第2話 崩墜

 その時、甲板中に耳をつんざくような、金属と金属がかすれる大きな音が響く。

 不快極まりない音に、アオイが顔を歪めて両手で耳を塞いでいたのだが、異変は音だけではなかった。

 船全体がガタガタ音をたてて揺れ、他の船と行き来に使う跳ね橋があがる。

 これでは、他の船に移ることもできないではないか。跳ね橋を目にしたアオイには、不便になる程度の考えしかできなかったのだが、他の大人たちは違う。


「アオイ! はやく他の船に移って!」


 他の大人たちと同じように、顔を真っ青にした母が見たことないような大慌てっぷりで、アオイのもとへ駆け寄ってきた。


「でも、跳ね橋が」

「いいから、はやく!」


 まだ粥を食べ終えてないアオイの手を握り、母が走ろうとした瞬間、船が浮力を失ってだんだん降下していく。

 ロープに干していた洗濯物の幾つかが飛び、空の澄み渡った青のなかに消えた。


 揺れは徐々に大きくなって、立っているのが精いっぱいなほど。

 なんで船が揺れているのかもわかっていないアオイの手をひいて、矢のように飛びだした母は、案の定バランスを崩して勢いよく転んでしまった。

 彼女に手をひかれ、見たことない慌てようの母の背を見つめながら、ただ従っていたアオイ。急にとまるものだから、彼の足ももつれてそのまま転倒してしまう。


 床にぶつけて赤くなった額を片手でおさえながら、大きく揺れる甲板のうえでゆっくり体をおこす。

 そこで、アオイはようやく見えている景色が、テーブルに座って粥を食べていた時から随分ひくくなったことを悟った。

 船が降下する勢いたるや凄まじく、もう船の半分は、ぶあつい雲のなかに埋まってしまっていた。


「ウソだ……船が、落ちて……」


 上空にひっぱりあげられているような浮遊感が、アオイの体をおそう。

 船底が叩く風が、轟音をたてて甲板にいる人々を上空へ吹き飛ばそうとしている。


「アオイ! こっちよ!」


 床板の間に指をいれて、顔を真っ赤にしながら体を突きあげる風に耐える母のあいた左手が、今にも吹き飛ばされてしまいそうなアオイの手首を強くつかんだ。


「母さん、どうなってるの! なんで落ちてるの!」

「いいから、はやく! 死んでしまうわ!」


 船全体が、ぶあつい雲に呑みこまれると、視界は一気に悪くなって肌を不快な湿っぽさが襲う。


 なにもわからないなりに、アオイは母に従って手を引かれるまま床板を這うように進みだした。

 甲板のいたるところから聞こえてくる悲鳴に、思わず耳をふさぎたくなったが、そんなことをしていては空に投げられるのはアオイ自身。

 みしみしと局所的にはがれていく甲板の床は、ふたりにとって好都合だったようで、床板がはがれてつかみやすくなった箇所に指をいれながら、四つん這いで体を強く前へ向けた。


「神威結晶が、船の動力がとめられたんだ!」


 腹まで響く風の轟音のなかにまざって、ひとりの男が叫ぶのが聞こえる。

 神からさずかった結晶の恩恵で船が雲のうえに浮かんでいるというのは、誰でも成長の過程で教わる一般常識のようなもの。

 だから船の動力である神威結晶がとめられた時、雲のうえに浮かんでいた空船が一体どうなるのかも、誰だって想像ができる。


「神威結晶を動かせば、船はまだなんとかなるはずだ!」


 男が、続けて叫ぶ。

 彼はこの船の住民の統治を任されている船長で、彼ならば神威結晶の場所も、動かしかたも知っているはずだろう。

 しかし、もう四十を過ぎた彼の体は、下から突きあげる風圧に身を伏せて抵抗するのが精いっぱいだった。


「母さん、船長が言ってるみたいに、神威結晶を動かせれば」


 アオイの真剣なまなざしと訴えに、母は振り向かせた顔を深くうなずかせた。


「船長! 私が行きます! 神威結晶の場所と、動かしかたを教えてください!」


 船室につながる戸へ、一番近かった母が風の音に負けないよう、腹の底から全身をこわばらせて大声を放つ。


 母の声に気づいてあげた船長の顔は血が通っているのか疑問視してしまうほどに真っ青で、彼の感じる恐怖を鮮明に刻んでいた。


「おお、アーシャ! 神威結晶は居住区をさらにぬけた、船底に――」


 船長も腹から声をあげて、母の問いかけに答えようとした時、彼の叫びを遮って船がまた大きく揺れる。

 それも、さっきとは比べ物にならないほど、とてつもなく大きな揺れ。

 粥を焚いていた鉄の大鍋はひっくりかえり、卵白色の粥が宙を舞った。

 まるで、なにか巨大なものがぶつかったような揺れは、踏ん張る力の弱い子供を船の外へ放り投げた。


「ウマル! いやあぁぁぁぁ」


 腹を痛めて生んだ子への愛ゆえか、船の外へ放られた男の子へその母親が追って雲のなかへ飛びこむ。

 男の子も、その母親も、きっと助からない。

 誰もがわかっていながら、それは言ってはいけないこと、考えてはいけないことと口を噤んだ。

 揺れと風圧に負けてしまったのは、なにも親子だけではない。バランスを崩して風に突きあげられた人々が、次から次に船の外へ放りだされる。


 見知った顔が甲板から消えていくのは、アオイにとってとても恐ろしかった。


 ようやく二度目の大きな揺れがおさまったと思うと、船はぶあつい雲をぬけて、ついに雲のしたに広がる世界へ到達してしまう。

 そこでアオイが見たのは――――大きな翼を広げて雲のしたの空を舞う、翼竜。


「なんだ、あれ……人間じゃない」


 アオイが人間以外の動く生物を見たのは、これがはじめてのこと。

 彼でなくとも、雲のしたに広がる<獣の国>で生きる獣の実物を見るのははじめてだった。


 船から近いところで翼をはためかせる翼竜の背を覆う、一枚一枚が人の顔ほどあろうかというウロコの間に木くずが挟まっているのを見ると、この翼竜が船にぶつかって船体を大きく揺らした張本人なのだろう。


「はやく、船室に行くわよ!」


 落下する船のしたから、さらに三頭の翼竜がおぞましい顔をのぞかせると、母は顔面を蒼白させてアオイの手を強くひいた。

 ところが、さっきまでは容易くひけていたアオイの体が、まるで石のように固まっていて動かない。

 自分なんて丸呑みされてしまいそうなほど大きな口と、大きな図体。それから刃物のように鋭い爪や牙。

 はじめて目の当たりにするそれが生きていると考えただけで、アオイは恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。


「なにしてるの! アオイ、お願いだから動いて! じゃないと――」


 味わったことのない、心をきゅうっとしめつけるような恐ろしさに涙ぐんで、母はガラガラ声で怒鳴る。


 その怒鳴り声をさえぎったのは、翼竜が大口をあけて放った鼓膜を突き刺す、金切り音のような鳴き声だった。

 鳴きやんでもなお、耳から入ってきた金切り音に似た翼竜の声はアオイの内臓をぶるぶるとふるわせる。

 まだ耳に残った鳴き声がおさまらないうちに、船の周りに集まった別の翼竜が同じ鳴き声をあげた。一頭が鳴けば、まるで会話でもしているようにもう一頭が鳴く。

 アオイには、大きな図体から発せられる甲高い鳴き声で大気がふるえるのが見えた気がした。それくらい、人が大口をあけて怒鳴り散らしたり、奇声を発するのとはケタが違う。


 ――――まるで、災害のようだった。


 いつの間にかズボンを尿で湿らせていたアオイの目の前で、まずひとり。翼竜のエサになった。

 ながい顔が、ぱっくり裂けていくように開かれたと思えば、一本一本が短刀によく似ている黄ばんだ牙で人をかみ砕く。

 肉も、骨も、たった二度の咀嚼で砕ききると、丸太のような首が「ごくんっ」とのみこんだ。


「カカラおばさん」


 母と同じ船の料理番で、付き合いもあったカカラ。その大らかな人となりは、アオイにとって優しい近所のおばさんだった。

 そんなカカラが、断末魔をあげる暇もなく食べられた。その姿は、まるで皿のうえにのった肉。

 彼女だけではない。船が皿、人が肉。翼竜にとってアオイたち人間はただの食用肉でしかないのだろう。


「キンジュくん」


 アオイはさっきまで一緒にいたキンジュの姿を探そうと、首を忙しく右往左往させた。

 彼の視界に飛びこんできたのは、牙同様に鋭利な爪をもつ翼竜の大きな足で踏みつけられているキンジュの姿。


「やめっ、やめろ! イヤだ! イヤだぁぁぁ!」


 死にものぐるいでキンジュは暴れるが、翼竜の足はビクともしない。

 まるでキンジュにイタズラされている時のアオイのように、みっともなく涙や鼻水を流した彼。その手が最後にのびたのは、アオイのほうだった。


「アオイ、助け――――」


 言い終える前に、キンジュの上半身が刃物のような牙でかみ砕かれ、さっきまでバタバタ暴れていた足は人形みたいに動かなくなる。


「見てはダメ! 逃げるのよ、アオイ!」


 腰の抜けたアオイを、やけど痕が痛々しくのこった両腕で抱きかかえ、母は随分と重たくなった息子の体を引きずった。

 うち、一頭の翼竜が船室のなかへ逃げようとするアオイと母に気づいて、甲高い鳴き声で人々の鼓膜をひっかく。


「母、さん?」


 顔をあげたアオイが見たのは、恐怖にふるえて大粒の涙を流しながらも懸命に自身を抱いて引きずる母の姿。


「死んじゃダメ、生きるの」


 恐怖をまぎらすためにかんだ唇から血をたらして、母はアオイに告げる。


「あなただけは、必ず死なせたりしないから」


 甲板のうえに降りたち、次から次へと人間をむさぼっていた翼竜が、粘りけのあるヨダレを口もとから滝のようにこぼして、収拾のつかなくなった食欲を親子にむけた。


 翼竜が一歩踏みだせば、体重で甲板の床が少し沈む。


「この、ままじゃ」


 力んで食いしばった歯と歯のあいだに、ほんの少しだけ巻きこまれた母の唇から血が流れた。

 自分たちよりも、はるかに大きい翼竜。キンジュがジタバタしたって、その足から逃れることはできなかった。

 そんな化け物につかまって、どうにかできるとも到底思えない。


「アオイ、船長さんの話を聞いたわね」

「船長さんの?」


 母の声が、小さくふるえている。


「居住区の奥に、したに降りる階段があるはずよ。神威結晶を見つけたら、お祈りするの」

「母さん、なにを……」


 あけっぱなしだった船室へつながる通路に、両腕で抱えたアオイを投げいれると、母は急いで戸を閉めた。


「母さん! 母さんっ!」

「私が稼げる時間は、少しだけ……だから」


 こわいのだろう。つらいのだろう。

 母の声はかぼそく、ガタガタとふるえてしまっていた。


「母さんも入ってきてよ! ねえ!」


 突如、真っ暗闇に包まれた視界のなかから戸を探しあて、アオイは何度もぶあつい木の戸を叩く。


「はやくいきなさいっ!」


 自分が喰われる時間を利用して、翼竜からアオイを逃がすとはいえ、人間ひとりを食べる時間なんてたかが知れていた。

 アオイがあけようとしても、母がもてる力を全てふりしぼって閉ざす戸はあかず、アオイは言葉という形をなさない叫び声をわんわん散らす。


「神さまは、必ず私たちを見てくださってる。だから、結晶にお祈りすれば、必ず――――」


 母の涙声は、断末魔へと豹変し、甲板中に響き渡った。

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