名も無き二頭に捧ぐ

 カーナビが示す午後六時十三分。

 梅雨はまだ明けず、フロントガラスの向こうは絶えず滲んでいる。まだ日が落ちる時間ではないというのに、森を裂いて敷かれたこの道は気味が悪くなるほどに鬱蒼うっそうとしている。私はたまらずオーディオの音量を上げた。


 帰宅ラッシュに重なった事故渋滞。歩道を行く学生と競争する状況にしびれを切らし、普段通ることのない小路に車を向かわせていた。

 子どもの頃にはよく友人と並んで自転車をころがした記憶を頼りに。あの道なら、十分に幅があったと。


 しかし、それは思い違いだったようで、生い茂る草はアスファルトの際を越えて、車の側面を撫でていく。コーナーセンサーからの鳴り止まぬ警告音が不快感を煽る。


 失敗したな。

 ステアリングにしがみつき、身を乗り出す。

 せめて渋滞よりは早く進みたいと、アクセルを踏み込もうとするが。


 道の真ん中に、何かがある。

 目を凝らすと、それは群れたカラスだった。

 軽くクラクションを鳴らすと散っていくが、それでも残る二つの影。

 ゴミならともかく、動物をくのはたまったもんじゃない。


 仕方がない。溜め息を吐きながら見たバックミラーに光が映っていないことを確かめ、パーキングブレーキをかける。

 シートベルトを外し背広を助手席に掛け、ドアを開けると。生暖かい雨では流れ落ちない、蒸れた青臭さがじっとりとまとわりついてくる。


「……タヌキ、か?」


 灰褐色の毛並みの獣が二頭、濡れた地面に寄り添って倒れている。

 一頭に外傷は見当たらないが、もう一つは辛うじて動物だと確認できるだけで、まるで痛々しく散る彼岸花の惨状。夕飯前に見るんじゃなかったと後悔するが、この道幅だ。どうやっても避けては通れない。

 この時間に市役所に電話したところで繋がらないだろう。ましてや九九一〇にかけるのも馬鹿馬鹿しい話だ。

 ビニール袋を履いて、足でどかすか。

 シミュレーションしたところで、トランクにスコップを積んでいたことを思い出す。雪かきのために昨冬に買ったものだ。


 持て余していたものだし、まぁいいだろう。

 草をかき分け車の後部に回り、スコップを取り出す。


 ひとまず、形を保った一頭をすくい上げる。

 想像していなかった重みが、運動不足の上腕に響く。


 この二頭は、どんな関係だったんだろうか。

 路上で轢かれる動物の四割以上は、タヌキだという。もちろん、全動物中で最多だ。

 光から逃げるために、かえって車に向かってしまうとか、死んだふりをしてしまうとか。人からすればあまりにくだらない原因で死んでいく彼らだが、二頭が寄り添う光景には、背景を感じてしまう。

 つがいか。きょうだいか。あるいは仲間か。

 大方、原形を留めない方が先に轢かれてしまい、そこに何らかの理由で近づいたのだろう。


 悲しく、あまりに無慈悲な終わり。

 誰にも知られず、死んでもなお痛めつけられて。

 そもそも、森を切り裂くこの道がなければ、二頭は死ななかったはずだ。


 背丈の低い草の上に草の上に置き、かがんでもう一頭をすくい上げる。直視しないよう逸らした視線の先には、一直線に伸びる道路。低い姿勢の景色が、脳の奥にあった私の子どもの頃の記憶と重なって、気が付く。


 振り返る反対側には、大柄な黒いセダンが草を押し広げるように、威圧的に佇む。


 この道は、何も変わっていない。

 ただ私が、無意味に大きくなっただけだった。


 いや、私だけじゃない。

 人間はこの車のように、無意味に大きくあろうとしている。

 森を裂き、山を抉り、海を潰して。


 その結果がこれだ。

 大きくなるあまりに、小さいものは目に入らず、存在すら認められない。

 人が知るのはいつも、何もかもが手遅れになってからだ。


 もう一頭も、すぐ隣に置く。

 でも、終わりにはできなかった。


 気付けば私は、二頭のかたわらに穴を掘り始めていた。

 避けるだけ、触れぬようにするだけでは、駄目だと思った。

 自己満足でしかないとしても。

 せめて、安らかに眠らせてやりたい。


 一心不乱に掘られた穴に二頭を並べ、埋め戻す。

 最後に、手近にあったヤブカンゾウを一輪、供えた。



 足に履こうとしていたビニール袋にスコップをしまい、車に戻る。

 ドアを閉めると、きゃん、と子犬がじゃれ合うような声がした。まだ何かいるのかと再度ドアを開けて周囲を確認するが、暗い森に、スピーカーから鳴る洋楽のバラードが木霊こだますだけだった。


 きっと、森の中に何かいるんだろう。

 シートベルトをつけ直して、私は改めて家路を進んだ。


 通り抜けるには一分程度のはずの道。

 森を抜ける頃には六時半を過ぎ、もう雨は止んでいる。


 オーディオを消して、考える。

 死後の世界なんて、信じてはいないが。

 あの二頭は、わずかでも報われただろうか。

 人間の理不尽で砕かれた二つの命と、二つとない関係。

 車に轢かれて死ぬのが当たり前のタヌキだとしても。


 少なくとも彼らは、私の中にあり続けるだろう。


 色を失いつつある東の街の上には、鮮やかな虹が架かっていた。

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