百合姫の悪夢

 ――真白が離れていく。私の手が届かない所に行こうとしている。

 あの日のように他の男の下へ行き、私のことを見捨てようとしている。


 どうして? 何故? お前のことを真に理解しているのは、この私だけだというのに……。


 お前は私の傍にいるべきなんだ。私こそが、お前に相応しい唯一無二の存在なんだ。

 お前のためなら、私は何でもしてやれる。その証拠に、私はお前のためにこの手を血に染めてきたじゃないか。


 私が持つ力は、全てお前のために使ってやった。

 お前が愛する里が栄えたのも、安寧を保ち続けてこられたのも、私の力があってのことのはずだ。


 なのに、どうして……お前は、幾度となく私を裏切る?

 私の傍から離れ、他の男の妻となり、私の想いを受け入れない?


 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな……!!


 この世界で最もお前を愛しているのはこの私だ。

 たとえ人ならざる存在であったとしても、私こそがお前の伴侶に相応しい男なのだ。


 お前は誰にも渡さない。お前は、私の妻になる女だ。


 必ず、お前を迎えに行く。必ず、邪魔する者たちを討ち果たし、お前を手に入れてみせる。


 今度はもう、遅れなど取らない。

 二度と失敗なんてしない。


 絶対に、私は……お前を手に入れてみせるぞ。

 なあ、真白……!!







「はっ……!? はぁ、はぁ……っ!」


 頭の中で響く、自分であって自分ではない女性の名を呼ぶ恐ろしい声に飛び起きた百合姫は、そこでその声が夢の中で聞こえたものであることに気が付いた。

 すぐ傍では父である玄白がすやすやと寝息を立てており、部屋の外では蒼が寝ずの番をしてくれている様が見える。


 全ては自分が見た悪夢の中の出来事で、現実ではなにも異変など起きていない。

 そのことを理解し、ほっと溜息を吐いた彼女であったが、その小さい体に走る悪寒はそう簡単に拭い去れるものではなかった。


「……あの時、私は……」


 全身に汗をびっしょりとかいた百合姫が、隣で寝ている父を起こさぬよう小さな声で一人呟く。

 思い返すのは昼間に八岐大蛇の襲撃を受けた時のこと。代々お守りとして受け継いできた御神体が、その力を発揮した時のことだ。


 その寸前、耐え難い眩暈に襲われると共に意識を朦朧とさせた自分の頭の中では、様々な光景が繰り広げられていた。

 断片的に、途切れ途切れに、誰かの記憶を見せつけられていることを理解した百合姫は、その記憶が鷺宮家初代当主である鷺宮真白のものであることも同時に理解してもいた。


 しかし、どうしてその記憶が自分の中に流れ込んできたのかという理由を推し量ることは出来ず、同時に自分が何を見せられているのかも、途切れ途切れの映像のせいではっきりとは理解出来ないでいる。


 もしかしたら……八岐大蛇の呪いによって、鷺宮真白とそっくりの容姿に生まれた自分の肉体には、彼女の魂も宿っているのではないだろうか?

 それが妖の襲撃を受け、御神体が力を発揮したことによって目覚めつつあるのではないか……と、疑問を抱いた彼女は、悪夢を見た時とはまた別の恐怖にぶるりと体を震わせる。


 もし、本当にその考えが正しかったとしたら、今、ここにいる

 百合姫という人間の中に、鷺宮真白という女性の記憶と魂が眠っているとして、それが完全に覚醒した時、自分は今の百合姫のままでいられるのだろうか?


「……っ」


 自分が塗り潰されてしまうかもしれないという恐怖に、百合姫が小さな拳を握り締める。

 圧倒的な力を持つ妖の襲撃による怖れと、自分の中に芽生えた対内的な恐怖は、齢十一の少女が一人で抱えるにはあまりにも大き過ぎた。


 それでも……弱音を吐くことは許されない。鷺宮家の未来は、自分にかかっているのだから。

 大切に思う家族を、家来を、領民を……彼らの生活を守るためには、どうしても東平京にいる婚約者の力が必要だ。


「大丈夫、私はやれます……百合姫は、強い子ですから……」


 ゆっくりと、自分自身に言い聞かせるためだけに、口を開いて声を発する。

 だが、その声は非常にか細く、動揺と恐怖に震えていた。


 これ以上考え事をしていては余計な不安が増えるだけだと、自分の不安定な精神状況からそう判断した百合姫は、外界から自分の身を遮断するように布団の中に潜り込んだ。

 もう悪い夢を見ませんようにと、すべての怖れが消え去ってくれますようにと……そう、心の中で願い続ける彼女は、自分が何に祈りを捧げているかも判らないまま、夜明けを迎えるのであった。

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