第2章

1 幸せな一日

 誕生日のお祝いにと叔母夫婦からプレゼントされたペンダントを握りしめ、幸(さち)は今日一日の楽しかった出来事を反芻していた。

 ここ数年、年を経る事は嬉しく無い行事の筆頭にあがっていた彼女にとって、今日と言う日は特別な日になった。

 先ず、朝から二人に連れられ、何年も行った事の無かった動物園に行き、年甲斐もなく笑った。その後、前々から観たかった話題のミュージカルを観て感動し、幸が入った事もないようなドレスコードのある高級レストランでお腹一杯になるまで美味しい料理をご馳走になった。

 家に帰り着き、ふわふわとした夢心地の余韻のままお休みを言おうとしていると、幸の父方の叔母である恵子が、小さな包みを差し出した。

「開けてみて。気に入ってくれると良いのだけれど」

 期待と不安に溢れた顔に見守らながら、幸はここのところついぞ感じた事の無いワクワク感を覚えた。

『……い、いいの?』

 それはトップにロケットの付いたアンティークの金のペンダントだった。ロケットの表面は丁寧な仕事を窺わせる繊細な薔薇の模様が描かれていた。日本円で、十万円は下らないだろう事は、幸のようなずぶの素人にも容易に見てとれた。

『勿論よ! いらないって言っても、もう遅いわよ』

 気に入った事を察したらしい恵子は、冗談混じりに言うと姪の鼻の頭を指で突ついた。

『さっちゃんは昔からアンティークが好きだったでしょう。だからプレゼントするのならアンティークにしよう、って二人で決めていたの。でもなかなかこれっていう物が見付からなくて……。本当に苦労したのよ。だから遠慮なんてしたら、承知しないわよぉ』

 茶目っ気たっぷりに言う叔母の横で、夫であるパトリックが焦れたように言った。

「何、何かまずい事?」

 知らず知らず、二人は母国語(にほんご)で話しをしていたらしい。

 笑って夫を取り成す恵子を見ていると、自然、幸は笑みがこぼれた。彼女の憧れの夫婦像が、そこにはあった。と同時に、どうしてあんなにくだらない男に固執していたのだろうと、後悔の念にかられる。今にして思えば、あのまま結婚していれば不幸になるのは目に見えていたのに、と安堵の溜め息を漏らした。

「こんな素敵な物を貰ったのって、生まれて初めて。叔母さん、叔父さん、今日は本当に有り難う」

 満面の笑みを浮かべ、日本では決してする事のない抱擁を二人にすると、その頬に音を立ててキスをした。

『ありゃ無かったな』

 幸の抱擁に感激したらしい叔父のキスの嵐を思い出し、知らず苦笑を浮かべた。

 そんな楽しい一日を思い出しながら姿見の前に立ち、鏡の中の自分自身を見詰めた。寝る準備をすっかり整えたその姿は、パジャマ代わりのトレーナーとパンツと言うものだった。そこに貰ったばかりのロケットと言う珍妙な姿。

 二人にお休みを言った後、シャワーを浴び着替えたのだが、どうしてもまたペンダントをしてみたくなったのだ。

 鏡に映る自分に、幸は顔が綻んだ。その姿を暫く眺め、やっと満足する事が出来た。

 そしてペンダントを外そうとチェーンに手を掛けた。が、何故かその手が止まった。

『お休みなさーいっ!』

 次の瞬間、子供のようにベッドにダイブすると、睡魔に誘われるまま眠りに落ちた。ペンダントを外す事なく……。



     *



 ——イヤ、シニタクナイ……。

 誰かに首を絞められていた。

 死にたくないのに、息が出来ない。

 ——オネガイ……コロサナイデ。

 首を圧迫する手を離そうと、相手の手に爪を立てる。ギリギリと爪を立てても、その指はぴくりとも動かなかった。

 ——タスケテ……マミー……。



     *



 自分の咳き込む音で幸は目が覚めた。一頻り咳き込んだ後、軽くえずく。

『……はー、はー、はー……死ぬかと思った』

 荒い息を吐きながら自分が生きている事を確認するかのように呟いた。

 夢の内容は全く覚えてはいなかったが、誰かに首を絞められていた事だけは身体が覚えていた。

『……それにしても、妙にリアルだったなぁ』

 首を擦りながらベッドから下りると、水を飲もうとキッチンに向かう。叔母夫婦を起こぬように素足で廊下を歩くと、足裏にフローリングの床がひんやりと心地好かった。

 音を立てぬよう、慎重に冷蔵庫を開けミネラルウォーターをコップに注ぎ、一気に飲み干した。大きく息を吐くと、コップを洗い拭く。ほぼ無意識の内に行った一連の動作の後、再び音がしないよう開けた時同様、細心の注意を払ってそっと食器棚の扉を閉めた。

 そしてほっと息を吐き、見るとはなしに食器棚の硝子に映る自分の姿を見た。

『ひっ……!!』

 悲鳴を漏らしそうになるのを辛うじて飲み込んだ。彼女の背後に、見た事の無い誰かが映し出されていた。慌てて振り返ったが、そこには誰の姿もなかった。

『今の……何?』

 囁くように呟いた。恐る恐る食器棚に向き直ると、もうそこには自分以外の誰も映ってはいなかった。

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夜の魚 きり @kirinya

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