第2話 桐子の願い
桐子はそうしてようやく空が白み始める明け方頃に浅い眠りにつくのだった。そしてわずかな時間の睡眠で昨日と同じように学校へ出掛ける支度をするのだった。
無味乾燥な毎日・・・同じように繰り返される日々・・・・・・。それが桐子には辛かった。抜け出したかった。しかしそれは決してできはしなかった。目に見えない蜘蛛の巣のようなものに捕らわれて、もがき続けているだけだった。誰かに助けてほしかった。でもそれはあり得ない夢だった。それならばいっそのこと、自分のことを誰かが寝ている間に殺してくれはしないかと願ったりもした。
だが桐子は未だに生きていた。
果たしてそれが生きているといえるのかはわからないが、心臓の鼓動は続いていて脳は動いていた。
そして誰にも何も打ち明けずに学校へと向かうのだった。いつもと同じ服、いつもと同じ駅、いつもと同じ満員電車・・・・・・そういったすべてが変化のない生活の中に埋没していった。サラリーマンやOLや学生の中に押し込まれ、下北沢までの時間を耐えながら、言いようのない肉体的重圧に押しつぶされながら、学校へと向かうのだった。
そうして電車からを降りて駅から学校へと向かう道のりでは、大抵誰か知っている友人に会うのだった。
お決まりの朝の挨拶、変わり映えのしないいつもの話題・・・桐子は内心うんざりしながらも、いつもと変わりのない態度で誰とでも接していた。教室の中に入ってもそれは変わらなかった。授業の始まるまでのホームルームの時間の間は、友人と話しながらも時々ぼうっとしながら特にこれといったことも考えずにいた。ただぼんやりと校庭を眺めたり、担任やクラス委員が時々書いているホワイトボードの文字をただ意味もなく見つめていた。そして誰にも聞こえないようにため息を時折漏らすのだった。
授業の方がまだましだった。教師にもよるが、いずれにせよ一種の緊張感が空間を支配していたために、自分の苦しみを少しでも忘れさせてくれた。またノートも一応取っていたし、時折質問で指されたりもしたので、それなりに自分の苦悩を一時的にでも忘れさせる役には立っていた。
桐子が好きな科目というのはどちらかというと文科系の科目だった。勿論一番好きなのは国語系だった。現代国語だけでなく、古文や漢文も好きだった。現代国語は別格とすると、桐子は漢詩がお気に入りだった。特に杜甫の世の中を嘆いた悲観的な漢詩が好きだった。自分がそれほど世の中をはかなんでいるとは思わなかったが、妙に共感させられ感動してしまうのだった。何百年も昔の詩人が書いたとはとても思えないほど素晴らしいと思った。
それに比べて理数系の科目はロマンが全く感じられなかった。確かに明快な答えしかないところはわかりやすかったが、それだけでは桐子の心を引き付けることはできなかった。
とは言っても理数系の科目も勉強はしていたので、成績は結構いい方であった。テストはいつも無難にこなしていたし、恐らく無難にこなすと思っていた。ただそれが一体自分自身にとって何の意味があるのかは全く分からなかった。
それどころか、今自分が行っているすべての勉強に何か意味があるのか疑問を感じていた。そんなことには自分以外の誰も気付いていないような気がした。こうして教室の中にいるクラスの全員が意思を持たない人形のように思えていた。そうして恐ろしい感情に時々襲われるのだった。
だがいつものように授業は繰り返され、桐子も人形の一員となってノートをとったり、練習問題などに頭を惑わされるのだった。そうした毎日がずっと繰り返されることがやはり桐子には恐ろしかった。だが自分でもそこから逃げ出すことはできないことが分かっていた。それがとても辛く苦しかった。
放課後になり、ようやく授業から解放されることは、桐子にとっては再び悪夢のような平凡な日常生活へと引き戻されることであった。決して授業は面白くはなかったが、迷宮の悪夢に引き戻されるよりはずっとましだった。ただ現実はそれが繰り返されるのであった。
友人たちと連れ立ってまたいつもの喫茶店に立ち寄ると、他愛のない話をし続けるのだった。ただ今日は少しいつもとは様子が違っていた。千穂が昨日話していた知り合いの男子高校生を紹介してくれるという話が桐子の興味を多少そそっていたのだった。千穂は約束通り、今週末に桐子に紹介してくれる手筈が整ったと言った。彼の身長や容姿や性格について、千穂は事細かに桐子に話してくれた。なるほど桐子の好みのタイプのようであった。そのため桐子は彼に会える週末が少し待ち遠しいような気がしていた。その彼がもしかしたら、桐子の迷宮を打ち破ってくれそうな、そんな淡い期待を抱かせてくれたのだった。
だがそれもほんの一瞬のことで、そんなことは決してあり得ない夢物語であるということを、もう一人の自分が諭すのだった。そして桐子はまた周りの友人たちに話を適当に合わせながら乾いた笑いと会話を繰り返すのだった。一瞬でも高揚しかけた自分の感情が深海の奥底まで沈んでいったような、以前よりも一層苦しみが増したようなそんな気がしてならなかった。
そしていつもと同じように下北沢の駅でみんなと別れると、一人で下りの小田急線に乗り、座席で居眠りをするのだった。覚醒しているもう一人の自分が眠りをコントロールしながら、もう一人の疲れた自分は夢の中へと入って行ったのだった。
夢は子供の頃のものだった。いつのことだかは覚えていないが、朝顔の浴衣を着た自分が小さなうちわを持ちながら打ち上げ花火を見つめていた。夜空に大輪を描いて消え去る美しい花火、まるで枝垂桜のように地上へと2次曲線を描いていく花火・・・・・・それらがとても美しく次々に桐子の目の前に打ち上げられていった。しかし花火は確かに美しかったが、心の中は何故か空虚であった。突然朝顔の浴衣を着ていた子供の頃の自分の姿が、制服を着ている今の自分の姿へと変わっていた。
その時もう一人の自分が相模大野に着いたことを知らせて、目が覚めるのだった。そうして桐子は無意識のうちに座席から立ち上がって、電車から降りて改札口へと向かうのだった。心の中にはつい先ほど見た夢の中の美しく、それでいて空虚な花火の残像がはっきりと残っていた。
自分は花火のような人生を生きてみたいと思った。素晴らしく艶やかで美しいものでなくても構わない。ほんの一瞬だけでも輝くことができればそれでいいと思った。後はほかの誰とも同じように消え去っていくのが宿命なのだから、長くなくても構わないから一瞬だけ輝いてみたいと思っていた。具体的にはどのようにしたいのかはまったくわかりはしなかったが・・・・・・。
それが桐子の大きな苦悩でもあった。一方ではそういった苦悩から解き放たれるために、誰かが自分のことを殺してくれることも願っていた。だがどちらも桐子の身には起きはしなかった。いつもと同じように家路について自分の家へと帰っていくのだった。
そして今日もまた昨日と全く同じように夕方を過ごし、母親と二人で夕食を食べ、勉強をして風呂に入ってから本を読み、昨晩と同じことを考えながらベッドの中で眠れない夜を苦しみながら過ごすのだった。
誰も気付いてくれない。だが誰にも言うことはできない。
それがとてつもなく苦しかった。
逃げ出したい。
だがどこへも行くことはできない。どうすることもできない自分が歯がゆかった。そして悲しかった。
いつの間にか枕が涙で濡れていた。人生とは何と苦しく困難なものなのだろう。たった十数年生きただけで、桐子は心身ともに疲れ果てていた。内戦やテロで苦しんでいる女の子たちに比べれば、平和も自由も食べ物も衣服も住居も肉親もあるというのに、何も持たない人間たちよりもずっと惨めに思えてならなかった。
いったい何が自分には足りないというのだろう。
桐子は何度も自分に問いかけてみた。
恐らく何もかもが足りないのだ。それは勿論物質的なものではなく、極めて精神的な何かであった。だがそれが何であるのかは永遠に答えが出ないと思われた。ただ例えようのない苦しみが桐子の心をずっと蝕んでいた。
今晩も眠れそうもないので、部屋の電気をつけてまた読みかけの本を読み始めた。すると今日は不思議なことに、5分もしないうちに急に睡魔が桐子を襲ってきた。桐子は何故だか安堵すると、ベッドの中に深く潜り込んで眠りに落ちていった。
いつもと同じように朝が来た。桐子は自分の部屋の白いドレッサーで自分の顔を見た。最近のひどい睡眠不足のせいで、目の下に大きな隈がある自分の顔がまるで他人の顔のように感じられた。全身にも極度の倦怠感を感じていた。それでも今日は土曜日なので昨日までとは違った少し気分的に晴れやかな気持ちがしていた。それに加えて、あまり期待はしていなかったが千穂の紹介してくれる男の子と放課後に会えるというのも、ちょっとした明るさに色を添えてくれていた。桐子は鏡に向かって少し微笑むと、南向きの自分の部屋のブラインドを開けて久し振りに窓を押し開けてみた。
外は雨だった。霧雨というわけでもなく、かといって土砂降りのようなふり方でもなかった。音もなく桐子の家の庭の土に吸い込まれていくような雨だった。それが何故か桐子を不思議に落ち着いた気持ちにさせてくれた。桐子は別に特に雨が好きという訳ではなかったが、晴れの日よりもずっと好きだった。それは多分、桐子が太陽のことを嫌いだということが大きく影響しているように思えた。太陽は自分とはすべての面において正反対であり、自分が持っていない全てを有しているからだった。
土曜日、天気、少しばかりの期待・・・・・・そういったものが昨日とは少しだけ違った気分に桐子をさせていた。だがそれ以外の桐子を取り巻く家での環境は昨日とは全く変わっていなかった。慌ただしい朝食、いつもと同じ制服、母親の声、父親との挨拶・・・・・・少しも変わっていなかった。そのことが少し桐子の気持ちを落ち込ませたが、それでも玄関のドアを開けて、お気に入りのビビアンウエストウッドのピンク色の傘を差すと、何故か気分が元の少し晴れやかなものに戻っていった。
桐子の学校では一応靴も学校指定のものがあったが、特別派手なものでない限りは注意をされるようなことはなかった。指定のものも2色あって黒と茶色のローファーで上にリボンが付いていて結構お洒落なものだったので、生徒にも人気があったし桐子も気に入っていた。その靴を履きながら、桐子は雨に濡れた道路を少しだけ浮かれた気分で歩いて行った。雨に洗われてしっとりとしたせいか、いつも通っている道が何となく違うように感じられた。駅まで続く通りの街路樹の葉の色も、命を吹き込まれたかのように鮮やかな緑色に戻っていた。歩きながら少し跳ね返る雨水も別に苦にはならないような気がしていた。
電車はいつものように混んでいた。桐子の嫌いな太った汚らしいおじさんに押されても、今日はそんなに嫌な顔はしなかった。勿論いつもと同じように隙を見つけては、OLや女子高生や若い人がいる別の場所へと少しずつ移動することはしていた。それでも下北沢に電車が近づくにつれて、いつものように時々ため息を漏らすようになっていった。再び訳もなく気分が落ち込んでいる自分の心に気付いていた。
下北沢の改札を出ると、自分と同じ制服を着た先輩や後輩や同級生が学校に向かって歩いていた。その中の知った顔に出会うと、軽く挨拶をしてから下らない話が始まるのだった。そのことが益々自分の心をいつものような陰鬱な状況へと近付かせていった。当然周りの人間に合わせて表情には笑顔を浮かべ、時には馬鹿笑いなどもしてみせたが、心の中は乾ききっていた。またあの言いようのない寂しさが心の奥底から湧き上がってきていた。校内に入り自分のクラスの机に座る頃には、もうすっかり昨日と同じ気持ちを抱いている自分に桐子は気付いたのだった。
ホームルームが終わり、授業が始まる頃にはもう何もかもがすべて昨日と同じになっていた。そして桐子は先生が書いたホワイトボードの文字や図形なんかを何の感情も持たずに機械的にノートに写していた。休み時間には千穂に例の男の子の紹介を渋谷の喫茶店でしてくれると聞かされていたが、それとて千穂に言われて始めて気付いたぐらい全く頭の中の意識から消え去っていたのだった。
それからまた再び授業が始まると、元の機械人間に桐子は戻ってしまうのだった。だがこの機械人間である桐子は、苦悩や悲しみに包まれている普段の桐子よりもずっと幸せなのかもしれなかった。それは授業の終了を告げるチャイムが鳴った時に、桐子がふと感じる寂しさが何よりもそのことを物語っていると思われた。
そのチャイムが自分を呼び戻し、ふたたび暗黒の淵に連れ戻されるのであった。桐子はそれが嫌でならなかった。眠っている時と同様に、機械人間であるときの自分の方が精神的にはどんなにか楽なことであろう。
何も考えずに無為な人生の時間が過ぎ去っていく・・・・・・その方が桐子にとってはずっと良かった。そうして何も考えずに時間が過ぎ去って人生が終わりを告げるのであれば、その方が幸せである。自分に戻ってしまえば、もがき苦しむ自分がいるだけであった。ならばこのまま機械でいることの方がずっと楽だった。
そういった現実から乖離したものだけが、桐子にとって唯一の救いだった。現実の世界は余りに過酷で苦しく、そして孤独だった。桐子と同じように思い悩んでいる人間が、きっと世界のどこかにいるだろうと思われることだけが、心持ちを少しだけ軽くさせてくれていた。
放課後になって機械人間から元の自分に戻った桐子は、約束通り千穂と一緒に井の頭線で渋谷へと向かった。渋谷に向かう電車は土曜の昼ということもあって、大変な混みようだった。それでも桐子と千穂はくっついて話を続けていた。千穂は既に男性経験があり、同級生の中ではそういった点でかなり進んでいたが、裏表のない性格だったので同性からも好かれており、桐子のような人間にとっては、どちらかというと羨ましい存在だった。千穂は交友関係も広く、色々な高校の生徒たちと付き合っていた。当然男友達も大勢いたが、遊び人の女の子たちとは違って決して二股をかけるような真似はしなかった。必ず付き合うのは一人であった。勿論これまでに何人もの男と付き合ってはいたので、その千穂のお眼鏡にかなったというのならば、まず間違いないというのが桐子の周りの友人たちの評であった。
渋谷に着くと、桐子は千穂に連れて行かれるがままに待ち合わせ場所の喫茶店へと歩いて向かった。そこは駅からヒカリエの方を抜けていったところにあった。蔦の絡まる小さな入り口から地下へと続く通路を抜けていくと、急に大きな広い喫茶店のスペースがあった。
その店の中に入ると、千穂は知り合いの男子高校生を探していた。程なくその相手は見つかった。桐子たちは5分位待ち合わせ場所に遅刻していた。しかしそれは千穂の常套手段だった。女が少し待たせた方が男に有利に進められるというのが千穂の持論だったのだ。
桐子は多少胸をドキドキさせながら紹介された相手を見つめながら相手の自己紹介を聞いていた。相手は千穂が来る途中に話していた通りのなかなかのハンサムボーイで、話し方も桐子の好きなタイプの中に入っていた。座っていたので身長の高さはわからなかったが、それでも多分相当高いだろうということは感じさせられた。千穂はもう一人の彼を紹介してくれた男の友人と話をしながら桐子とその彼との紹介をさりげなく行った。
彼の名前は井上誠一といった。都内でも結構有名な私立男子高校の2年生であった。学校ではサッカー部に所属しており、一応レギュラーのミッドフィルダーとのことだった。趣味はサッカー関連のほかには映画を見ることであるとのことだった。
桐子も自分の自己紹介をした。桐子が話している間中、彼はスポーツマンらしい純粋な輝いた瞳で桐子の目を見つめていた。それが不思議に桐子の胸をときめかせた。
誠一は今時の男子には珍しく、無口な性格のようだった。もっぱら千穂やもう一人の男子や桐子の話の聞き役になっていた。身体が少し硬直してかなり緊張している感じが伝わり、そのことが桐子には新鮮に感じられた。その新鮮さが桐子を少し引き付けさせた。
誠一は桐子とは正反対の性格のように思えた。サッカー命で毎日自分の全力を打ち込んでいるということと、なれるかどうかは別として将来プロ選手になるという夢を持っているということだった。そういったことが桐子とは正反対であると思われた。
桐子の心の中の一部では、そういう男の子と付き合うことが、もしかしたら自分の苦しみから抜け出せる道ではないかと考えていた。そして万が一、誠一に対して恋愛感情を持つようになったとしたら、それは今の苦しみから桐子を救ってくれることになるであろうと考えていた。
相手の誠一も、サッカー一筋で男子校育ちであったため、女の子と接する機会がなく、そういった点で女の子を求める気持ちが強かったのは、話をしているうちに感じられた。誠一の友人の話では、共学校とのサッカーの試合で女の子の応援があるのがとても羨ましく感じていて、彼女が欲しいと思っているとのことだった。
話を進めていくうちに双方の思惑は一致するので、二人は付き合うことになるかもしれないと桐子は感じられた。だが愛読している少女漫画に載っているような、スポーツマンの彼氏にお弁当を作って持って行くようなことは、桐子にはできないだろうとも思っていた。ただこれがきっかけで、自分の生活が変わるような気がしていた。
千穂は誠一と桐子の気持ちを何となく察したように、二人にお互いのラインを交換するように急かした。桐子と誠一は言われたとおりに交換した。
すると誠一は来週の日曜に一緒に映画を観に行くことを、少し照れながら桐子に提案した。桐子は突然のことで瞬間戸惑ったが、すぐにOKした。そして待ち合わせ場所や時間をすぐに決めた。今日会ったのは渋谷だったが、桐子としては新宿の方が便利がいいのでそうしてもらうことにした。
それから4人で少し雑談をしてからその店を後にして別れたのだった。誠一は本当はクラブチームのサッカーの自主練習があったのを抜け出してきていたので、練習へと戻っていた。千穂ともう一人の男子は二人でハチ公側へと歩いて行った。桐子は何だかとても疲れ切ってしまっていたので、二人と別れて家に帰ることにした。
渋谷駅は相変わらずすごい人だった。桐子は軽いめまいを感じながらも、人ごみの中を歩いて行った。そしてようやく井の頭線のホームへとたどり着いた。ホームはまだ時間が早いせいか、それほど混んではいなかった。桐子はちょぅど停まっていた急行に飛び乗ると、下北沢で乗り換えに便利な車両の位置まで車内を歩いて行った。
下北沢で小田急線に乗り換えると、電車の中は井の頭線よりもさらに空いていた。桐子は空いている座席を見つけると、いつものように座り込んで眠り始めた。本当に久しぶりに同世代の男の子と話したせいであろうか、普段の家に帰るときよりもずっと疲労を感じていた。ただほんの少しだけ、心の中がすっきりしたようなそんな錯覚を受けていた。
目を閉じると、誠一の純粋な少年の瞳がはっきりと思い出された。桐子は眠りに落ちながら、誠一のことを思い描いていた。彼がサッカーをしているシーンや、来週の映画館でのデートのシーンなどが想像の中で現れていった。それは桐子に感動を与えるようなシーンではなかったが、いつもと違う印象が心の中に焼き付けられた。桐子はもう一人の自分が駅に着いたことを知らせるまで、そのシーンを夢の中で繰り返し思い浮かべていた。
改札を抜けると、そういったことはすべて遠い出来事のように、ぼんやりと遠い彼方へと去って行ってしまったような気がしていた。駅を出ると、一時止んでいた雨がまた降りだしていた。桐子は傘を開いてゆっくりと家路についた。
道路には所々にほんの小さな水溜りができていた。そういった小さな水溜りを桐子はわざと大きく跨いで越えていくのが好きだった。そして家に帰る途中の家々の庭の水分をたくさん吸い込んだ土のにおいが好きだった。桐子が歩く度に跳ね上がってくる道路の雨水も、靴や靴下を汚すことはあったが同じように好きだった。
雨は桐子に力を与えてくれる、そんな気がするのだった。そしてそんなことを考えるとき、もしかしたら自分は人間ではなくて本当は植物なのではないかと思うこともあったりした。それとも自分の前世は植物であって、本来は植物として転生するはずだったのに、間違って人間として生まれ変わったのではないかと思うのだった。
桐子の家は、相変わらずいつもの家だった。玄関のドアを開けて中に入ると、いつものように母親は出掛けており、誰もいない静まり返った家だった。桐子は自分の部屋に行き、制服からスウェットに着替えると、リビングに行ってテレビをつけた。土曜の午後なので下らないバラエティ番組の再放送などがやっているだけだった。CS放送に切り替えて何かよさそうなチャンネルに合わせた。そして自分で紅茶をいれると、適当にお菓子を出してきてソファに横になりながらしばらくの間テレビをじっと見つめていた。
30分ほど経ってからであろうか、テレビにも飽きてきてリモコンでテレビを消すと、2階の自分の部屋へと戻っていった。このところの睡眠不足や慣れない今日の出来事などが桐子に眠気を感じさせていた。桐子はベッドに横たわると、急に襲って来た睡魔に身を任せ、そのまま眠り込んでいったのだった。
気が付くと、母親が夕食の用意ができたからと言って起こしに来ていた。母親は桐子の身体を軽く揺すって起こした。桐子は相当久し振りに熟睡できた自分に少し驚いた。まだ目覚めたばかりではっきりしない頭のまま桐子はベッドから起き上がると、母親の後に続いて階下のダイニングルームへと下りて行った。父親は相変わらずゴルフかなんかで不在らしかったが、そんなことは桐子にとってはどうでもいいことだった。
桐子の母親は料理はかなりうまい方であった。それは普段の暇つぶしに料理教室に通っているからでもあったし、もともとその才能があったからかもしれなかった。何にせよ、桐子はいつも母親が作った美味しい食事を食べることができた。また食器にもかなり凝っていたので、来客がいないような普段の二人きりの食事の時であっても、洋食ならウェッジウッドやロイヤルコペンハーゲンなんかの食器を使用したり、和食なら有田焼の皿や茶わんや輪島塗の漆器や箸などを使用していた。そういった器は、桐子が知っているだけでもかなりの数があり、料理を視覚の面からも引き立たせているのだった。今日のメニューは、舌平目のムニエルとトリュフをかけたシーフードサラダとハッシュドポテトとピクルスとかぼちゃの冷製スープであった。洋食だったので、当然それに合わせて器も洋食器だった。今日の食器はすべて桐子の好きなワイルドストロベリーに統一されていた。
桐子の母親は白ワインを、桐子はノンアルコールのワインを飲んでいた。グラスは父親が昔イタリアに出張に行ったときに購入した、赤いルビーのような色をした美しいベネチアングラスだった。本当は高校生だからノンアルコールとはいえ、ワインを飲むことは許されるのかは二人にもよくわからなかったが、美味しい料理を味わうにはワインは不可欠であることが桐子の母親にはわかっていたので、桐子がノンアルコールのワインを飲むことを許していた。
二人は食事の間もそんなに会話は交わさなかった。桐子の家ではそれがもう習慣化していたので、別に何の違和感もなかった。むしろ誰か来客が来て騒がしい食卓の方が珍しかったし変な感じがしてしまうのだった。
その日の晩の料理も大変美味しかった。桐子は料理が美味しかったことを母親に告げると、自分の食べた食器を食器洗浄機の中に並べて入れると、また自分の部屋へと戻っていった。
夕食の前にかなりの睡眠をとっていたので、頭の中は大分すっきりとしていた。桐子はスマートスピーカーに話しかけて、ダイナ・ワシントンの曲を聴きながらベッドの上に横たわって天井をぼんやりと見つめていた。少し横を向いて窓から外を見ると、もう暗くなってはいたが雨は帰って来た時よりもかなり激しく降っていた。ダイナ・ワシントンの声と微かに耳に聞こえてくる雨の音がマッチして、一種独特の寂寥感を醸し出していた。そのほかには何も耳の中には入ってこなかった。そうした孤独感が桐子をより一層自分の世界へと引き込んでいった。
自分の人生とは一体何なのか。
永遠の命題であるような、そんな難問について考えていた。生まれてきたのは自分の意志では決してない。両親を選ぶ権利もなかった。経済的には比較的恵まれたどこにでもあるような家庭ではあったが、自分の夢を抱いた兄は遠い異国の地で暮らしていて、両親は父親の浮気の後も離婚もせずに果たして愛情があるのかないのかわからないままごく普通の夫婦でいた。
自分はまあ他人に学校名を言っても恥ずかしくないような私立高校に通い、非行少女の仲間に入る訳でもなく、ギャルのような少し倫理感に乏しいような人間になる訳でもなく、かといって東大や早慶などを目指してガリ勉する訳でもなく、スポーツ一直線というのでもなく、普通の友人たちに囲まれて平凡な生活を送っていた。
多分桐子の周りの友人は、何の疑問も持たずに平凡な生活をある意味で幸福に過ごしていた。だが桐子は周りの友人たちとは違っていた。そうした友人たちのような平凡な生活にはうんざりしていた。
桐子は今までこの生活から抜け出すための方法を色々と考えてみた。一つは家のお金を持ち出して、どこかに家出してしまうということだった。だがこれは親が警察に連絡することによって、すぐに連れ戻されて失敗に終わってしまうだろうと思い却下されていた。
次に考えられるのが自殺だった。走ってくる電車に身を投じることは怖くてできそうもなかったし、服毒自殺も今はそんなに簡単に毒など手に入れることができないので、どうすればいいのかわからなかった。海や川に身を投げることもできそうもなかったし、ましてや焼身自殺などは論外であった。どれもこれも自分にはできそうもなかった。それでこの案も今まで大分検討されてきたが、却下となっていた。
今一番桐子の心に希望を持たせている計画は、兄のいるスペインに留学することだった。だがこれも兄のように男なら簡単に海外に飛び込むことができても、女子高生の自分がそんなことができるのかよく考えると難しい気がしていた。
英会話は子供の頃から習っていてある程度自信はあったが、スペイン語は勉強したこともなかった。ましてや日頃は無関心の父親であっても、多分そんなことは許してくれそうもなかった。だが兄を自分側に付けて、長期戦で計画的に臨んだとしたら、もしかしたら大学生の頃には許してくれるかもしれないと考えていた。
しかしそれが成功するまでのかなりの長い期間は、うんざりする今の生活が続いていくことは疑いがなかった。
どうしてほかの友人たちは毎日あんなに楽しそうにしているのだろう。一体何が幸せなのだろうか。桐子は毎日が苦しくて仕方ないのに、何故彼女たちはあんなに屈託のない笑顔を見せているのであろうか。そのことがずっと不思議でならなかった。
勿論桐子も周りに合わせて、心の中では乾ききっていながら笑みを浮かべてはいたが、それはとても辛かった。彼女たちのように、人生の苦しみを知らないままでいられたら、どんなに自分も楽だったろうか・・・・・・。だが知ってしまったら、知らなかった前に戻ることは決してできやしない。
苦しかった。それが桐子の人生だと思うと、本当に試練だとしか言いようがなかった。ただこうして苛立つほどゆっくりと流れていく時を待つより仕方ないように思えた。
桐子はベッドから起き上がって自分の机に向かって勉強を始めた。別に好きでやるわけではない。定期試験にはまだ早かったが、来年は高校3年だし、中学の頃から何となく癖になっていたので勉強を始めたのだった。数学の難問や物理の問題などで頭を悩ませていると、少しの間だけでもそうした生きていることの苦しみを忘れることができるのもよかった。だが時々ふっと途中でまた自分に戻っていつものように考え込んでしまうこともたびたびあったのだった。そしてしばらくしてまた勉強に戻るのだった。
0時を過ぎたころに桐子は勉強するのをやめて、風呂に入りに行った。桐子は風呂から上がると、また部屋に戻って今度はしばらくの間小説を読み始めた。そして午前1時半頃にベッドの中に入って眠ろうとした。いつものようにいろいろなことに思いを巡らせるのでなかなか寝付けはしないだろうと思っていたが、今日は土曜日だったので何となくいつもと違う精神状態だった。夕方に仮眠をとったことが睡眠を妨げるのではないかと思ったが、夕方に眠りに入るコツのようなものを少しつかんだようで、逆にいつもよりも早く眠りにつくことができた。
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