花瓶
花瓶を抱いて眠った。
硬くて重くて冷たくて、いっそう悲しくなったわたしは。枯れるまで流した涙でみちた暗い夜の底に沈んだ。
うごくのをやめてしまうと二度と戻れなくなってしまいそうで、
そんな折に押入から見つけたのはクリスタルガラスの綺麗な花瓶。
大学を卒業して一年ほど経ったころ、わたしたちが付き合ってからちょうど六年目の日に。あなたは抱えきれないバラの花束でプロポーズをしてくれた。
飾れないと困るだろうと一緒にくれたこの花瓶に、わたしは「もしプロポーズが失敗したらどうするの」と笑った。もちろん断る理由なんてなかったけれど。
あなたはしまった、という顔をしてから「活け花でもするよ。君はまったくしないだろうから」なんてはにかんで返した。
私は枯れるまでバラを飾ったあとは、花瓶を押入にしまった。
本当に一度も花を活けることはなかったけれど、子どもができたら花を飾れる家庭にしたいと思って、眠りについてもらったのだ。
けれども、わたしたちに子どもはいない。
あなたの忘れ形見がないことを心の底から後悔した。挙式から一年が経って、二人きりの結婚生活も堪能して。そろそろ頃合いだねなんて言い出したばかりだった。
あなたの職場から初めての電話が来た。
心筋梗塞。
病院で見たあなたはあまりにきれいで、死んだのを信じることが出来なかった。
葬儀が終わると、小さな骨壺に納まったあなたを抱えて歩いて帰った。
幼いころ、一緒に遊んだ小さな公園を。
小学生の六年間、ともに過ごした学校の横を。
中学生になって、二人で通った塾の下を。
高校生のとき、あなたが告白してくれた河川敷を。
大学生から、毎日乗った電車の走る線路沿いを。
何もかもを鮮やかに思い出せるのに。あなたがいなくなってしまったのを教えてくれたのは、開いた家のドアの向こうにある真っ暗闇だった。
だから今日まで、わたしは明かりを消せなかった。眠れなかったのはあなたがいないからなのか、明るいからなのかもわからなかった。
そして花瓶を見つけた。これを抱いて眠ったら、夢に出てくれるかななんて期待して。あなたがいなくなってからはじめて明かりを消して眠りについた。
結局、あなたは夢には出てきてくれなかった。とても深い眠りだった。本当にいなくなってしまったんだなってまたかなしくなるけど、不思議ともう涙は出なかった。
花瓶を抱いたままベッドから降りる。一晩中わたしから離れなかった花瓶はあたたかくて、いやな感じはしない。
キッチンに着くと、わたしは花瓶をダイニングテーブルにのせた。あなたの定位置だった、背中に陽があたる場所に。
濃いコーヒーをふたつ淹れて、向かい合わせに置く。花瓶の向かいに座りカップに口をつけるけど、あなたの好きだったモカはわたしの口には合わなくて、一口で飲むのをやめた。
昇る朝陽が分厚いカーテンの隙間からさし込み花瓶をぬけて、キッチンに虹をかける。
降り続いていた雨が、あがった気がした。
四十九日を過ぎたころに、あなたは半分だけかえってきてくれた。
それからわたしは毎日、あなたと過ごしたダイニングテーブルで花瓶に花を活けている。
掌編集 綺嬋 @Qichan
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