誰もいない所に

「誰もいない所に、ボールを蹴っちゃ駄目だよ」

「別にいいだろ? 僕が取りに行けばいいんだし」


 サッカー部のレギュラーから落ちた僕が苛立ち任せに蹴ったボールは、錆びたブランコをすり抜けて公園脇の鬱蒼とした杉林に吸い込まれていく。ガサリと枯葉を潰す音がした。

 冬休み前間近の十七時は夜と言ってもいいほどに暗くて、古びて苔むした街灯の下ではゆいもセーラー服から覗く肌とスカーフくらいしか見えない。


「絶対に駄目。あきら、帰ろう。ボールは諦めて」


 短い溜息に続けた急かすような冷たい口ぶり。母の地元の栃木に引っ越して一年。唯は家が隣ということもあり今では気の置けない仲だが、時々子供に言うような忠告してくるのが玉にキズだ。僕はその言い方に腹が立って、耳を貸さずにボールの転がった先へと向かう。


「は? 何言ってるんだよ。ちょっと取りにいくだけだろ」

「明、お願い! 行かないで! 戻ってきて!!」


 何だよ大げさだな。スマートフォンをポケットから取り出してライトを点けようと電源ボタンを押すが、画面は暗いままだ。こんな時に故障とかツイてない。唯に借りるか。

 と思っていたが、杉林の中からボールが転がり出てきて、僕の隣で静かに止まる。なんだ、誰かいるんじゃないか。


「すみません! ボールありがとうございます!」


 真っ黒な林に向かって声をかけるが返事はない。緑の光を漏らす街灯がジイと唸ってブツリと切れた。公園は闇に包まれて、流石にもう遊べる状況でもない。

 帰ろうとボールを足で繰りながら踵を返して気付いた。先ほどまでいた唯がいない。


「……なんだよ、先に帰るなら言えよ」


 歩き出そうとした時に、後ろの杉林がガサガサと騒いで季節外れの生暖かい風が吹いた。なんだこの風? 鉄錆の臭いがキツくて袖で鼻を覆う。


「おまえ、あそぶのか」


 声のした後ろを振り向くが、真っ暗で何も見えない。ボールを返してくれた人だろうか。


「もう帰ります! ボールありがとうございました!」


「おまえ、あそぶのか」ガサリ、ガサリと落ち葉を踏み潰す音が近づいてくる。

「いや、帰るんですけど」


「おまえ、あそぶのか」ガサ、ガサ、ガサ、ガサ。先ほどまでの遅い歩みではなく、真っ暗な森を小走りでやって来ている。声も大きくなってきた。

「おまえ、あそぶのか」ザッザッザッザッ。足音はさらに速くなる。なんかヤバい人に声かけちゃったみたいだ。さっさと逃げよう。

 踵を返して走ろうとした瞬間、足首を掴まれて転んでしまう。生暖かい感触と鉄錆の臭いがして、身体が林の方に引きずられていく。肩越しに相手の姿を見ようとしたが。

「おまえ、あそぶのか」誰もいない。何もないのに足首が掴まれている。一体何が起こっているんだ? 助けて、誰か助けてくれ! 焦りと恐怖で声が出せない。どんどん奥へと引きずり込まれる。林までもうあと少ししかない。あそこまで行ってしまったら、もう戻れない気がする。必死に地面に爪を立てて堪えるが、力は増した足を掴む力は千切れてしまうほどに強く、痛みに耐えるのがやっとだ。錆の臭いも濃くなり、もう息ができない。嫌だ。なんで、どうして。僕は誰もいない所にボールを蹴ったんだ。悪いことなんて何もしていないのに。爪が剥がれそうになり、指にも激痛が走る。お願いだ、もうこんなことしないから!!



「明! 起きて! アキラ!!」

「……唯?」


 気付いた時には唯が僕の隣で折れたカッターを持ってへたり込んでいた。唯の前にはズタズタに切り裂かれた僕のサッカーボールがある。


「明はボールを探しに林に入って貧血で倒れただけ。帰るわよ。ここにはもう来ないで」


 起きた時には再び点いていた暗い街灯の。その下で見た唯の顔は憔悴しきっていて何も言い返せず、僕達は無言のままに家に帰った。


 唯は翌日には何事もなかったかのように接してくれたが、僕はそうはいかなかった。掴まれた足首に、人の手の形をしたアザが刻まれていたから。昨日の出来事は夢ではない。きっと唯は何らかの事情を知っていて、僕を助けてくれたんだと理解した。

 僕は数日もしないうちにサッカー部を辞めた。誰もいない所にボールを蹴ろうとすると生暖かい風と錆の匂いがして身体が思うように動かなくなり、パスが出せなくなってしまったのだ。

 大切なものは僕の軽はずみな過ちで林へと消えた。あの日、僕は死んだのだ。生暖かさと錆だけの、姿かたちのない『何か』に連れていかれて。


 あれから一つ、気付いたことがある。

 ここで暮らす子供はだれ一人として、ボールを誰もいない所へ蹴ろうとはしない。

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