燈と百合姫、そして御神体
ぶらり、ぶらりと縁側で小さな脚が揺れる。
その調子に合わせて聞こえる鼻歌が、綺麗な星が瞬く夜空に吸い込まれるように響いていく。
こんな風に穏やかな気持ちで過ごすのは久しぶりだと、八岐大蛇に狙われながらの旅路から解放された百合姫は、諸々の込み入った事情を今だけは忘れ、信頼出来る燈たちと過ごす夜を楽しんでいた。
「上機嫌っすね、姫さま。楽しそうだ」
「あっ、燈さま……!」
そうして鼻歌交じりに時を過ごしていた百合姫は、自分の様子を見にやって来た燈から声をかけられて気恥ずかしさに頬を染めた。
浮ついた気分でいるところを見られたことに対する羞恥はあるが、この数日の間に兄のように慕うようになった燈と二人きりの時間を過ごせることを喜んだ百合姫は、自分の隣に腰を下ろした燈の横顔を見つめながら、どう会話を切り出したものかとその糸口を探す。
性別も、年齢も、出自すらも違う燈とどんな話をすればいいのだろうかと悩む彼女に向け、小さく笑みを湛えた燈が話を切り出した。
「静かっすね……本館のからも物音が聞こえないところを見るに、あっちの酒宴も終わったんでしょうね」
「そうですね。……不思議な気分です。十日ほどしか離れていなかったはずなのに、この地で過ごす静かな夜が途方もなく久しぶりに感じてしまいます。心細い思いをしていたからなのでしょうか?」
「かも、しんないっすね。故郷を懐かしむ気持ちは、人間誰しもあるもんですから」
寂しさからくる懐かしさに同意して、燈が空を見上げる。
夜空に浮かぶ欠けた月を見つめる彼に視線を向けながら、百合姫は思い切って踏み込んだ話題を切り出してみた。
「燈さまは、大和国の生まれではないのですよね? やはり、故郷に帰りたいという気持ちはあるのでしょうか?」
「……そりゃあ、ありますよ。でも、具体的にどうすりゃいいのかがわからないっすからね。今は、仲間たちを信じて、自分に出来ることをするだけっす」
「……このまま大和国に永住しようと考えたことは? 燈さまはお強いですし、その気になれば
燈ほどの気力と実力があれば、大和国で高い地位と財力を築けるはずだ。
領地も、財宝も、官職すらも思いのままになるであろうこの世界での暮らしは、きっと元の世界での生活よりも裕福なものになる。
元の世界への帰還を諦めて、この国で一生を過ごすつもりはないのかと、そんな百合姫の質問を受けた燈は、静かに首を横に振ると否定の意を示した。
「そういう簡単なものじゃないっすよ。確かに俺には帰りを待つ家族はいないし、元の世界に未練らしい未練もない。けど、どうしても帰りたくなる。その世界に残る思い出や、家族と過ごした場所なんかにまた行きたくなっちまう……それが、故郷ってもんなんです」
「………」
理解出来そうで、出来ない。
実感はしたことのないその感情に思いを馳せ、無言で自分のことを見つめる百合姫に向け、笑顔を浮かべたままの燈はこう続けて言った。
「きっと、百合姫さまもわかる日が来ますよ。黒岩の奴の下に嫁いで、美味しいご飯や綺麗な着物を与えられるいい暮らしをするようになっても……きっと、ふとした時にこの地に戻りたくなっちまう。寂しさとか、懐かしさとか、そういう感情が胸をよぎる日が、必ず来ると思います」
「……それは、辛い気持ちですか? 心の中に痛みは走りますか?」
「さあ、よくわかんねえっす。もう慣れちまったし、俺はそれより辛い経験を山ほど味わっちまいましたからね」
飄々とそう答えた燈が感情を吐露しながら深い息を吐く。
その姿に視線を奪われていた百合姫は、いつかは彼のその気持ちを理解する日が来るのだろうかと、ほんの少しだけ恐怖を抱いた。
生まれ育ったこの土地を離れ、数度しか顔を合わせたことのない男の下に嫁に行く。
東平京での暮らしの中で、いつかはこの地のことを懐かしむようになる日が来た時、自分はどうするのだろうかと……そんな考えを頭の中に浮かべていた百合姫は、ふと懐の中にしまってある袋の存在に思い至った。
「あれ、それって……?」
「はい。我が家に代々伝わるお守りです。これは嫁入り道具として持って行けるのか、やっぱり家宝としてここに残すべきなのか、ちょっと疑問に思ってしまいまして――」
八岐大蛇を退け、自分のことを守ってくれたあの黒い鉱石のような御神体を取り出すべく、包み布を解く百合姫。
妖が退治された今、その役目を終えたといっても過言ではないのだろうが、やはり気持ちを落ち着かせるための道具としては頼りになる。
しかして、これはあくまで鷺宮家の家宝であり、これから別の家の人間となる自分が勝手に持ち出していいものではない。
やはり、これはこの地に残すべきなのだろうなと、残念に思いながらも包み布から取り出した御神体を掌に乗せた百合姫が……驚きに眼を見開き、唖然とした声を漏らす。
「えっ……!? ど、どうして……?」
「どうかしたんすか、姫さま」
「こ、これを見てください!」
百合姫の声に訝し気な視線を向けた燈は、彼女が差し出した手の上に乗せられている御神体を見て、目を丸くした。
数日前に見た時には見事な艶やかさを保っていたそれには、今や真っ二つに割れてしまいそうなくらいの深い亀裂が刻まれていたからだ。
「これ、前に見た時には普通でしたよね? なんなんだ、この傷は……?」
「これまでどんな騒動に巻き込まれても傷一つつかなかったのに、どうして急にこんな風になってしまったのでしょう……!?」
何かにぶつけたとか、うっかり落としてしまったとか、御神体が傷付くような出来事に覚えのない百合姫が驚きと悲しみを同居させた呟きを漏らす。
家宝であり、心の拠り所でもあった御神体が傷付いている様子に動揺を隠せない彼女を励まそうと口を開いた燈であったが、彼が声を発するよりも早くに第三者が言葉を発した。
「これは物理的な傷じゃないね。何か、他からの干渉を受けたから入ったひびだよ」
「や、やよいっ!? 急に出てくんなよ、びっくりすんじゃねえか!」
「ごめんごめん。ちょっと、色々あってさ……」
自分と百合姫との間にひょっこりと顔を出したやよいのいきなりの登場に燈が驚く中、何か訳ありな様子のやよいが謝罪をしながらしげしげとひび割れた御神体を見つめる。
自分たちの中で最も神秘的な事象や陰陽術に詳しいであろう彼女の意見を聞くべく、黙って観察をさせた燈と百合姫は、顔を上げたやよいの言葉に耳を傾けていった。
「やっぱりそうだ。これ、ひび割れる前から感じられてた気力が弱くなってるよ」
「御神体が割れてしまったから、気力が弱まっているのでしょうか?」
「ううん、その逆だね。この御神体に込められていた気力が弱まったから、ひび割れてしまった……って考えるのが、妥当なところかな?」
「ってことはなにか? この間の八岐大蛇を撃退する時に、御神体は力を使い果たしちまったってことか?」
「その可能性が一番高いと思うよ。でも、百合姫さまはその後にも御神体の様子を確認してたんですよね? その時、こんな傷はありましたか?」
「い、いいえ! 私が最後に御神体を見たのは……燈さまたちが八岐大蛇を倒す寸前です! その時、強く御神体を握り締めていたことは覚えています!」
「じゃあ、御神体が傷付いたのはその後ってことになりますね。でも、そうなると時期的におかしい気がするんだよなぁ……」
最初の八岐大蛇の襲撃の際、黒い光を放って妖を撃退してみせた御神体が力を使い果たして割れたというのならば話は判る。
しかし、そのタイミングではなく、全てが終わった後にひび割れるというのは、どうしても腑に落ちない部分があった。
「……蒼に報告しておいた方がいいかもしれねえな。あいつ、まだこの件について納得してない部分があるみたいだしよ」
「だね。じゃあ、一旦広間に戻ろうか」
何か、嫌な予感がする。
まだこの事件は終わってないという蒼の予感を裏付けるような、そんな不自然さを感じた燈は、やよいたちと共に広間に戻り、御神体のことを蒼に報告しようとした時だった。
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