第3話 桐子の憂鬱

 ぐっすりと眠って、翌朝は10時ぐらいまで目が覚めなかった。そんなに遅くまで眠れたのは、桐子には全く記憶がないほどの遠い昔のことのように思われた。スウェット姿のままで桐子は一階と下りていくと、全く人の気配がなかった。別にそんなことは気にせずに洗面所で顔を洗うと、自分用のタオルで顔を拭いて歯を磨いた。口を漱いで再びタオルで口を拭うと、ダイニングへとゆっくりと歩いて行った。テーブルの上には朝食と昼食の用意がされており、母親の書いたメモが添えてあった。

 『デパートに出掛けてきます。帰りは夕方になるからよろしくね。』

そうメモには書いてあった。桐子の母親はデパートに出掛けるのが好きで、こんな風に買い物に出掛けることもしょっちゅうだった。父親の方はどこに行っているのかは知らなかったが、どうせまたゴルフかなんかで出掛けているのだろうと思っていた。そのために全く気にもしなかったし、もともと父親のことなどどうでもよかった。

 

 桐子は母親が用意してくれていたサンドイッチが載っている皿のラップを外すと、キッチンに行って自分で紅茶をカップに入れてダイニングに戻った。テーブルの上にカップを置くと、何となく伸びがしてみたくなって頭の上に両手を絡ませて伸びをしてみた。そして2~3回ゆっくりと深呼吸をしてみた。

 それから椅子に座ると、紅茶をストレートで飲んでみた。別にダイエットをしているわけではなかったが、桐子は紅茶はストレートで飲むのが好きだった。今日はフォートナム&メイソンのイングリッシュブレックファストだった。朝に飲むのは大抵これかオレンジペコと決めていた。桐子は昨日の夕食からかなりの時間が経過していたので、かなり空腹を感じていた。それで母親の作ったサンドイッチがいつもよりもずっと美味しく感じられた。

 

 昨日からの雨も止み、本当に静かな朝だった。桐子はいつもなら見もしないテレビをつけるところだったが、今日はこのままでブランチを楽しみたい気分だったので、そのままで食事をとった。久し振りに落ち着いた感じだった。食べ終わると、桐子は3杯目の紅茶を飲みながら気だるい日曜日の時間を何も考えずにしばらくの間ボーッとして過ごしていた。

 

 そのうちに急に近所を散歩でもしたい気持ちに捕らわれた。そこで2階の自分の部屋に戻ると、スウェットからカジュアルなモスグリーンのカルバン・クラインのTシャツとブルーのキュロットスカートに着替えた。そしてドレッサーで髪の毛を整えると、ハロッズの小さなバッグとスマホを持って部屋を出た。

 家の戸締りをした後で、玄関のカギをして家から出て行った。桐子は本来インドア志向なので、こんなことをするのはとても珍しかった。またたとえ少しでもそんな気になったとしても、実際にこうして行動に移して戸外に出ることなどは全くと言っていいほどなかった。

 

 外は太陽が少し強く照りつけていた。久し振りに太陽の日差しを浴びるような気がしていた。日差しが桐子の素肌にしみ込んでいくように感じられた。普段学校に通っているときも、当然太陽の日差しはあるはずなのに、そんなことは一度も感じたことはなかった。いつも見慣れた近所の風景も、今日は全く違ったものに感じられた。

 というよりも、むしろ逆に普段はただ通り過ぎるだけで、自分は何も見ていなかったと言った方が正しいのかもしれなかった。実際毎日通り過ぎている街路樹の鮮やかな葉の緑にも、今日初めて気付いたような気がしていた。近所の家の庭や、道路に咲いている可憐な花々にも今まで全然気付いていなかったようだった。

 桐子が心の奥底から求めているものは、もしかしたら机やベッドの中のような家の中にはなくて、外の世界にあるのかもしれないと思った。何となくスキップでもしたいような気持ちになった。実際には羞恥心のせいでそれを行うことをためらわせてはいたが・・・・・・。それでも気分は相当晴れやかなものになっていた。

 それから桐子は家から少し離れた場所にある公園へと歩いて行った。桐子の近くを通り過ぎる人々も、日曜日のせいか何となく楽しげであった。桐子は相当久しぶりにこの公園に来た。通学路からは歩いてもほんの少しの距離しかない場所だったが、もう数年来ていない気がしていた。小学生の頃のことだろうか、兄とこの公園で一日中遊び回った記憶が突然蘇ってきた。公園の中の遊具は、その頃とはもう大分変わってしまっていたが、それでも何となく面影が残っているような気がしていた。石のベンチに腰を下ろすと、桐子はしばらくの間子供たちが無邪気に遊ぶのを眺めていた。

 無邪気に大声を出して走り回ったり、大笑いをしたりしている子供たちの姿を見ていると、自分の遠い昔の姿に重ねられた。あの頃の自分は、この子たちと同じように無邪気に何の悩みもなく、毎日はしゃぎ回っていた。

 どうしてあの頃のままでいられなかったのだろう。こんなに重い悩みもなく、孤独も悲しみもなかったあの頃が妙に懐かしかった。

 あのままでいられたら、どんなに毎日が楽しいことだろう。人間は歳をとるとともに、少しずつ利口になり知識が増えていく一方で、悲しみや苦しみに気が付き、重荷を背負っていくことになるのか。だとしたら、ピーターパンのようにずっと子供のままでいたかった。

 あの頃遊んでいた友人たちは今はどうしているのだろうか。時々小学校の同級生と顔を合わせても、互いに気が付かないか知らない振りをしているのが関の山であった。もしかしたら向こうは自分のことに本当に気付いていないのかもしれないが。

 この子たちもあと十年ぐらいして自分と同じ位の歳になると、いやでもそういった思いをするのだろう。まず間違えなく一度は受験戦争に巻き込まれるだろうし、その後の人生はみんな全く違った道を進むことになるであろう。その中には、桐子と同じ苦しみを味わうものが出てくるかもしれない。

 そう思うと、桐子はいたたまれなかった。自分が今どんなに苦しいかが十分すぎるほどわかっていたので、これ以上こんな思いをする人間を増やしたくはなかった。だからたとえ桐子がこの先生き続けて誰かと結婚したとしても、子供だけは絶対に欲しくなかった。仕事を一生続けるつもりもなかったし、専業主婦が嫌なわけでもなかったが、子供だけは生みたくなかった。

 こんなに苦しい青春時代を過ごす可能性が少しでもあるのだとしたら、子供はいらないと思っていた。公園で無邪気に遊ぶ子供たちを見ていて、その考えはより強固なものになっていった。少なくとも自分の血を引くのだとしたら、遺伝的にそうなる可能性は高いと思った。だから子供好きな男性とは絶対に結婚できないと考えていた。恐らく誠一のようなタイプの男性は、子供好きでマイホームパパになると感じていた。だからああいうタイプと付き合うとしたなら、一時の退屈しのぎでしかない。

 

 桐子は自分が恋愛にのめり込むタイプでないことも分かっていた。だから結婚するとしたら、おおよそ打算的なタイプの結婚をすることになるであろうと思っていた。命懸けの恋愛に憧れがないことはなかったが、こんな自分にはできそうもないことはわかっていた。恋愛に命を懸けられるのなら、きっと自殺する勇気もあるだろうし、この苦しみに打ち勝つだけの精神力も持っているはずだからだ。

 

 そんなことを考えながら桐子はベンチから腰を上げると、相変わらずはしゃいでいる子供たちの横を通り抜けて歩いて行った。公園の木々の葉は先ほど見た街路樹よりもずっと鮮やかな緑色をしていた。緑色が人間にとっていい色であるということは、何となく桐子にも感じられた。こんな桐子の気持ちでさえも少しだけ穏やかにしてくれたのだから。

 それが桐子には嬉しかった。これまで部屋の中で考えていても、苦しくなることはあったにせよ、楽になることは決してありはしなかったので、ほんの少しでも楽な気持ちにさせてくれた自然がありがたかった。

 そうして桐子は、自分はこんな日本の東京のような街ではなく、緑が多い南の島にでも生まれてくるべきだったのかもしれないとも思った。だとしたらきっとどんなにか幸せであっただろうか。美しい海、自然の恵み、助け合う生活、素朴な暮らし・・・・・・そういったものが桐子にはぴったり合うように思えていた。

 

 桐子は急に立ち止まって空を見上げた。空には桐子の嫌いな太陽が燦燦と輝いていた。南の島に行けば、これがもっと何倍もの強さで照りつけてくると思った。だがもし日本に帰ることなく、ずっとそこで生活していくのだったならば、この太陽さえも素晴らしく思えてくるのかもしれないと思った。

 桐子はふと、ヘミングウェイの『海流の中の島々』という小説を思い出した。桐子は女であったが、男のロマンを感じさせるヘミングウェイの小説が大好きだった。その中でもとりわけこの作品には、南の島や南の海の魅力が溢れており、最高に好きな作品だった。彼の小説につきものの悲劇的要素は含まれてはいたものの、それを凌駕する南の島の素晴らしい世界が展開されているのだった。

 桐子は美しい海を思い描きながら公園を後にした。そして近くの図書館へと歩いて行った。急に南の島の写真集が見たいという衝動に駆られたのだった。図書館へは時々来ることがあったので、勝手は十分知っていた。そして美術・写真のコーナーへ行き、お目当ての写真集を3冊ほど持って空いている座席に座ってページをめくっていった。

 タヒチ、フィジー、モルジブ、セーシェル、バリ、モーリシャス、サモア、トンガ、バヌアツ、セントマーチン、プエルトリコ、キューバ、ジャマイカ、マジュロ・・・・・・世界中の美しい島、ビーチ、そして海の中・・・・・・そういったものの美しい写真が掲載されていた。桐子は無性にそういうところに行ってみたくなった。こんな美しい島に行けば、今思い悩んでいるようなことはすべて解消されるに違いないと思った。ただし東京に帰らなくていいのならばという条件付きではあるが・・・・・・。

 桐子は時計を見た。もう既に午後4時を回っていた。夢のような世界からどうしようもない現実に連れ戻されると、仕方なく写真集を元の場所に戻すと、図書館を出て家路についた。

 そしてつい数時間前に感じていた街路樹の木々の葉の美しさも、今やすでに色褪せた緑色にしか桐子の目には映らなかった。


 家に帰ると、まっすぐに自分の部屋に向かった。母親は帰宅していて、桐子にお帰りと言っていたようだった。桐子はそれに対して何も答えずに階段を上っていった。祭りの後の寂しさのようなものが桐子の心の中にはあった。部屋のドアを閉じると、スマートスピーカーでボサノバを流し始めた。

 ほんの一瞬の間だけでも晴れやかな気分になった日曜の午後の締めくくりとしては、ボサノバが相応しいと思ったからだった。桐子はスウェットにはまだ着替えずに、出掛けた時のままの格好でベッドに横になりながら音楽に聴き入っていた。

 

 ふと涙が込み上げてきた。そうして桐子の頬をつたってベッドカバーの上に流れ落ちていった。別に悲しい気持ちでもなかったし、寂しくもなかった。ましてやどこかが痛いというようなことでもなかった。ただ心の中がどうしようもなく空虚だった。今日の起きたことがまるで幻のように感じられた。


 ひとしきり泣いた後で、桐子は起き上がって自分の机に向かって勉強を始めた。面白くはなかったが、現実の世界からどうしても抜け出すことのできない桐子にとっては、そうするほかはなかったのだ。ただBGMとしてボサノバは流し続けていた。そうでもしないと、余りにも自分のことが惨めに思えてくるからだった。


 その日の夕食は、久し振りに父親も揃って3人での食事となった。そういう時はいつもそうだが、桐子は父親とはほとんど口をきかなかった。父親の方も何も話しかけなかった。勿論桐子は話すことなど何もなかったので、自分から話しかけることなど絶対になかった。誰も見もしないテレビをつけて、わざと大きなボリュームにして会話のない沈黙をごまかしていた。だがそれが逆に会話のない食事について、3人それぞれにより一層意識させるものとなっていた。

 しかしそんなことは桐子にとってはむしろ些細なことであって、今抱えている自分の苦悩の方がずっと大きくて、本当にそれ以外のことはどうでもよかった。ただ早く食事を終えて、また自分の部屋に閉じこもりたかった。そうすることはまた苦悩を呼び覚ますことにもなるのだが、今晩の夕食のテーブルは自分がいるべき場所ではないと感じていた。

 桐子は自分が使用した食器を食器洗浄機の中に並べて入れると、さっさと自分の部屋へと戻って行った。食事のすぐ後に勉強するのは、消化に良くないので試験前だけにしていた。そこでスマートスピーカーで今井美樹の曲をかけながら兄からのお下がりでもらった大きな地球儀を手元に持ってきた。そして南の島や南の国々の場所を確かめながら、遠い空と海に思いを馳せていた。

 何だか自分には決して届かないような世界にも感じられたが、それでも想像している間は楽しかった。何もかも捨てて、そういったところに行ってみたいと思った。だが現実は高校2年の自分にそんなことなどできるはずなく、ただ今までと全く変わらない生活を送ることだけだった。

 それから桐子は再び自分の机に向かって勉強を始めた。結構集中しながら勉強はしていたが、時々ふと手を休めて目を閉じて、いつものように自分の苦しみの中に身を投じるのだった。そして休憩時間にはベッドに横たわって天井を見上げながら、自分に関する色々なことを考えるのだった。

 桐子は日曜の夜は、普段よりも比較的早く寝ることを習慣としていた。そのため10時には勉強を切り上げて風呂に入り、ベッドの中に入るのだった。今日は久し振りに散歩をしたので何となく早く寝付けそうな予感がしていた。

 しかしベッドの中に入ると、いつもと変わらずに明日からまた始まる一週間のことを考えてうんざりしていた。毎週毎週変わらない同じ日々・・・・・・。桐子はたまらない程苦しかった。特に今日はほんの一瞬でも安らぎに似たような感情を招くことができたので、いつもよりも一層辛かった。桐子は例え全てを失ったとしても、この変化のない生活から抜け出したかった。

 決められた毎日、決められたルール、たった一行で書けそうな自分の将来・・・・・・そういったもの全てが桐子の胸を掻きむしるくらいの嫌悪感を抱かせた。今日もまたなかなか眠れそうもないということに気付くと、桐子は起き上がって部屋の電気をつけた。

 そして自分の机に座ると、ぼんやりと頬杖えを突きながら机の引き出しを開けてみた。その引き出しの奥には、兄がずっと前にスペインから送ってくれた柄に象眼細工の美しい装飾が施してある刃渡り15センチくらいのナイフが入っていた。

 桐子は眠れない時には、よくこのナイフをじっと見つめているのだった。すると不思議に心が落ち着いてきた。切れ味は恐らく抜群であることはわかっていた。なぜなら桐子は時々そのナイフで自分の指を少しだけ刺したり、切ったりしたことがあったからだった。

 本当はこのナイフで一思いに自分の手首を切ったり、頸動脈を切ったりすることができればいいのだけれど、そんなことは到底できやしなかった。ただ自殺は図れないにせよ、いつでもそのための道具が自分の近くに置いてあるというのは、桐子にとってとても精神的に楽な気持ちにさせてくれていた。

 毎日のように、ネットニュースには中学生や高校生の自殺のニュースが小さく載っているが、理由は何にせよそうしたことができる彼らの勇気は桐子にはなかった。死ぬことは怖くはなかったが、自分で自分を殺すことはできなかった。誰かほかの人間が自分のことを殺してくれればそれは大歓迎なのだが、自分が殺される瞬間は恐らく落ち着いて見ることができないだろうと思っていた。気が付かないうちにふいに殺されるのだとしたら、それがよかった。特に即死なら猶更結構だった。

  

 桐子はそのナイフの冷たい刃をゆっくりと柄の部分から先まで触ると、心が落ち着いていくことに気が付いた。そしてそのナイフを元のあった場所に戻すと、引き出しを閉めて電気を消して再びベッドの中に入っていった。


 翌朝はよく晴れた朝だった。桐子は部屋の窓から太陽を見るとため息をつくとともに、落ち込んでいく自分に気が付いた。出掛ける支度を終えて、一階に下りていくと父親が挨拶してきたので反射的にそれに応えた。洗顔ソープで顔をよく洗って歯を磨いてまた先週と同じ一日が始まるのだった。

 昨日は少し輝いて見えた太陽も、今日は桐子の嫌いな存在に戻っていた。そしてまた昨日通った時には鮮やかな緑色に少し感激を覚えた街路樹の葉を見ても、今日は何の感情も湧きおこらなかった。

 桐子は昨日起こったことは全て幻のように感じていた。そうしていつもの満員電車に押し込まれ、下北沢まで行って同級生たちと挨拶を交わしたり、馬鹿話をしたりして授業が始まり、機械人間に戻っていくのだった。そして放課後になり、いつものように同じ喫茶店に集まって同じ友人たちと取り留めのないことを話すのだった。

 予想はしていたが、今日の話題は桐子と誠一の結果だった。千穂以外の他の友人たちは今誰とも付き合っている相手がいなかったので、興味津々で千穂の話を聞いていた。両親が厳しくてそういったことからは全く離されている子もいれば、自分に自信がなくて男の子と付き合う勇気がない子など、どちらにしても興味はあってもどうにもならないので他の人の話だけで満足しているのだった。

 桐子は土曜日は確かに誠一に興味を惹かれていたが、2日経った今日の時点ではもうどうでもいいような気分になっていた。だからほかの友人たちにいろいと聞かれても、気のない返事しかしなかった。これには千穂も不思議に思っていたが、とりあえずデートのセッティングまでこぎつけたので、自分としての役割は果たしていると思って満足していた。実際のところ、桐子は次の日曜日のデートが面倒になってきていた。かといって誠一に断りの連絡をすることにもできず、まあ仕方なく会うしかないものと考えていた。


 そして桐子は小田急線でいつもの居眠りをして、相模大野でもう一人の自分に起こされた。今日は家に直行する前に本屋に立ち寄ろうという気持ちが突然湧き起こった。そこで本屋の中に入ってファッション雑誌を軽く立ち読みして、それから参考書がたくさん置いてあるコーナーに行き、良さそうな問題集があるかどうか何冊か手に取ってみた。

 そのコーナーで真剣に参考書なんかを探している連中は、誰もが勉強命といった感じの人間で桐子は少し呆れながら彼らのことを見つめていた。偏差値教育の賜物なのだろうか、彼らは桐子の視線など少しも気にせずに自分の求めている本を探しているようだった。

 桐子はそこから離れて、今度はよくいく文庫本が並べてあるコーナーへ行った。ぐるりと周りを見回して、そろそろ新しい本を何冊か仕入れようと考えていた。大体買おうと思っている本は決まってはいた。まずC・ブロンテの『ジェーン・エア』にしようと考えていた。それからヘッセの『デミアン』も読もうと思っていた。運よく両方とも置いてあったので、桐子はそれを手に取った。そしてレジの方へ向かおうとした瞬間、昨日思い出した大好きなヘミングウェイの『海流の中の島々』の本が目に留まった。

 突然桐子の目の前に、燦燦と照りつける太陽と、どこまでも広がる青い空、白く大きな入道雲、白砂のビーチと青く透き通った海、白い水しぶきを上げながら沖を滑るように進んでいくディンギー・・・・・・そういったものが現れてきた。

 そこで桐子は旅行ガイドが置いてあるコーナーへと歩いて行った。そこには『地球の歩き方』を始めとしてたくさんの旅行ガイドや地図などが置いてあった。桐子は昨日図書館で見た島々や国のことを思い出した。すると何故だか急に早く家に帰りたいという衝動に駆られた。

 

 桐子の兄は今はスペインに住んでいるが、昔から外国への憧れは人一倍強くて世界中の色々な雑誌や本を買い求めて読み漁っていた。兄は桐子とは違って思い込みが激しくて、一度やろうと思ったことは大抵やり遂げてしまう性格だった。またそれだけの才能も持ち合わせているように桐子には思えていた。桐子が知っている限りで、兄は英語・フランス語・スペイン語・ドイツ語・ポルトガル語はほとんど不自由なく話すことができたし、ロシア語や中国語もかなり話すことができていた。また芸術にも造詣が深く、建築は勿論、美術・音楽・文学といったものについてもかなりの知識を有していた。それだけでなく数学や自然科学のような理系科目の成績も抜群で、小学校の時から勉強では一番をほかの人に譲ったことがなかった。

 桐子の兄は立身出世や経済的な成功というよりも、自分がいかに自分の人生というものを生き抜くかということを、かなり小さいころから考えていたようだった。それは最近になって桐子が兄を思い出す時に、思い当たる節がかなりあったからだった。東大合格も絶対確実だと言われていたにもかかわらず、両親や高校の先生たちの制止も振り切って日本の大学には進学せずに一人でスペインへと渡ってしまったのだった。

 桐子にとって兄は、精神的にとても大きな存在であった。近付くことさえできないようなとても大きな存在であった。もう大分長い間会っていないので、顔も変わってしまったかもしれないが、かなりのハンサムであったことは覚えていた。

 桐子は玄関を開けて飛び込むように家の中に入ると、制服のままで兄の部屋の中に入って行った。母親が時々掃除をしてはいたが、主を失った部屋の中は何となく生気が感じられなかった。桐子は兄の本を本棚からどんどん取り出すと、フローリングの床に座りながら次々に本を開いていった。所々に兄が付けたと思われる色褪せたラインマーカーの線やボールペンで囲ったりしたところが目に留まった。

 兄も桐子と同じように南の島に憧れたのであろうか。南の島の写真集もかなりあった。ダイバーが撮った水中写真や空中からの写真などは、桐子の疲れた心に息を吹き込んでくれるような気がしていた。

 ただ兄は南の島にだけ興味を持っていた訳ではなかった。南極やカナダ、アラスカ、シベリア、北極海の島々の写真集や本も大分たくさんあった。そのほとんどは桐子が聞いたことがないようなところばかりだった。だが全てが凍り付いているような、そういった写真にも桐子は不思議な興味が湧きおこってきた。


 「あら、こんなところにいたの。さっきからずっと呼んでいたのに。」急に母親の声がした。桐子は我に返って、びっくりして後ろを振り返った。

 「お兄ちゃんからさっき連絡が来たわよ。来年はあなたが受験で忙しいだろうから、今年スペインに遊びに来いって言ってたわよ。」母親はそう言った。

 「え!?」桐子は聞き返した。

 「夏休みにスペインに来いってお兄ちゃんから言って来たのよ。」母親は言った。

 「本当?」桐子は信じられないことが起きたようで、まだ半信半疑であった。

 「本当よ。私もお兄ちゃんがちゃんと暮らしているか心配だったから、その様子を見がてらに行ってらっしゃい。その代わり向こうでもちゃんと勉強するのよ。」母親は笑顔で桐子にそう言った。

 「本当に行っていいの?」桐子は嬉しさでもう爆発寸前だった。

 「いいわよ。お金のことは大丈夫だから。」母親は桐子の喜ぶ顔を本当に久し振りに見たと思いながらそう言った。

 「ありがとう、ママ。でもパパは大丈夫?」桐子は心配そうにそう言った。

 「大丈夫よ。ママから言っておくわ。」母親はそう言うと部屋から出て行った。

 

 桐子は突然信じられないほどの幸せが舞い込んできたことに感謝した。


 スペイン、スペイン、スペイン・・・・・・何度も心の中で叫んでも色褪せることはなかった。

 そのためだったら、今の下らない生活も何もかも我慢しよう。それがほんの一瞬の出来事だとしても、自分の人生の何かが変わる・・・・・・そんな予感が桐子の心をとらえていた。

 

 そうだ。何かが変わる。きっと何かが見つかる。それは絶対に間違いない。


 桐子は死の淵から生還した人のように、信じられない奇跡が起こったことに感動していた。きっと今の苦悩もそこで癒され、もしかしたら何か光明が見つかるかもしれない。

 桐子は兄の本を元にあった場所に戻すと、自分の部屋へ入った。そして制服からスウェットに着替えると、スマートスピーカーでサルサミュージックをボリュームをかなり大きくしてかけたのだった。ベッドに横たわると、未だに信じられない気持ちでいっぱいであった。

 夜に見ている夢の続きなのだろうかとも思った。そこで自分の頬や腕を少しつねってみて、夢ではないことを確認した。それでもまだやはり信じられなかった。

 だが部屋に流れるサルサの賑やかな音楽が自分をラテンの世界へといざなってくれた。しばらくの間天井をじっと見つめていた。


 ピカソの国スペイン、ガウディの国スペイン、情熱の国スペイン、カルメンの国スペイン、太陽の国スペイン、そしてヘミングウェイの作品の舞台のスペイン・・・・・・どの形容詞も桐子にとっては嬉しかった。そこにもう少ししたら行くことができるのだ。自分が毎日つまらない計画を立てようとするよりも、兄の方がずっとうまく計画を立ててくれた。

 

 そうだ。

 明日の学校の帰りにあの本屋に寄って旅行ガイドを買い漁ろう。それからスペイン語の勉強もしよう。向こうに行って友達でもできたらいいしね。それに折角行くんだったら、ちゃんとスペイン語で意思疎通を図りたいしね。

 ああ、もうワクワクするなあ。明日になったらみんなにも自慢しよう。


 桐子はその日はずっとウキウキしていた。

 このまま死んだように生き続けるのは、もう耐えられなかった。本当に心の中の琴線が切れるかのように、自分がどうにかなってしまうようなそんな直前のような状態だった。ただ自分が限界と考えられるうちは本当の限界ではないのかもしれない。だが確かに切れてしまう直前であるということは、やはり何となく直観で感じていた。

 慢性的な寝不足、回答の出ないような疑問、苛まされる孤独感、どうしようもない悲しみ、生きていくことへの恐怖・・・・・・それら全てが自分自身を肉体的そして精神的に極限状態まで追い込んでいた。それでいて普段通りの自分を演じ続けていくことは、さらに桐子を精神的に追い詰めていた。

 

 確かに普通の状態ならば、自殺だとか家出だとか、そういったことをすることはあり得ないと断定できたが、ある一線を越えてしまった時、それはもう桐子自身にもどうなるかはわからなかった。

 恐らく今回の兄からの救いの連絡が来なければ、そう近くない将来にその一線を越えてしまうのではないかと思えていた。そう、自分の引き出しの奥にしまっている、あの美しいナイフによって、自分自身を切り裂くということも・・・・・・。

 

 兄からの連絡は、もしかしたらそうした桐子の心を察してくれたからなのかもしれない。兄も桐子と同じくらいの年齢の頃に、そういったことで思い悩んでいたのかもしれない。ただ兄は精神的にかなり早熟だったので、中学生ぐらいの頃にそういった悩みを抱いていたこともあり得た。

 だがどちらにしても兄からの救いはまるで神からの救いのように、桐子を暗黒の深淵から救い出してくれた。それが夏休みだけの一過性のものに終わるのか、それとも完全に立ち直っていくのかは、桐子が自分自身でスペイン旅行を通して求めていくことになるのだ。兄はそのきっかけを作ってくれたのだ。


 その日は勉強もとてもはかどった。入浴も気持ちがよかった。そして逆に興奮で眠れないのではないかと心配していたが、ベッドの中に入るとすぐに寝入ってしまった。あまりにすっきりとぐっすり寝入ってしまったので、夢を見たのかも全く分からなかった。


 桐子は翌朝すっきりと目覚めた。

 またいつもと同じ一日が始まるのだったが、心の中は今まで感じたことがないような不思議な感情に支配されていた。

 それは喜びと期待と、そして不安が入り混じった何とも形容しがたい憂鬱だった。


(完)

 

 


 

 


 

 

 

 

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桐子の憂鬱 西大寺龍 @tacky1

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