百合姫がやって来た
「失礼、いたします……」
突如、背後の襖が静かに開く音がすると共に、その向こう側から可憐な声が響いた。
驚いて振り返った燈の目に映ったのは、恭しく自分たちへと頭を下げる百合姫の姿だ。
「ひ、姫さま? どうして、ここに……?」
「お父様たちから、これから世話になる蒼天武士団の皆さまによくよくご挨拶しておくようにと申し付けられまして……私も、命を守っていただく相手に失礼のないよう、こうしてご挨拶に参った次第でございます」
「わざわざご丁寧にありがとうございます。我ら蒼天武士団一同、全力で百合姫さまをお守りいたしますので、どうぞご安心ください」
突然の百合姫の来訪に面食らう燈とこころを尻目に、普段のおちゃらけた言葉遣いとは打って変わった丁寧な態度でやよいが彼女へとお礼の挨拶を行う。
こういう礼節に詳しいのは流石だと思いつつ、同じように二人が頭を下げてみせれば、百合姫は少し困ったように笑いながらこう言葉を返してきた。
「その、あまり硬くならないでくださいまし。貴族といえど鷺宮家は名ばかりの貧乏貴族であることはお兄様から聞いておりましょう? そんな仰々しく接されると、私も困ってしまいます……」
「あなたは我々の護衛対象で、依頼主の家族です。そのお方に敬意を持って接するのは当然のこと……ですが、ご本人がそう仰るのならば、我々も善処させていただきます」
「……感謝します。ええっと……?」
「やよい、西園寺やよいです。蒼天武士団の副団長を務めております。こちらは裏方役の椿こころ、そしてこちらが――」
「存じております。先程、お名前を呼ばれてましたものね。虎藤燈さん……ふふっ、可愛らしいお名前だと、百合は思います」
小さく微笑みながらそう述べた百合姫の言葉に、こころの背筋が凍る。
虎藤燈に対する絶対厳守のルール、名前を馬鹿にしてはいけない……かつて似たような言葉を口にしたくちなわ兄弟に対して燈が怒りを爆発させたことを思い出したこころは、今の百合姫の一言が燈の逆鱗に触れていないかと不安になったのだが――
「燈……暖かくて、優しい感覚がします。本当に、とても素敵なお名前ですね……!」
――そう、柔和な笑みを浮かべながら続けて百合姫が口にした言葉を耳にして、その考えが杞憂であったことにほっと息を吐く。
百合姫には燈の名前を馬鹿にするような意思はなく、むしろその名前を素敵なものだと思ってくれているようだ。
これならば燈が怒ることはないだろうと安堵したこころは、ふと彼が自分の名前を褒められるとどうなるのかという疑問を抱き、その答えを確認するためにちらりと横目で燈を見やる。
これまで自分の知る限り、名前を馬鹿にされたことしかない燈が、子供からの素直で真っ直ぐな褒め言葉をどう受け止めているのかと確認してみれば、彼は先程以上に深々と頭を下げながら、最大限の敬意を払った感謝の言葉を百合姫へと口にしている真っ最中であった。
「両親から授かった名前を褒めていただけたこと、心の底から感謝いたします。この場には居りませんが、父と母もあなたの言葉を聞いてくれたら喜んでくれるでしょう。改めて、感謝を……そして、先程の無礼をお許しください」
「ふふふ……! 燈さまは面白い方ですね。ちょっぴりお顔が怖いですけど、優しくて楽しい雰囲気があります。貴方に守っていただけるなら、東平京への旅路も安心です」
強面であり、今や大和国でも随一の武士となった燈が自分のような小娘に丁寧な態度を取ることに驚き、その低姿勢ぶりをおかしく思った百合姫がくすりと楽し気に笑いながら呟く。
そうした後、はっと何かに気が付くと慌てた様子で腕を振り、今度はやよいとこころに向けて言った。
「い、今のは決して、燈さまだけを特別視したわけではありません! やよいさまもこころさまも、百合は蒼天武士団の皆さま全員を頼りにしております!!」
「大丈夫、わかっています。だから、そんなに慌てないでくださいな」
「ああ、よかった……私の軽率な一言で皆さまの機嫌を損ねたらどうしようかと……!」
ほっ、と心から安堵した様子の百合姫は、どうやら今の自分の言葉がやよいやこころを軽視しているように聞こえたらどうしようかと心配していたようだ。
優し気で、相手への気遣いも出来るこの可憐な美少女の立ち振る舞いは正に貴族の娘という言葉がぴったりで、貧しくとも気品は確かなのだなと感心するこころの前で、顔を赤らめた百合姫が恭しく頭を下げる。
「その、もしかして大事なお話の最中でしたか? 私、皆さまの邪魔をしてしまいましたか……?」
「いえいえ、他愛もない談笑をしていただけです。邪魔など、された覚えはありませんよ」
「そ、そうですか……ええっと、その……申し訳ありません、こういう時、言葉が続かないもので……」
かぁぁっ、と更に頬を赤らめさせた百合姫が恥ずかしそうにか細い声を漏らす。
もしかして、彼女は結構な上がり症か、あるいは人とコミュニケーションを取ることが苦手なのかもしれないと考えたこころは、思い切ってこちらから話を振ってみることにした。
「あ、あの! ……もしかして百合姫さまは、あんまり他の方とお喋りしたことがないのですか?」
「え? あ、はい……お恥ずかしい話、私はほぼ屋敷に籠りきりで……話し相手は専ら家族だけでしたので、こうしてお客様とお喋りするのももしかしたら初めてかもしれません」
「それってもしかして、結婚のお相手とも?」
「……はい。素性やお名前は聞かされておりますが、一度も話をしたこともなければ、顔を合わせたこともありません。だから、その……少しだけ、怖いです」
ぎゅっ、と着物の裾を握るように拳を固める百合姫の姿からは、彼女が感じている不安が見て取れた。
家族を救うため、顔も性格も知れぬ男の下に嫁ごうとしている僅か十一歳の少女。
しかも、その道中には恐ろしい妖が自分を狙ってくるというのだから、怯えるのが当然だろう。
この小さな体に、どれだけの重荷を背負っているのだろうと、こころは百合姫のことを不憫に思った。
しかして、彼女の家族でも何でもない自分が彼女を救うことなど出来はしないのだと、自身の無力感にやるせなさすら覚える。
せめて、彼女が嫁いだ先で幸せになってほしいと、そう願わずを得なかったこころが歯痒さを噛み締めた時だった。
「……大丈夫っすよ。必ず、あなたは幸せになれる」
「え……?」
そんな、力強い言葉に顔を上げた百合姫に対して、声の主である燈が同じ言葉を繰り返す。
「あなたは幸せになれますよ、百合姫さま。ただの勘ですけど、俺の勘は当たるんです。だから大丈夫、不安にならないでください」
優しい声色で、そう百合姫へと語り掛ける燈の表情は、珍しく優し気な笑みを湛えている。
強面の彼が浮かべるその表情は何処か面白くて、ついつい噴き出しそうになるのを堪えているのはこころだけではなさそうだ。
やよいも、百合姫も、似合わない燈の言動にちょっとだけ愉快さを感じていて……そのお陰で、少し沈み始めていた空気が明るくなった。
「ぷっ! もう無理! 燈くん、似合ってないって! 普段のしゃげーっ! みたいな雰囲気との差があり過ぎるんだよ!」
「なっ!? おまっ、人が一生懸命励まそうとしてるんだから、笑うんじゃねえよ! 折角の感動的な雰囲気が台無しじゃねえか!」
「いや、私も感動的な雰囲気はなかったと思うな……」
「椿まで!? お前も敵なのかよ……!?」
「ふ、ふふふ……っ! ふふふふふふふっ!!」
遂に我慢が出来なくなったやよいが噴き出してしまったことを切っ掛けに、どたばたとしたやり取りが始まってしまった。
自分の前で繰り広げられる面白おかしいやり取りに笑みをこぼした百合姫は、年相応の無邪気な笑顔を見せて笑い転げる。
「お、おかしな方々! とてもお強い武士だと聞いておりましたのに、こんなに愉快なやり取りが出来るんですのね? 本当に、本当に、面白いです」
「むぅ……な~んか釈然としねえが、姫様が笑ってくれたならよしとするか」
こころとやよいからの嘲笑染みた発言に首を傾げながらも、百合姫が元気になってくれたことに満足した燈が大きく頷く。
そうした後、彼女の目の前にまで近付いた彼は、小指を立てた右手を差し出すと彼らしい快活な笑みを浮かべながら言う。
「約束しますよ、百合姫さま。必ず、あなたのことは俺たちが守る。何があっても絶対に、だ」
「……はい! 信じています!」
燈の指に自身の小さな小指を絡め、指切りをする百合姫。
その表情から先程の不安と恐怖は消え去っており、少しでも彼女の心の重しを軽く出来たことにこころたちもまた胸の内を明るくする。
「では、百合はこれにて失礼いたします。燈さまたちも、ゆっくりお休みください」
「はい、ありがとうございます。いい夢を、百合姫さま」
「ふふふ……! はい! おやすみなさい!」
燈の明るさが移ったのか、元気そうな様子で部屋を出ていった百合姫の後ろ姿は何処か楽しそうだ。
短い時間ながらも十分な信頼関係を築くことが出来た今のやり取りに、やよいが燈の脇腹を突きながら言う。
「やるじゃん、燈くん! 今のでさっきの失態は帳消しに出来たんじゃない?」
「ん? そうか? まあ、姫様が元気になってくれりゃあ、なんだっていいさ」
百合姫が歩み去った廊下を見つめた燈がさらりとそう答える。
割と上機嫌な彼の姿を目にしたこころは、ある確信を抱くと大きく頷き、心の中でこう呟いた。
(燈くん、名前を褒められるとわかりやすいくらいに喜ぶんだなぁ……!)
名前を貶されると悪鬼の如く怒り狂うが、逆に褒められると相手への好感度が大きく上昇する。
燈と仲良くなりたいのなら、初対面で名前を褒めろ……そんな、アドバイスする機会があるのかないのか判らない情報を手に入れたこころは、面倒見の良さを見せた彼の姿にやっぱり胸をときめかせるのであった。
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