第5話 尊い命を救いたくて

「あれはっ!?」


 黒色の瞳を右往左往させて周囲に獣がいないのを確認し、ウルレナは矢のように飛びだしていく。

 慌てて槍を投げ捨てて沼に入るウルレナ。深さといえば膝くらいまでだが、重力を与えれば与えるほど彼女の足は沈んでいき、このままでは背だけ見えている人間が沼に呑まれてしまうのも時間の問題だった。


「待ってて、今助けるから!」


 重たい泥をかき分けて、ようやく沼から見える背中にたどり着いたウルレナの短い両腕が胴を抱きかかえる。

 沼から引きあげたその顔に見覚えはなかったが、どうやら沈んでいたのはウルレナと齢の大して変わらない少年だったらしい。

 細身だが、それなりに筋肉のついた少年の体は重たく、持ちあげたウルレナの体も大きく沈みはじめた。


 もうすでに股下まで沈んでいるのにくわえ、草衣が水を吸っていて鉄を着ているような感覚に襲われるウルレナはその場から動くことができず、かといって少年を投げ捨てて岸まで帰るのも彼女の良心が許さない。

 飛び散る泥で汚れた顔を、空で燦々と輝く太陽に向けて少年から片腕をはなすと、力いっぱい指笛を鳴らした。

 森に濃く茂る緑をかき分け、響き渡った甲高い指笛の音にさそわれてひらけた上空から姿を現したのは、ウルレナの背丈ほどはある大きな翼をはためかせるクック。彼女の指笛で危機を察し、急いできたのだろう。


「クック!」


 泥だらけの顔をほころばせてクックの到着を喜ぶと、ウルレナはすぐさま沼地に降りてきたクックに少年の身を差しだした。


「お願い、彼を先に岸へ!」


 鳴き声をあげるわけでもなく、頷くわけでもなく、クックは沼のなかで身を屈ませて自らの背をウルレナに向ける。「乗せろ」ということなのだろう。


 ウルレナは両腕で抱きかかえた少年の体を、全身をつかって乱雑に放り投げる。

 見事に少年の体はクックの背にぶつかり、力ない体はサドルバッグのように背で弧を描いた。

 少年を乗せたクックは、すぐに羽毛を散らしながら大きな翼で飛びたち、沼の岸で身体をかたむけて少年をぬかるんだ地面のうえに放った。

 勢いのあまり地面で転がる少年を尻目に、今度は自らの飼い主であるウルレナを救うため、クックは再び翼を広げる。

 足もとのやわらかい土が風で舞うほど、豪快に翼をはためかせてウルレナのもとへ向かうと、彼女はすぐにクックの体にしがみついた。


「ありがとう、クック」


 ウルレナのそのひと言で、クックは嬉々として空へ飛びあがる。

 少年をおろした場所に着くやいなや、ウルレナは慌てて少年のもとへ駆け寄った。

 髪をかき分けて露わにした耳を少年の口もとに近づけてみるが、


「うそ……息してない」


 息が吹きかかる感触も、呼吸音もしない。


 顔を真っ青にしたウルレナの手が拳をつくり、戸を叩くように何度も少年の左胸を小突く。

 時に力強く、時に緩やかに、少年の心臓を何度も何度も叩いた。


「お願いします、神様。どうか、彼を……」


 開きっぱなしの少年の口に指をねじ込むと、そこには案の定、喉を塞ぐように詰まった大量の泥。


「尊き命を、お救いください」


 ウルレナは心臓を叩く手をとめ、自分の口もとについた泥を草衣の袖でぬぐうと、少年と自身の口を密着させて大きく息を吸い込んだ。

 背と腹がくっついてしまいそうなほど、息を吸い込んで肺を膨らませたウルレナ。すると少年の喉をふさいでいた泥は、みるみるウルレナの口のなかに吸いあげられていく。

 少年から口をはなし、泥を吐き捨てたウルレナの拳が、また心臓を叩きはじめた。


 心臓を叩いては、口から泥を吸いあげて。なんとか少年を殺すまいと、無我夢中で繰り返していたウルレナの努力は功を奏し、ついに少年が咳きこんで泥を吐き出した。

 ようやく息を吹きかえした少年の姿に、不安で血色を悪くしていたウルレナの顔も、思わずほころぶ。

 小さな手で何度も青ざめた少年の頬をたたくと、閉じていたまぶたの裏で目玉がごろごろ転がった。


「起きて、死んじゃダメ」


 今度は、頬をつねってみる。


「うぅっ」


 その姿は、まるでうなされているようにも見えたが、呼吸していなかった瞬間に比べれば大きな進歩。

 少年のまぶたが、ゆっくりとひらかれていくのをウルレナは息をのんで見守った。


 まるで海をそのまま映しているような、少年の綺麗な青色の瞳にウルレナが見いっていると、彼の腹が小さく鳴る。


「お腹が減ってるの?」


 半分だけまぶたを開いた彼に、意識があるのかないのかはわからないが、彼の腹は物乞いのように声をあげている。それだけで、返事としては十分だった。


 すっくと立ちあがったウルレナは沼の傍らで翼をやすめていたクックのもとへ急ぎ、サドルバッグから小さな両手でカタカラを取りだすと手の甲で硬い実の表面を叩く。

 なかには実がしっかりつまっているのだろう、鈍音が小さく聞こえた。


「クック、お願い」


 ウルレナが自分の小さな手ではひらけないカタカラを、クックの顔の前に差しだす。

 黄色いくちばしの鋭利な先端がカタカラをつまむと、石のように強固だったはずの表皮がヒビ割れた。

 集落で指おりの力もちが握った石をふりおろして表皮を一部砕いてから、半分に割っていくというのがウルレナの教えられた先人たちの知恵。


 しかし、クックがいれば男衆の力添えなど必要なかったらしい。

 こうしてくちばしで実を砕いてくれれば、あとはウルレナの力でもヒビにそって表皮を割っていくだけ。

 地味な色あいで強固だった表皮から一変、少しずつ割っていったさきで姿を現したのは、艶っぽい光沢をおびた黄緑色の果肉だった。


「これなら、噛まなくても大丈夫」


 腰巻きにさした短刀をぬき、真新しい刃さきで細かく果肉をわけてやると、ウルレナは少年のそばで膝をつく。

 指さきで切りわけた果肉をすくいあげると、ほんの少しでも力をいれれば崩れてしまいそうなほど水っぽい果肉が、彼女の指のうえでゆれた。


「食べて」


 あいた手で、力がゆるみきった少年の口をこじあけ、カタカラの果肉ごと指を口内につっこむ。


 「病には、まずカタカラの実で栄養を」。ウルレナの育てられた集落の教えだった。

 こうして今は食べさせてやっているウルレナも、発熱で寝こんだときはよく食べさせてもらったもの。だからこそ口にやさしく馴染む酸い味とぬるい果肉は食欲がなくとも流しこめるし、不思議と腹もみたされるのを知っている。

 口から指をぬいて強引にとざしてやると、少年はわずかな意識でカタカラの果肉を数度ばかり噛み、飲みこんだ。


「よかった、意識ははっきりしてる? ここがどこかわかる?」


 ウルレナが口もとに手をかざしてやれば、よわってはいるものの、たしかに生ぬるい吐息がぶつかる。

 しかし、それ以上もそれ以下もなかった。

 目は半びらきで、見えているかどうかもわからない。言葉のひとつもしゃべってくれない。

 ただ呼吸をしているだけ。ただ生きているだけ。


「ちょっと、ねえ!」


 頬を何度もはたいているうち、少年は小さく言葉を口にした。

 なんと言っているかは、わからない。

 それでも、口のなかにのこっていた泥を口角から吐きだし、生きようとしている。


「クック、彼を集落まで運ぶわよ。手伝って」


 その場にカタカラをおき、ウルレナが少年のわきに腕をいれて、彼の上体をおこした。

 先ほどと同じよう、ふたりのそばで身をかがめたクックの背に少年をのせてやる。


 自分の体が、だれかにささえられている。なにかにのせられている。

 少年に、そのくらいの自覚はあったのかもしれないが、しばらくして半分だけひらいていた目はとざされ、また深い眠りのなかに戻っていってしまった。

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