを口にしながら訝し気な表情を浮かべる。


「『散花、女剣士敗北!!』……なんだ、この妙な名前の本は? あいつ、何を読んでいるんだ?」


 どうにも、趣味がよろしい本とは思えないその題名を読み上げた栞桜が少しばかり怒りを抱きながら表紙を開く。

 ふざけた内容の本だったら後で叱責してやろうと考えていた彼女であったが……本を二、三ページ捲る頃には、はわはわと落ち着きのない表情を浮かべ、顔を真っ赤にして狼狽する羽目になっていた。


「ここここここ、これ、これは、ま、ままま、まさ、まさささ、まさか……っ!?」


 これまでの誰よりも慌てふためき、動揺しながらも、本を読み進める手を止めることはしない栞桜。

 絵と文とで紡がれる卑猥な物語を血走った眼で読み耽る彼女の頭の中では、二つの意志がぶつかり合うと共にかつてない混乱をもたらしている。


 目にしている絵は、読んでいる文には、男勝りの女剣士が剣の勝負で敗北し、その相手である男の慰み者になる様が描かれている。

 最初は拒み続けていた女剣士も、度重なる責めにいつしか自分が女であることを自覚させられ、そのまま……という、やや被虐的かつ暴力的なその内容にごくりと息を飲んだ栞桜は、読み終えた本をぱたんと閉じると目に涙を浮かべたまま、うわ言のように呟きを漏らす。


「これが、春画……!? 男の性欲を満たす、卑猥な書……!! あ、燈がこんなものを持っていただなんて……い、いや、それよりも、この内容は……!!」


 何とも暴力的かつ獣染みた趣味であろうか。

 倒した女を手籠めにして、自分のものとしてしまうだなんて、男としての風上にも置けない行為だ。


 まさか、あの燈がそのような趣味を有していたなんて……と、ちょっとした失望を抱いた栞桜であったが、即座に頭を振るとその妄想を脳内から振り払い、自分自身に向けて言う。


「い、いや、待て。このような本を所持しているからといって、燈に同様の趣味があるとは限らないじゃないか。現に私は何度も燈に敗北しているが、この本に描かれているような状況に陥ったことは一度たりとてない……っ!?」


 今まで自分は何度も燈と手合わせし、その勝率は悔しいが負け越しという形になっている。

 もしも、万が一にも、燈がこの本に出てくる男と同じような性格をしているというのならば、一回くらいは自分を襲うような素振りを見せてもおかしくはないのではないだろうか?


 ……と、そこまで考えたところではっとした栞桜が、顔を赤らめながら再び手にした春画へと視線を向ける。

 はあはあと息を荒げ、ばくばくと高鳴る心臓の鼓動を押し殺した彼女は、蒼天武士団一のむっつりすけべっぷりを遺憾なく発揮した妄想を繰り広げていった。


「ま、まさか、燈は、私のことをそんな目で見て……!? すすす、隙があれば、この本のように私を手籠めにしようとしているのでは……!?」


 男として、性欲を抱くのは当然のこと。それを周囲の女性に向けることも決しておかしなことではない。

 燈がもし、女として自分のことを意識していて、その情欲を日々募らせているとしたら……もしかしたら、この本に描かれているようなことを自分を相手にしたいと思っているのかもしれないのではないだろうか?


 こう言っては何だが、自分は仲間内では一番女らしい体をしているし、燈との付き合いも丁度良い長さだ。

 少しばかり情欲を向けるには罪悪感が伴うこころや、自分たちと比べるとやや物足りなさを覚えてしまうかもしれない涼音と比べて……自分は、そういった欲を向けやすい相手なのかもしれないと、栞桜は思う。


 異性の仲間の中では自分が一番燈と肉体的な接触が多いし、喧嘩のようなやり取りもしょっちゅうするから距離感も近い。

 そして何より、自分は彼に裸を見せつけた上に、好意まで伝えているではないか。


「あああ、ありえない話ではない……!! わた、わた、私はどうすれば……!?」


 これまでは異性とはいえ仲の良い友人程度の関係性であると定義出来ていた自分たちであったが、少し前の露天風呂の一件からそれも崩れ始めつつある。

 あの時の自分の痴態に、包み隠さずに伝えた好意に、燈が女性的な魅力を感じなかったとは思いたくはない。


 もしや、あれから日が経ってから、燈も性欲を煮立たせてきたのでは……?

 その欲望が危うい方向に向かった結果が、この本の存在なのでは……?


 では、もし、燈が修行の最中に行った手合わせで自分を打ち倒し、その姿とこの本の中で描かれた女剣士の艶姿を重ねて、押し殺してきた興奮を解放したとしたら……自分はどうすればいいのだろうか?


「はわわわわ……! だ、駄目だ、燈! 抵抗出来ない女を手籠めにするなど、武士として風上に置けない行為だぞ! だ、だが、私が奴の欲を煽ってしまったこともまた事実……!! そ、その責任を取らずして放置した結果、燈が町娘に手を出したりなどしたら……!?」


 妄想は悪い方向へ……というより、栞桜にとって都合の良い方向へと進んでいく。

 口ではそう言いながらもなんだかんだで欲望に正直な彼女は、手にしている春画を強く握り締めると、自分を落ち着かせるように大きく息を吐いてから言った。


「と、とにかく、この本は預かるべきだ! こんな本が近くにあるから燈も悪影響を受ける! 取り合えずこれは私が預かって……も、もしもそのことが燈にバレたら、どど、どうしよう? ひ、秘密を知られて開き直った奴が襲い掛かってくる可能性も……そ、そんなのは駄目、だけど……燈になら……っ!!」


 頬を赤らめ、その時のことを想像しながら自室に引っ込んだ栞桜は、そのまま修行をサボって何度か押収した春画を読んで時間を過ごした。

 そうやって、彼女が初めて味わう性の背徳感に夢中になっている頃、買い物を終えた涼音が(自分によく似た女性が主役の)春画を押し入れの中にねじ込み、何食わぬ顔で自室へと戻っていく。


 こうして、元々は宗正の物であった三冊の春画はそれぞれの末路を辿ると共に、大いなる誤解を三人娘へと与えてみせた。

 更に質の悪いことに、涼音が破られたり盗まれた春画の代わりを用意してしまった結果、対して本に興味のない燈は、預かった本がそっくり入れ替わっていることにまったく気が付かないでいる。


 このひずみが少しずつ大きくなり、最後には大きな事件を引き起こすであろうことは、最早誰の目から見ても明らかだ。


 そして、もう一人……途轍もなく厄介な勘違いをする羽目になる少女が、今まさに燈の隣の部屋を訪れようとしていた。


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