インディゴ・ブルー
ジーンズを一本、切り裂いた。
暗い押し入れの奥底にしまった裁断ばさみはずっしりと重くて冷たくて、暖房のきいたリビングで汗をかいている。
脚のラインが綺麗に見えるから。そう言ってあなたが気に入っていたスキニーデニムは端の方からすっかりほつれてしまっているし、冬の夜明けみたいな深い色も今ではたそがれの彼方のようで。
そうだ、ちょうどいい。掃除のために使ってしまおう。かたくて丈夫なデニム生地は水回りの頑固なよごれを落とすのに役立つらしいから。
ベッドから這い出るころにはとうに陽も暮れていた。一日なんて、夢の中へと逃げていれば驚くほどにはやく過ぎていく。
窓の外を染め上げるインディゴ・ブルーは、もうすぐ黒へと変わるだろう。
そうなる前に。
ねじの緩んだ刃ががちゃりと音をたてて、あなたの好きだったかたちをただの布へとかえしていく。やがて折り重なった藍色の薄くて四角い水兵たち。
ひい、ふう、みい。指をさして数えながら語りかける。これから君たちには、最後の任務、よごれを落とす作戦が待っている。私の脚なんかを飾るのではない。
作業着にはじまりをもつ君たちには、ふさわしい結末だろう?
もちろん返事なんかなくって、白いエアコンがあたたかな吐息をする音だけが聞こえてくるけど。それでよかった。
一枚を残して透明の袋にぱんぱんに詰めて、光のよくあたる棚の目線の高さに置いた。すぐに使いきって、なくしてしまえるように。
そしてその一枚は、キッチンのクレンザーとともに洗面所へと向かう私の手に。
リビングの戸を開けると、誰もいない廊下の冷たさがどろりと零れて、背筋がぶるりと震えた。
突きあたりにある寒色の蛍光灯をつけると、鏡の向こうには幽霊みたいな私がいて。出会うと死んでしまうドッペルゲンガーがいるのなら、こんな顔をしているのかななんて考えながら視線を落とす。白いしろいと思っていた陶器の洗面台も、よくよく見れば小さな汚れや水垢が積もっていて見る影もない。しっかりと目を向けずに放置してしまったことを申し訳なく思いながら、白いクレンザーを藍色の生地に絞り出し、曇りきった表面を磨き始めた。
なるほど。これは確かに落ちる。汚れを含んだ白と染み出たインディゴがマーブル模様を描いて、排水溝へ流れて消えていく。艶のあるなめらかな肌があらわになると、掃除も悪くないと思えてきた。デニム生地を掴む手に力を込めると体も熱を帯び、廊下を満たす寒さも今は感じない。
でも、綺麗になるにつれて気づく。汚れが積み重なったところには藍色が入り込んでしまい、磨いても取れなくなってしまっていた。艶のある白の一角に残された掠れたインディゴは、指を走らせてみればひどくざらついている。汚れを落とすはずが、かえって目立たせてしまった。いまいましく睨んでみても何もかわりはしないことに諦めた私は、くちゃくちゃになったデニムをゴミ箱へバイバイする。
どうせこの藍色だって、白い陶器のうちにはない。外から塗られたうわべだけのもの。時が経てば薄れて、やがてはなくなるのだから。
窓の外を染め上げるインディゴ・ブルーはもう消えて、黒へと変わっている。
そうだとしても。
朝のように顔を洗う。白く磨かれた、端には藍色が残る洗面台で。
見上げた鏡にうつる顔は、いつもより少しだけきれいにみえた。
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