第6話 地上の世界



 *



 目をさまして、最初に見たのは知らない金髪の少女だった。

 彼の足もとのほうで座りこむ少女は、薄い草衣と白い素肌に乾いた泥をつけ、なんともみすぼらしい。

 そんなことを思ったアオイだったが、彼もまた、麻で織った生地が見えないほど全身を灰色の乾いた泥でおおわれてしまっていた。

 指を動かそうとしただけで、関節でかたまった泥がまとわりついてくる。


「なんで、俺」


 しっかりと目をさまし、言葉を話したアオイの姿を見て、ぱっと表情を明るくした少女が顔のほうへ這いよってきた。


「よかった、意識が戻ったのね。怪我はほんの少しだったから、ジンカンカの神威できれいにふさがったけど……痛む?」


 泥でも食べたのだろうか。少女は、乾いた泥がほんの少しのこった口で早々と言う。


「君は、だれ?」

「そっか、まだ名前知らなかったわね。私はウルレナ、君の名前は? どこの集落のひと?」

「……アオイ」

「アオイ、すてきな名前ね。そのきれいな瞳みたい」

「きれい? 俺の、目が?」


 アオイの名のように、彼の深い蒼の瞳をじぃっと見つめると、ウルレナは表情をやさしくほころばせて頷いた。


「ええ、まるで海を見てるような、見られてるような。すごく美しい瞳」

「海?」

「知らないの?」


 <海>という言葉にいまいちピンときていないアオイを見て、ウルレナは目をまん丸にして驚きの声をあげる。


「いや、知らないわけじゃないんだけど……本物は見たことがないから」


 ゆっくりと上体を起こして、アオイは頷いた。

 あらゆる命がそこから生まれたという、母なる神さまが棲まうところ。それが海だと、ウルレナは教わった。


 勿論、彼女だけではない。神さまからの恩恵である<神威>をたまわった人々なら、誰だってその根源である海には感謝と祈りを捧げている。

 だから、新たな命の誕生とすこやかな成長を海に感謝するための行脚が、集落の恒例行事としてあった。


「私も一度しか見たことがないけど、すごく大きくて美しいところよ。いつか、その海色の瞳で見られるといいわね」


 ウルレナの記憶のなかで、いまだ鮮明に残っているのはまだ五の齢に、成長を感謝する行脚で見たときの海。

 まだ大人たちの腰もとまでしかなかったような少女が立派に成長し、齢にして十六までなった現在でも、ウルレナは鼻にふきつける潮風の匂いや潮騒の音色をおぼえている。


「ここは、どこ?」


 ふと、ウルレナの太陽みたいな橙色とうしょくの瞳から視線をはずしたアオイ。

 彼の目に映ったのは、部屋というにはあまりにも素朴な、藁をつみあげた壁だった。


 白昼だろうがランタンを灯して、ようやく視界がひらけていたアオイの部屋とは対照的に、戸のない出入り口から差しこむ陽光だけが、四人や五人が転がっても余裕がありそうな藁の家のなかを照らしている。


「ここは私たちの集落、私の家」

「ウルレナの?」


 少しだけ視線をおろしてみれば、藁がしかれてあるのはアオイの寝ているところだけで、ウルレナは焦げ茶色の土のうえに膝をついていた。


「それより、なんであんなところにひとりで?」

「ひとり? ああ、そっか……」


 体をしたから突きあげられたような強い衝撃にやられ、痛めた体で必死に覆いかぶさった板をはらいのけて……。

 それからのことはアオイ自身の記憶もすごくぼんやりとしていて、まるで頭のなかに濃霧でもかかったよう。


 ひとつだけ確かなことは、自分がひとりだということ。


「ウルレナ! ちょっと、こっち手伝っとくれよ!」


 アオイが頭のなかにたちこめた濃霧をはらい、ここがどこなのか思いだそうと藁の壁を見つめていたところ、家のそとから女性の大声が聞こえた。


「じゃあ、私行かなきゃ。食べ物もってくるから、待ってて」

「え? ああ、うん」


 女性に呼ばれたウルレナの背を、うわのそらで見送るアオイ。

 素朴な藁の家のなかにひとり、外から聞こえてくる喧騒に耳をかたむけながら、しばらくぼーっとしていると、<集落>といっていたウルレナの言葉を思いだす。

 ウルレナの見知らぬ恰好、見知らぬ作りの家、戸のない出入り口から見える見知らぬ景色。


 とにかく、アオイの知らないものばかりのこの場所には、船のうえのように人々が身を寄せあって暮らしているのだろう。

 そんなことを考えた途端、アオイの頬を一滴の涙がつたった。


「そっか、俺……ひとりになったんだ」


 家のそとから聞こえる忙しそうな声を耳に入れれば入れるほど、虚無感が胸にひろがっていく。

 瞳から静かに溢れだした悲しみと、顔にべったりとはりついた泥を腕でぬぐい、アオイは立ちあがった。

 不思議なことに、船が落ちてから全身をジリジリと攻めたてていた痛みはもうない。ウルレナのいっていた<神威>の力だろう。


「なんで、生き残っちゃったんだろう」


 ぼそっと呟き、アオイはウルレナの言いつけも守らず、藁の家を出た。

 踏みならされた焦げ茶色のかたい地面に、ウルレナの家と同じような束ねた藁を積んでできた三角形の家が十数棟。本当に人の手で積みあげたのか疑いたくなるほど大きな家もあれば、少しばかり不格好な家もあった。


 ウルレナの後ろ姿が、ひと際大きな家の近くに見える。

 彼女だけではなく、おそらくこの集落の全ての女衆がそこに集って、人も煮込めてしまいそうな大鍋を囲んでいた。


「母さん」


 その姿が、アオイには有毒だった。

 料理をする女衆の背をかさね、またアオイの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。

 気まずくて、まともに話すこともできなくて、結局最後に見たのは気丈な母の涙や鼻水をながす、みっともない姿。


 それが、心残りだった。


 女衆の姿を見ていられなくなったアオイが、上空へ視線をあげる。そこに広がっていたのは、白昼の真っ青な空と白く分厚い雲。

 雲は、したにあるもの。

 アオイのなかにあった概念が、何気なく顔をあげたその一瞬で覆る。壊れる。


「ここは、雲のしたの世界」


 それと同時に、ここがどんな場所であるのか、彼は理解した。


「…………獣の国」


 雲を見あげることのできるここが、とても恐ろしい場所と耳にたこができるほど聞かされた<獣の国>。雲のしたの世界。

 途端に全身の力がぬけ、アオイの瞳から大粒の涙が溢れた。


 ――恐ろしかった。――悲しかった。


「じゃあ、あの化け物が獣」


 誰かの言葉をなぞらえ、ガタガタと震えていたわけではない。

 空を舞う翼竜どもに襲われた恐怖を、彼の心と体は鮮明に覚えていた。

 大きな口は、人を容易く喰らう。鋭利な爪をもつ足は、人なんてちっぽけな体じゃ押しかえせないほど強力。太く長い尻尾は、船を一瞬にして玉砕。

 とてもじゃないが、人が戦えるような生き物ではない。


「ムリだ……ムリだよ……」


 もう自分だけの力じゃ、止められなくなった涙を灰色の泥がついた両腕でぬぐう。

 ぬぐっては溢れて。さらにぬぐっては、また溢れて。


 ――死んじゃダメ、生きるの。

 ――あなただけは、必ず死なせたりしないから。


 そんな母の言葉を思いだすたび、涙はさらに溢れた。


「こんなところで、生きられるはずがない」


 訓練をつんだ戦士だって、簡単に殺されてしまうような場所だ。戦士にもなれなかった自分が、生きられるはずなんてない。

 いつしか、アオイを恐怖と悲しみで泣かせているのは翼竜の記憶でも、大切な人たちを失った悲しみでもなくなっていた。

 彼を嗚咽させるほど苦しめたのは、彼自身がつくりだした<獣の国>という未知の世界への恐怖心。

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