獣の国-飯と自然と開拓と、はじめての恋-

師走那珂

第1話 戦士になれなかったという、恥

 ぎりぎりと戸がひらいた音で、アオイは目をさました。

 もうすっかり夜は明けて、明るくなっているはずの時刻だというのに部屋のなかは暗く、部屋に入ってきた母の持つランタンだけが辺りを照らしだしている。


 ベッドがふたつに、簡易的なテーブルがひとつ。

 木箱のなかにでも住んでいるような、狭くて質素な部屋で目をさましたアオイは、薄っぺらい毛布をどけてベッドから起きあがった。


「アオイ、もう朝食できてるわよ」


 母が言った。


「……うん」


 襟もとが伸びきった、だらしない寝巻のうえからひとつ羽織って、石ころのように重たく硬くなった体でゆっくり立ちあがる。

 アオイは気まずそうに母から目を逸らすし、母も彼の心情を察しているのか、そのことを問いただそうとはしなかった。

 結局、それ以上の会話もないまま、母はくるりと踵を返して部屋を出る。

 部屋と同じように暗い廊下を歩くのにもランタンは必要で、アオイは小走りで母の背に追いつくと黙ってその後をついていった。


 ――ダメよ! 戦士になんて、なってはいけない!


 すぐに追い越すこともできてしまいそうなほど、小さな歩幅であるく母の背を眺めて、アオイは彼女にいわれたことを思い出していた。

 母はとても温厚かつ寛大な性格で、多少の無理を言っても呆れながら聞き分けてくれる。


 でも、アオイが「父さんのように、戦士になりたい」と口にしたときは、顔を真っ赤にして怒鳴りつけられた。

 船の料理番を任されている母は、時折、残りの食材を計算してため息をついたりしていたが、愛する一人息子のアオイに向けるのは、いつも決まって穏やかな笑顔だ。

 だから、その時もきっと戦士になることを許して、背中を押してくれると思っていたのに、母は怒った。

 その姿に多かれ少なかれ動揺はあったが、それでもアオイは折れなかった。


 ――聞き分けてよ、あなたまで失ったら、私はもう。


 何度キツく怒鳴りつけても折れないアオイに、ついに母は泣きついた。

 料理番として船で暮らすみんなに料理をふるまいながら、女手ひとつでアオイを十五のよわいまで育てた気丈な母が、ほろほろと涙を流して声を震えさせる様は衝撃的で、半年経った今でもアオイは鮮明にその姿を覚えている。


 それが、アオイにとってはじめての親子喧嘩だった。


 結局、母の制止を振り切って戦士になることを志したアオイに、戦士の資格がなかったことを母はどう思っているのだろう。

 適性を図るための訓練に出たきり、半年間帰ってこなかったアオイが戦士ではなく一般人として船に戻ってきた時、母はどんなことを考えて自分を強く抱きしめたのだろう。

 心に深く根差した疑問が、ついにアオイの口から声になることはなかった。それは、おそらく聞いてはいけないことだから。


 雲のうえに幾つもの空船を浮かべて暮らすアオイたちにとって、食料と水は容易く手に入るものではない。

 とても、とてもとても恐ろしい獣が徘徊する地上に降りて確保してこなくてはならないからだ。

 そのために戦士たちが、ふた月に一度だけ地上へ降りる。彼らは雲のうえで暮らす人々にとって、英雄や救世主と称えられるような存在であったが、一度地上に降りれば帰ってこられるのは五人に一人といったところだろう。

 人間なんて、あっという間に食べてしまう恐ろしい獣が徘徊する地上のことを、<獣の国>とアオイは教わった。


 ――雲のしたの世界は、とても恐ろしい場所だ。


 と、みんな口をそろえる。

 だから、たとえそれが英雄や救世主と呼ばれる誇らしい仕事だったとしても、母はアオイに「戦士になる」という道を選んでほしくはなかった。

 アオイの父は戦士だったが、獣の国で消息を絶った。それが珍しくもなんともないことである限り、母はきっとアオイが戦士になることを快く思わない。誰だってそうだ。

 多分、母は最後に見送った愛する夫の背中を、最愛の一人息子に重ねてしまっていたのだろう。


 戦士になると意気込んだクセに、おめおめと帰ってきたせいか。それとも、一般人としての帰郷を喜ぶような母の反応のせいか。

 親子関係に見えない溝のようなものが横たわり、昨晩帰ってきてからアオイと母のあいだにまともな会話はなかった。


 昔までは、こうして「朝食ができたよ」と母が起こしに来てから食事を用意している甲板に行くまでの道のりも、他愛ない話をしたものだと思い返す。

 ランタンの灯りだけが頼りだった廊下をしばらく歩くと、アオイたちの行く手から燦々と陽の光が差し込み、薄い茶色の壁と天井を鮮明に照らしだした。


 母は唇をすぼめ、ふぅっとやわらかな吐息でランタンのなかのロウソクを吹き消す。

 開け放たれた甲板へ続く戸から差し込む直線状の朝陽は、まるで光の道を作ってくれているようだった。

 誘われるように甲板へ出ていくと、アオイは痛いくらいに照りつける陽ざしに目を細める。

 手で陰をつくりながら、じんわり開いたアオイの視界に映ったのは、ひどく見慣れた光景。果てしなく続く空の青に、甲板中に張り巡らされたロープと、そこにかけられた洗濯物が風でひらひらとなびく。

 訓練では母船と呼ばれる空船団の中心に寝泊りしていたものだから、こうして半年前まで見慣れていたはずの光景も、アオイにとっては懐かしく思えた。


「アオイ、こっちこっち」


 そういってアオイを呼び込んだのは、隣の船室に住むキンジュ。

 綺麗に羅列されたテーブルの隅に座っていた彼は、船室から出てきたアオイを見つけると嬉々として手招きをした。

 一隻の船に居住している四十人前後の人たちが、こうして甲板で共に朝食、夕食を共にするのは、船団の習わしだ。


 雲のうえに浮かんだ全ての船が、こうして同じ船に住むご近所さんと一緒に食事をする。アオイにとっても、ここで暮らす全ての人たちにとっても、これは生まれた頃からずっとやっていることで、特筆して疑問を抱くようなことはなかった。


「座って待ってなさい、すぐ持っていってあげるから」

「え? ああ、うん」


 そういって、大鍋のほうへ向かう母を、アオイは不思議そうに見る。

 十の齢とおのよわいを超えたら、立派な大人と教えられるせいもあって、十の齢を迎えた生誕日からというもの「自分で食べるぶんは、自分でよそいなさい」と、母はアオイに教えた。

 教えの通りに、アオイはずっと自分のぶんは自分でよそっていたのだが、今日ばかりは母がよそってくれるらしい。

 母の言葉に甘えて、アオイは自分を手招きして呼び込むキンジュの隣に座った。


「久しぶり。聞いたよ、戦士になれなかったんだってな」

「まあ、うん」


 アオイにとって、隣に住むキンジュは七つ離れた兄のような存在だったから、今まで踏み込んだ話も散々してきたはずなのに、その言葉にだけは胸を引き裂かれるような辛辣さを感じた。

 多分、キンジュに悪気はない。彼もどちらかといえば、母と同じようにアオイが「戦士になりたい」というのに反対だったから、それをちゃんと言葉にしない母と違って真正面から本心をぶつけてきているだけなのだろう。


「そう落ち込むな、向いてなかったんだよ」


 キンジュもまた、アオイと同じくらいの齢には戦士を志したことがあるという。

 だが資源調達にでた戦士たちの生存率の低さや、家族の反対で志半ばに終わったという話だ。しかし船のなかに彼を笑うような人間はいない。

 怖くなって戦士の道を諦める若者は決して少なくなかったし、死ににいくような真似を身内が引き止めるのはよく聞く話。だから、彼を臆病者と嘲笑うのは戦士会に入ることができた戦士たちだけだ。


 それは、アオイにだっていえること。


「ああいうのは、もっと強い人たちに任せてればいい」


 むしろキンジュは、口にこそださないが訓練に参加したことを、すごいとすら思っていた。

 訓練が非常に厳しいというのは有名な話だし、キンジュが知っている拳骨ひとつでわんわん泣いていた泣き虫のアオイからは、とても想像できない勇敢な姿だ。


「だけど、俺は父さんの子なのに、父さんと同じ戦士になれなかった」


 言えば言うほど、アオイの心は沈んでいく一方で、ここまで戦士になれなかったことを悔いているというのは、キンジュにも想像できなかった。

 朝っぱらから失意に暮れるアオイに、なんと言葉をかけたらいいのか。キンジュが、遠い目をして言葉を選んでいたところ、


「いいのよ、それで」


 アオイの前に、木の器に沢山盛られた粥がドンと鈍い音をたてておかれた。


「あなたは、あの人とは違う。だから無理に戦士になんて、ならなくていいのよ」


 そう言うと、母は顔をむっとしかめる。


 戦士になりたいと口喧嘩した時も、母はアオイに同じようなことをいっていた。アオイが、父親の亡霊に憑かれているようにでも見えたのだろう。


 家を飛びだす前ならまだしも、戦士の資格を得ることなくおめおめと帰ってきた身のアオイは、なんの言葉も返せず、悔しそうに口をつぐんで右手首につけていた黄色と赤のミサンガを握りしめた。


「戦士であるのを誇ることはあっても、戦士でないのを恥じることなんてないの」


 くしゃくしゃっとアオイの頭をなでて、頬に小さなえくぼをつくる母の右手首にも、黄色と赤のミサンガが括られてあった。

 黄色は命をはぐくむ麦。赤色は不死の鳥。昔から伝わる、まじないのようなものだ。

 生存率の低い戦士という仕事についた人と、その家族は、<長寿のまじない>をこめて黄色と赤のミサンガを人数分つくる。


「やめてよ、もう子供じゃないんだから」


 嫌そうに頭にのっかった、やけど傷が痛々しく残る手をアオイがはらうと、母はケラケラと楽しそうに笑ってみせた。

 アオイが半年ぶりに船に帰ってきてから、母がはじめて見せた笑みだった。


 ――戦士でないのを恥じることなんてない。と言った母には、おそらくアオイが訓練でどんな目にあったのか分かっていたのだろう。

 皆が戦士となっていく中で、アオイは資格を取りあげられた。戦士になる齢の近い者たちが、アオイを嘲笑う姿なんて、母でなくても容易に想像できる。

 それに加えて、別の船の子供たちにイジめられて、泣きながら帰ってくる日が続くような子だ。

 自分がついていなかった半年間、どれだけアオイが枕を濡らしたのか、彼女が心配しない日はなかった。


「あらそう、ごめんなさいね」


 不機嫌そうに木の匙で粥を食べるアオイを見ながら、まだクスクスと嬉しい笑みがおさまらない母は、踵を返して大鍋のほうへ戻っていく。


「ほどほどにしとけよ? アーシャさん、毎日アオイは大丈夫かしらって言ってたらしいぜ」

「母さんが……」


 よく変な嘘をついてアオイをだまし、ひとり下品に笑うような遊びをしていたキンジュだったが、根は優しい青年。こんな心ない嘘をつくような人間でないのは、アオイもよく知っていた。


 アオイももう十五の齢。戦士になった者たちのなかには同じ齢もいたし、アオイより生まれが遅い子だっていたのだ。

 なのにアオイとくれば、気をぬけば流れ落ちてしまいそうになる涙と鼻水をずるずるとすすり、毎晩なにひとつ器用にできない自分を嘆いて何度枕を濡らしたか。

 そういうところをしっかり見抜かれているあたり、アオイは母に感心せざるを得なかった。


 とはいえ、アオイも訓練の全てが嫌だったわけではなく、未来の船団を担う人材を探す場というのは、喜ばしいこともある。

 粥を食べるアオイが甲板を見渡せば、懐かしい顔ぶれが一様にアオイと木の器によそった粥を食べている。「粥だけでは腹がすく」と泣きだす子供に、小さな干し肉の切れはしを噛ませている親子だっていた。

 しかし、訓練中はアオイたち見習いに毎日、猪肉や鹿肉がふるわれたものだ。


「なぁおい、訓練ってどんなことしたんだ? 相当厳しいんだろ?」

「ダメだよ、話しちゃいけないって」


 キンジュに向けられた興味に、アオイは首をふった。

 戦士会は他に言いふらしてはならないことが多く、訓練の内容もそのひとつ。

 だから訓練を受けた戦士見習いたちは、口すっぱく「親にも兄弟にも話してはならない」という。


「ダメかぁ」


 志半ばに折れただけに、キンジュは自分がもし戦士になる道を選んでいたら、どんなことをしていたのか気になったのだろう。

 落胆の色を顔ににじませながら、大きくため息をついた。

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