第3話 自分の命以外、全て失った
耳をふさいでも聞こえるほど、ありえない大きさの咀嚼音が、暗い船室のなかにも聞こえてくる。
甲板から聞こえてくる断末魔がひとつ消えた。またひとつ、さらにひとつ、どんどん消えていく。
「母……さん」
母の断末魔もとだえ、アオイの顔から、さあっと血がひいた。
力なく膝から崩れおちた彼の股には、再び尿がにじむ。
「ひぐっ」
見知った人たちが目の前で死んでしまったのがつらい。母が死んでしまったのがつらい。
でも、アオイが泣いてしまうほどつらかったのは、目の前の戸をあけて母を助けにいけなかった臆病な自分だった。
あければ、きっとそこには母を喰らった翼竜がいる。
出会えば、きっとアオイも例外なく喰われる。
戸にそえられた手をアオイ自身の臆病さが硬直させていると、翼竜の蛇のような細長い尾が、船室の天井を一瞬にしてふき飛ばす。
突然、船室に差しこんできた陽の光にアオイの目をほそめて空を見あげると、翼竜の大きな翼が視界のすみに映った。
「イヤだ、死にたく……ない」
逃げようと思えば思うほど、なさけないことに体はほぐれていく。
すぐさま立ちあがったアオイが船室の奥へ駆けだした次の瞬間、今度はさっきまでアオイが座りこんでいた船室の入口が翼竜の尾で粉砕されてしまう。
あと少しだけ、あの場で座りこんでいたらどうなっていたか、考えるだけでも全身を鳥肌が駆けぬけた。
「うわあああっ!」
大きく揺れる船のなかで、アオイはついに立っていられず、ごろごろと玉のように転がってしまう。
船が傾いたのがアオイの進行方向だったのが、不幸中の幸いだろう。顔や腕に青紫色の痛々しいアザをつくりながら転がったアオイの身が、船底へつながる階段へ投げとばされた。
急な階段に放られた体は、もう止まらない。
野花が綿毛を宙に散らすそれと同じように、服についていた木くずを荒々しく宙に散らし、幾度もにぶたらしい音を船室の狭い壁に響かせた。
アオイの体がようやく止まったときには、もう既に彼の知らない場所。
天井が破られて陽の光に照らされたうえの階とはうってかわって、光を遮断してしまっている船底は手もとさえ見えないほど暗い。
「船のなかに、こんなところが」
ふるえる手で床をなぞると、指さきが壁にぶつかった。
まだ上下左右に絶え間なく揺れる船内で、壁に身をもたれながら立ちあがると、アオイは壁づたいに暗闇のおくへ足を進めてゆく。
一歩一歩、足もとをたしかめながら暗闇のなかを進んでいたアオイの視界のすみに、ほのかな輝きが飛びこんだ。
どこかからこぼれてきているような光は小さいが、七色に輝くそれは煌々と存在感をはなっている。
「神威結晶」
神威結晶のはなつ七色の輝きに魅せられたかのように、アオイの足が光をもとめた。
光に近づくにつれて目はハッキリと床や壁を映しだし、輝きの強さに目を細めるころには板の木目まで見えるほど灯りに不自由はなくなっていた。
ようやく、船長のいう船底の部屋に足を踏みいれたアオイ。彼のまえに姿をあらわしたのは、神の威光という語源にそん色ないほど神々しい七色の輝きをはなつ、結晶の柱。
細めた目で自身の丈の倍はあろうかという柱へ歩みよると、アオイは真っ先に床に膝をついて両手を柱にそえた。
「あった……かい」
触れた部分から、じんわりと体のなかに染みこむようなあたたかさに心をやすめ、ゆっくりと目を閉じて祈る。
母にいわれたとおり、心の奥底から誠心誠意祈りをこめる。
神威結晶の原材料は<獣の心臓>。彼らはみな、心臓に<神からの恩恵>を宿すと戦士会でアオイは教わった。
「お願いします、どうか」
心臓は肉体をはなれると結晶化し、それらはみな神からの恩恵をたまわった摩訶不思議な力、神威を秘める。
ときに神威は火をふくし、ときに神威は雷鳴をひびかせる。
神威は刃もみがくし、船を雲のうえに持ちあげるほどの浮力も生む。
「どうか、母さんやキンジュくんを」
神威は神からの恩恵そのものだから、祈りにはきっとこたえてくれる。
そう信じてやまない。いや、信じるしかできなかったアオイは、柱にすがりついてボソボソと祈りをささげた。
「みんなを、救ってください」
自分でも気づかないうちに、またアオイは大粒の涙をながす。
「悪い夢だったことに……してください」
ずるずると鼻をならし、震える声で必死にうったえかけた。
ほんの少し前までの日常を返してほしい。ただ、それだけ。
それだけを願って、何度も何度も同じことを呟いて涙をながす。
どれだけのあいだ、柱にすがって祈りをささげていたのだろう。何度、同じ言葉を口にしたのだろう。
そうしているうち、アオイの体をしたから突きあげる衝撃がおそった。
衝撃はあまりに強く、木造の船を破壊。しかしそれだけにとどまらず、あろうことか神威結晶の柱までも破壊してしまった。
衝撃で全身をだぼくして、どこもかしこも動かせば痛い。だからといって暗闇のなかでじっとしていると、体じゅうに刺さった木片がヒリヒリと全身に痛みをはしらせた。
「うっ」
きしむ体で、視界をさえぎっていた大きな板をどかす。それが、間違いだったのだろう。
板のしたに隠れておけばよかったものを、アオイは地上に姿をあらわした。
ぶあつい雲と、青空と、太陽が一枚絵のように映る、地上の世界に。
「ここは、一体」
もうろうとする意識のなかで、見たこともない景色に戸惑うアオイ。その姿を、地上に大きな足をつけた翼竜は見つけてしまった。
地上の森のなか、金切り音のような鳴き声を響かせた一頭の翼竜が、翼をおりたたんだまま一歩踏みだす。
大きな音をたてて崩壊した船の残がいを踏み砕き、木片の山のうえに転がるアオイを猛禽のような鋭い眼光でとらえる。
「逃げ、ないと」
耳障りな翼竜の鳴き声で意識をしっかり取り戻したアオイが、きしむ体を起こす。
だが体はまるで自分のものでないようにいうことを聞かず、全身を支える腕がぶるぶると震えてしまっていた。
「……生きないと」
母からの言葉をなぞるようにつぶやき、立ちあがろうとするアオイだったが、口からぼろぼろこぼれおちてくる言葉の数々とは対照的に、その瞳にはわずかな生気も宿っていなかった。
子供だってわかる。立ちあがるのも難しいような体で、自分の何倍も大きな体躯をもつ翼竜から逃げられるわけがない。
――――人間が、獣にかなうわけがない。だから、獣の国は恐ろしいんだ。
ただ、母にいわれたことだから。その一心で生きることを全うしようとしたが、それもここまでだったよう。
アオイは全身をおそう痛みを受けいれ、死を悟った。
刹那、再び森のなかに翼竜の鳴き声が響きわたる。それも今までとは声色がちがう、どこか苦しむような、そんな悲鳴のような声。
「ちがう、獣?」
突然のできごとに驚いて顔をあげたアオイが目の当たりにしたのは、翼竜をおそう別の獣だった。
人間、にしてはかなり大柄かもしれない。アオイの知るどの成人男性よりも、はるかに大きい。だが、翼竜のような獣にくらべれば、その姿は人間に近い。
それでも、アオイが一目見ただけで<獣>と判断するだけの異常性はあった。
四本の腕は背丈より長いし、関節がそれぞれ二つと気色悪い。くわえて体毛は全身をおおうほど毛深く、剛毛。きわめつけはその頭、首からうえは猪そのものではないか。
獣の生きる姿を知らないアオイでも、その容姿を見れば人間と違う存在というのはすぐにわかった。
「今なら」
突如、森のなかから飛びだしてきた人に似た<異形の獣>。なぜか翼竜だけをおそうそれの登場は、アオイにとってまたとない好機でもあった。
異形が奇妙なほど長い腕を鞭のように翼竜へうちつけると、翼竜は甲高い悲鳴を森のなかにひびかせた。
大岩でなぐられたような衝撃にたえられず、大木の幹にうちつけられたまま動かない翼竜。そのすらっとした細長い首根っこを、異形の手が力強く抑えつける。
人間がなすすべもなかった翼竜を一方的にいためつける異形の姿は、ゆっくりながらも起きあがるアオイの視界のすみに映った。
「あいつ、一体なにを」
全身をつたう容赦ない痛みをこらえ、ようやく体をおこしたアオイが目にしたのは、大口をあけて翼竜の胸肉を食べる異形の姿。
獣が、獣を食べている。その姿が、おそろしくておそろしくてたまらなかった。
毛穴からじりじりと汗がふきだし、震える体。痛みをかかえたままのそれをひきずり、アオイは一目散に緑生い茂る森のなかをめざす。
息をあらげ、バリバリと鳴き散らす板をふみ、ボロボロの体をひきずったアオイ。彼の視界のすみで、けたたましく翼竜をむさぼっていた異形だったが、その石のように強固な歯が心臓をつかんだ。
心臓からつながった、あらゆる血管を千切り、翼竜の肉体からひきずりだす。すると心臓は一瞬にして結晶化し、七色に輝く神威結晶と化してしまった。
「神威結晶、ほんとうに獣の心臓からできるんだ」
近くにあった木の幹に体をあずけるアオイが、おどろきのあまり目を真ん丸とさせて猪頭の異形を見る。
戦士会で教わったとおりだ。神威結晶は獣の心臓を、身から切りはなすことで生成された神の恩恵をさずかった結晶。
まさに今、異形が口にくわえている七色の結晶が、それなのだろう。
あろうことか、異形は神の威光という由来をもつ神威結晶を、頑丈な歯で噛み砕く。
真うえに見える空のような青い瞳をひんむき、異形は無我夢中で結晶を食った。がりがりと、結晶を細かくすりつぶす音はひどく耳障りで、アオイは思わず顔をゆがめた。
「神威結晶を……食べてる」
翼竜からぬきとった結晶を食べるのに夢中な異形の大きな背をしり目に、アオイは再び足を進める。
ひきずった足が生い茂る草をえぐり、茶色の土に線をえがいてゆく。
息も途絶え途絶えで、視界ももやがかかったように悪い。
一体、どれほど歩いたのだろう。
白昼の空は暗くなり、手をのばした先すら見えない船底のような暗闇のなかを進んだ。
また陽がのぼれば、視界こそひらけたものの道はない。
あるのは高々にたつ木々と、膝あたりまでのびた足もとをかくす緑色の草。
だぼくで体が痛い。爪よりも小さい、生きているのが不思議にも思える小さな小さな虫に刺されたところがかゆい。
————だるい。
————おもい。
もうアオイには、見たことない世界におどろく感性も、生きようとする気力もなかった。
ただ歩いているだけ。
いくつもの朝をみたし、いくつもの夜をみた。
うち、腹が物乞いのような鳴き声をあげた。
気付けば地面はぬかるみ、ひきずる体はいつしか沼へ向かっていた。
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