桐子の憂鬱

西大寺龍

第1話 桐子の苦しみ

 このところの数日間、桐子はあまりよく眠れなかった。

 理由は何故かは全く分からなかったが、いつものように自分の部屋のアンティーク時計の目覚ましできっかり7時に起きると、多少だるい身体に伸びをして、眠い目をこすりながらスウェットから制服に着替えるのだった。

 もう既に一年以上も着ている制服であったが、桐子はこの制服のことが結構気に入っていた。特にこの夏服は気に入っていた。スカイブルーのブラウスにタータンチェックのタイトスカート・・・・・・それが鏡に映る自分によく似合っているような気がするからだった。

 鏡に映る自分の顔を見ると、自分では美人だということは全く思わなかったが、まあごく普通に合格点ぐらいはもらえる程度の容姿ではあるとは感じてはいた。

 桐子の通う高校は私立ではあったが、校則はそんなに厳しい方ではなかった。法律と常識の範囲内で行動すれば特にうるさいことは誰にも言われなかった。もちろん飲酒・喫煙といった未成年が行ってはいけない法律を逸脱した行為をした場合には停学になったりはしていたが、休日や放課後の行動まで監視したり、靴や靴下などを学校指定のものにしなければならないといった校則はありはしたが、良識の範囲内であれば怒られることはなかった。髪の毛を染めたり、パーマをかけたり、化粧をしたりすることについても、度が過ぎたものでなければそれなりに黙認されていた。男女交際についても特にうるさいことは言われなかった。さすがに妊娠が発覚した場合は自主的に退学はしているようだったが、そういったへまをする子はまずいなかった。

 

 桐子は中学の入学祝いに祖母が買ってくれた白いドレッサーの前に向かって、ちょっとピンクがかったリップクリームを付けると、髪の毛を軽くブラシで梳かした。そして黒い鞄を持って自分の部屋を出て、一階のダイニングルームへと下りて行った。ダイニングでは母親が朝食の用意を慌ただしくしていた。

 「おはよう。」母親はいつものようにそう言った。

 「おはよう、ママ。」桐子はいつものように返事をした。

 そしてテレビを付けると、洗面所へ行って顔を洗った。そして自分の顔のチェックをすると、再びリップクリームを付けてテーブルに座った。自分の席にはいつもと同じように軽く焼いたトーストが一枚とピーターラビットのマグカップに注がれた熱い紅茶とサラダとヨーグルトとフルーツがあった。

 桐子はトーストにマーガリンとブルーベリージャムを軽く塗ると、何も言わずにテレビを見ながら朝食を食べ始めた。テレビのリモコンは自分の手元に置いてあり、もし面白くなければすぐにチャンネルを変えるのだった。だがいつも大抵は同じ民放のチャンネルを付けたままにしていた。

 朝食はいつも15分ぐらいで済ませていた。それから歯を磨き、またリップクリームを付けてから、トイレに入って出掛けるのだった。桐子の朝食が終わる頃になると、自分の部屋から出て来た父親とすれ違うのだった。桐子が中学3年の時に父親に愛人がいることが発覚してからは、ほとんど話はしていなかった。当時は相当ショックを受けたが、今では遠い過去の出来事のように感じていたし、父親もその時に愛人とは別れていたので、別に何とも思っていなかったが、心の奥底では許せない感情がまだあったので、必要最小限の会話しかしなかった。

 そしていつも無言で桐子は家を出ていくのだった。彼女の家は小田急線の相模大野の駅から歩いて5分ぐらいのところにあった。別に駅まで自転車で行ってもよかったのだが、一度駅で自転車を盗まれてからはもう二度と駅まで自転車で行く気にはなれなかった。それに朝の空気を吸い込みながら歩いて駅まで行くことは、桐子にとっては清々しい気持ちになれるので結構好きだった。

 高校は下北沢にあったので、いつも混み合う急行電車に揺られながら学校へと通っていた。学校へ行くことはそんなにいやでもなかったが、特別好きでもなかった。始業10分位前に教室に着いて、いつものように友人たちとテレビの話や彼氏のいる子の話やうわさ話などをして、先生が来るまでの間笑っていたりしていた。授業は割と真面目に聞いている風な感じもしている方ではあったが、内容はそんなに真剣に聞いてはおらず、時々別のことをことを考えていて、窓から校庭を見ていたりしていた。成績は中の上というところで、人並みには勉強はしていたがそれ以上は試験前以外には決してすることはなかった。自分でももう少し勉強すればもっといい成績になれるということはわかってはいたが、そんなことは何の意味もないように桐子には思えていた。

 桐子の学校は、特にスポーツが強いとか有名な進学校であるとかそういった学校ではなかった。だが一応それなりの伝統があって名の通った学校ではあり、進学もそれなりの大学に大抵のものは進学していた。クラスの中には河合塾や東進や駿台のような予備校に通って猛烈に勉強している者もいたし、テニスやバスケやバレーなどのクラブ活動に力を入れている者もいたが、桐子はそのどちらにも属さずに高校生活を送っていた。

 授業が3時に終わると、桐子はいつも普段から仲のいい友達と駅まで一緒に歩いて帰ったり、時には喫茶店に寄って1~2時間程話したりしていた。友人の中にはファッションに興味を持って毎日のようにいろいろなお店でウインドウショッピングをするものもいたし、将来の夢のためにバイトに明け暮れるものもいた。またこの年頃の女の子に特有な他校の男子生徒と付き合って熱を上げるものもいた。桐子はそのどれにも全く興味はなかった。ただ友人たちとの付き合い上、ネットなどで適当に話や知識は仕入れてはいたが、知れば知るほど何にも興味をそそられることはなかった。勿論通学途中にかっこいい男の子に出会ったりすれば、当然気持ちは少しは揺れ動いたりしたが、それ以上のこと例えば告白するとかそういった気持ちには決してなりはしなかった。性的な知識については、友人やネットやいろいろなメディアなどから小学校や中学の時に一応一通りのことは知ってはいたが、それを実践に移すようなことは一度もなかった。

 

 兄弟は7歳年上の兄がいたが、この兄が相当な変わり者で有名進学校でいい成績であったにもかかわらず、建築の勉強をするとかで卒業と同時にスペインのバルセロナへ行ってしまった。両親は勿論反対したが、どんなに反対しても援助なしでも一人で行くと言って、半ば強引に説き伏せて家から出て行ってしまった。年齢が少し離れていたせいもあるが、桐子はごく幼少期に遊んでもらった記憶はあったが、後はほとんど兄が家にいないか、自分の部屋に閉じこもりきりであまり話した記憶がない。今では時折、葉書やメールが来る程度で向こうに行ってからはほとんど家にも帰って来ることはなかった。父親の愛人が発覚した時も、両親の問題だから僕には関係ないといった内容の返事だった。今ではあまり顔さえも思い出せなくなっていた。一応向こうの大学で勉強をしているらしかったが、スペイン人の女性と同棲しているとのことだった。両親はこの兄については、子供のころから他人とは違ったところがありどんなに説教しても我関せずで自由奔放に生きる性分であったので、今では何も期待せず放任していた。

 兄がそんな感じだったので、その分母親の愛情は桐子に注がれていたが、それが桐子には少し重荷になっていた。自分としては兄と同様に放任にしてくれる方がありがたかった。欲しいものは大抵買ってくれはしたが、色々と桐子の生活に注文を付けてくるのが気に入らなかった。勉強はもちろん、習い事をやれだとか、クラブ活動をやれだとか、そういったことをことある度に言ってくるのが気に食わなかった。だから兄と同じように自分の部屋に閉じこもることが桐子には唯一の安息のような気がしていた。特に来年高校3年で受験になるので、近頃本当にうるさかった。

 

 そんな訳で自然と桐子は家に帰ると、すぐに自分の部屋に直行する習性がついてしまっていた。制服から着替え、音声でスマートスピーカーを付けて、ベッドの上に横たわって何を考えるわけでもなく、天井をじっとみつめていることが多かった。しばらくすると母親がドアをノックして、紅茶とお菓子を持ってきて、ベッドの横のガラスのテーブルの上に置いていくのだった。

 桐子は音楽は好きだった。今ではもうやめてしまったが、昔はピアノを習っていたので、一応楽器を演奏することもできたが、聴くことの方がどちらかといえば好きだった。ジャンルには特にこだわらず何でも聴いていた。でもどちらかというと、洋楽の方が好きだった。ただ邦楽も嫌いというわけでもなく、友人たちとカラオケボックスに行くときには知っていて歌える必要があったし、純粋にいい曲もたあったりして好んで聴くこともあった。ただラップゃヒップホップなどのうるさいだけの音楽は昔からあまり好きではなかった。それ以外なら何でも聴いていた。ジャズ、クラシック、ポップス、ソウル、ロック・・・それから友人たちには言わないが、ラテン系のサンバや、ボサノバ、サルサ、タンゴ・・・といったところもよく聴いていた。自分でも他の友人たちよりもいろいろな点でませているとは思ってはいたが、そのことは決して他人には口にはしなかった。それはそうすることによって、友人たちの中で自分の存在が浮いてしまうことを恐れていたし、何の得にもならないことが分かっていたからだった。

 音楽の好みだけではない。自分も兄ほどではないにしても、相当変わっていることはわかっていた。ただ兄と違うのは、自分の思っていることを行動にうつすことが桐子にはできなかった。冷めた心で周りに調子を合わせて乾いた笑いや冗談を飛ばしていた。本当は違うと心の中では思いつつも、そうすることしか桐子にはできなかった。苦痛ではなかったが、楽しくは決してなかった。だがそこから抜け出すことはできなかった。

 桐子は悩んだり考えたりすることが嫌だったので、いつも早く寝ることにしていた。眠りに入ってしまえば、夢の中で別の自分が普段できないことをしてくれるからだった。夢の中の自分は万能だった。なんでも自分の思い通りにできた。そんな夢の中の自分のことを桐子は愛していた。

 だが不思議なことに、桐子は夢の中でそれが夢であることがいつもわかっていた。だからこそ夢の中の自分に普段は思っていてもできないことを実行させてみて、その結果に満足するのだった。桐子を唯一自分らしくしてくれる場所、それが夢の中だったのだ。

 休日は学校の友人たちと渋谷や原宿や新宿などに出かけることが多かったが、別に楽しいとは思わなかった。ただ流石に自分も女子高生なので、洋服を買ったりいろいろなアクセサリーを買ったりすることはその瞬間は少しは楽しくはあった。ただ自分よりも精神年齢が低い友人たちと合わせて遊ぶことはやはり辛くは感じられた。だけど母親が干渉してくる自分の家にいるよりはだいぶ楽ではあった。

 自分ではどこにも逃げ場がないということはわかってはいたが、そのことはどうしようもなかった。いっそ兄のように誰も知らない外国に行くことができればどんなにいいだろうと、時々考えたりもしたが、そんな行動力などありはしなかった。いつも同じ退屈な毎日の繰り返し・・・・・・そうしているほかはなかった。打ち込めるような何かができれば、それで心を紛らわせることができたのだろうが、そんなことが生まれることなどなかった。

 俗にいうギャルだとか、ヤンキーのような不良になることもできなかったし、かといって優等生になることもできなかった。ただ平凡に生きていくことしかできなかった。同じような毎日が過ぎ去っていくことをただ無防備に受け入れていくことしかできなかった。

 

 そして今日も友人と別れて家に帰り、気だるい夕方が過ぎて母親と夕食を食べながら大して面白くもないテレビ番組を見て、自分の部屋に戻って宿題をしたり音楽を聴いたりして過ごして、10時過ぎには風呂に入り、自分の一番好きな時間である夢の中へと入っていくのだった。

 

 何も起きない退屈な日々・・・・・・それはそれで楽でいいのだが、刺激が欲しいと思うこともあった。ただ自分から現状を変えるために何か行動を起こす気にはなれなかった。よく青春時代は大切だとか、輝いているとかというけれど、桐子にとっては青春時代は退屈でむしろ苦痛な日々でしかなかった。子供の頃の方が別に何も考えずに一日が過ぎていったし、こんなに退屈を感じる何もない毎日ではなかった。

 これから先の人生について考えてみると、大学か短大に進学して、どこかの会社に就職してOLを何年かやって適当な相手と結婚してそして死んでいくのかと考えると自分の生きている意味など何もないような気がしていた。いっそ夢の中のままずっと目が覚めずに、このまま夢の中に居続けられることができればこれほどの幸せはないと思っていた。夢の中の自分は何でもできたし、何にでもなることができた。けれどいつもそれを打ち壊してしまう朝が訪れてしまうのだった。

 ここ数日の間はベッドの中に入っても、夢から覚めるのが怖くてなかなか寝付けなかった。幼いころから寝付きがよかった自分からすると、こんな経験は初めてのことだった。夜になればいつものように眠くはなったが、自分のありとあらゆる苦悩から解放してくれる夢の中に入り込むことができなかった。明け方頃になると眠りに落ちてはいた。そして夢を見ることもできたが、うなされるような辛く苦しい夢ばかり見ていた。この歳になって他人には言えないような、怪物や化け物や殺人鬼が出てくるような夢もあった。だがそんな夢でさえも、目が覚めている時の現実の世界よりも自分としては好きであった。

 仲のいい友人はいたが、親友と呼べる人間はいなかった。桐子の高校は中学からの一貫校だったので、同じ学年の生徒なら大抵の人間は知っていたが、どんな悩みでも話せるような友人はいなかった。自分は特殊な人間だということはわかっていたので、自分の心の中は誰にもわからないと悟っていた。毎日が同じ様な話題が繰り返されていて、乾いた笑いが自分の周りを覆いつくしていた。友人の中には、他校の男子生徒と付き合っていて、相当熱を上げているものもいた。桐子はそういう単純な性格がうらやましいと思う反面、自分にはそんな情熱などありはしない思うのだった。

 中学からは女子高だが小学校は市立の学校で共学だったので、男子と話す機会はあったし、初恋と呼べるようなものも経験はしていたが、それ以来はずっと女だけの生活に明け暮れていた。特に兄がスペインに行ってしまってからは、同年代の若い男子とはほとんど話をしたこともなかった。休日に友人たちと東京の繁華街に出掛けた時に声をかけられることはあったりはしたが、桐子はそういう類の連中は大嫌いだった。男の子と付き合うことに興味がないわけではなかったが、そうした出会いはありえなかった。 

 母親が昔から園芸が好きなために、桐子の家の庭やバルコニーや部屋の中はいつも何かしらの花が咲いていて、季節ごとに変わっていくそうした美しい花についても、桐子は時々思い出したかのように気付くだけだった。昔は庭の花を手入れすることが好きだったし、奇麗な花を見ては毎日のように感動していたような記憶があったが、今ではそんなこともなくなってしまっていた。

 

 とにかく刺激が欲しかった。と言って非行に陥るような勇気など到底なかったし、刺激のある何かを見つけることはできないような気がしていた。


 ある日、いつもと同じように放課後に下北沢の喫茶店で友人たちと話をしているうちに、とうとう桐子の口から我慢できずに言葉が発せられた。

 「あー。何か刺激が欲しいなあ。」

 「桐子がそんなこと言うなんて珍しいわね。」友人の美咲がそう言った。

 「そうねえ。」桐子はそう言った。

「刺激か・・・・・・。それにはやっぱり男だね。男よ。」友人の中で一番性格が派手で彼氏がいる千穂がそう言った。

 「かもしれないわね。」桐子はそう言った。

 「桐子だったらかわいいし、何だったら私が誰か紹介しようか。」千穂はそう言った。

 「そうねえ・・・・・・。退屈しのぎにはなるなもね。」桐子はあまり気が乗らないながらもそう言った。

 「だったら今日早速連絡とってみるから、今週末空けておいてね。」千穂は言った。

 「空いてるわよ。でもあんまりチャラい感じなのは嫌だからね。」桐子は言った。

 「わかってるわよ。真面目そうなのがいいんでしょ。」

 「真面目過ぎるのもねえ・・・・・・。まあちょっと変わった感じにしてよ。」桐子は言った。

 「OK。じゃあ心当たりを当ってみるわ。」千穂はそう言った。

 千穂は桐子の仲間内では一番お洒落で派手に遊んではいたが、正直そんなに美人な方ではなかった。むしろ容姿では自分の方がだいぶ勝っていると桐子は思っていた。ただ男性経験は一番ある方だったので任せることにした。

 「ありがとう。頼むわ。」桐子はそう言った。あまり気乗りはしなかったが、気晴らしには丁度いいと思った。それと男の子と話をするのも久し振りなので、そういった意味でも興味をそそられた。小学校の頃の男の子たちはみんな幼稚なところがあったが、通学時にすれ違う男の子たちは身体も自分よりもずっと大きく、少し大人っぽくなっているところが気になっていた。別にジャニーズのような格好のいい男の子でなくても、不潔でデブじゃなければ構わなかった。

 「ただし、あんまり馬鹿とか変ないかれた男は紹介しないでね。」桐子は言った。

 「大丈夫よ。任せておいて。その代わり今日のここは桐子のおごりよ。」千穂はそう言った。

 「まあいいわよ。」桐子はそう言った。そしてほかの友人たちとその店を出た。千穂に言われたとおり、千穂の分は桐子が払った。桐子は今ほとんど一人っ子と同じだったので、十分な小遣いを親からもらっていた。その大部分は友人たちとの交際費に費やしていた。洋服や学校で必要なものについては母親が買ってくれていたので、経済的にはかなりの余裕があった。また特別に欲しいものなどは、父親にねだれば結構買ってくれたので、自分で使うお金はあまり必要はなかった。

 桐子は駅で他の友人と別れると、一人だけ下りの小田急線に乗った。ほかの友人は井の頭線や新宿や渋谷で他の電車に乗り換えるので、小田急の下りに乗るのは桐子だけだった。クラスの中には当然同じ方向で通っている子もいたが、その子たちは自分と特に親しくもなかったので、話もしなかったし電車の中で会ったとしても挨拶さえもしなかった。桐子は空いてる席があれば座って居眠りをしたり、席が空いてなければボンヤリと車内を見回したりしていた。

 今日は運良く席が空いていたので座れることができた。そこで桐子は座って鞄を膝の上に置くと、すぐに目を閉じて居眠りを始めた。いつも不思議に思うのだが、桐子は居眠りをすると、必ずもう一人の自分が覚醒して、車内の次の駅を告げるアナウンスを聞いているのだった。だから乗り過ごすということは一度としてなかった。自分でもそれがどうしてなのかは全く分からなかった。ただそれが自分にとってかなり好都合なことなので、いつも深く考えたり追及をすることはなかった。

 

 今日もまたそうだった。もう一人の自分が相模大野の一つ手前の駅で覚醒して、眠っていた自分のことを起こしてくれた。桐子はすっと立ち上がると、軽い立ち眩みを感じながらも、周りの人にはそんなことを少しも感じさせないような毅然とした態度で電車から降りた。そしてほかの乗客とともに、エスカレーターに乗って上に上がっていき、自動改札を過ぎると無意識に自分の家へと歩いて行った。

 途中時々立ち読みやコミックスを買ったりするために立ち寄ることがある本屋の前を通るときに、今日が13日だということに気が付いた。13日は桐子が小学2年生の時からずっと愛読している別冊マーガレットの発売日だった。そんな大事な日を忘れていた自分のことが少し悲しかった。昔は発売日の2週間ぐらい前から発売日を指折り数えるぐらい楽しみにしていた日のことを忘れていた自分が情けなかった。

 だがそんな感情もすぐに消え去ってしまった。いつものように店頭に山積みにされているその雑誌を一冊取り上げると、店内のレジに差し出した。店員に電子マネーで支払うことを告げると、支払いを済ませてそのまま本屋を出て行った。

 家に帰る途中の道で、沈丁花の花のいい香りにふと気が付いて、知らない家の前で数分間立ち止まった。桐子は鼻で深くそのかぐわしい香りを吸い込むと、目を閉じてしばらくの間その香りに酔いしれていた。不思議に落ち着いた気持ちが桐子の心を覆った。何となく、失われた遠い自分の心を思い出したような気がしていた。この辺りはまだ自然が多く残されていて、自分が子供の頃に遊んだ風景もかなり残っていた。道路はほとんど舗装化されてしまっていたが、時々小さな空き地があると、雑草が可憐な花をたくましく咲かせているのに気付いたりした。そんな時、桐子はある種の郷愁感に似たような感情にとらわれるのだった。それはうまく言葉では表現できなかったが、懐かしくホッとする反面何とも言えない悲しさが混ざり合ったものだった。子供の頃の自分には何もなかったという気もするが、今のような無気力な悩みは全くなかった。

 

 家に帰ると、母親はいつものように夕食の買い物に出掛けていて留守だった。桐子は見る訳でもないのに、テレビを付けて自分で紅茶をいれると、冷蔵庫の中から昨日母親が買って来たチョコレートケーキを出すと、リビングのソファに座りながらおやつを食べていた。本場のイギリスのアフタヌーンティーには程遠いかもしれないが、桐子はこうして学校から帰ってきてから過ごすことにしていた。母親も結構紅茶にはうるさかったので、フォートナム&メイソンやハロッズの紅茶しか買わなかった。そして桐子はちゃんとティーポットでその日の気分で銘柄を選んで紅茶をいれていた。今日はハロッズの16番にしていた。これはなかなかおいしい紅茶で桐子はハロッズの紅茶の中で一番気に入っていた。

 桐子はテレビを消すと食べ終わったケーキを片付け、2階の自分の部屋にテイーポットと自分のウェッジウッドのピーターラビットのカップを持って行った。そして部屋の中に入ると、カップをガラスのテーブルの上に置いた。それから制服からスウェットに着替えると、紅茶を楽しむために今日の気分に合った音楽を何にするか考え始めた。桐子は結構音楽が好きだったので、高校生にしてはかなり詳しく知っていた。その中から今日は何となくクラシックを聴きたい気分だったので、リストのピアノソナタをかけることにした。

 美しいピアノの音色が一人だけの空間を支配した。紅茶は相変わらず美味しかった。

 そして桐子は今日買って来た別冊マーガレットを取り出すと、ゆっくりとそれを読み始めた。夕食までの時間はいつも自分の時間に充てていて、宿題や勉強は夕食後にすることにしていた。ガリ勉タイプではなかったが、勉強はそんなに嫌いではなかったので、まあ適当にこなしてはいた。親の希望もあったし、周囲の友人たちが皆そうだったので大学か短大には行きたいとは漠然と思っていた。桐子の学校は桜蔭や雙葉のような猛烈な進学校ではなかったので、そんなに異常な程勉強をする生徒はいなかったが、ある程度の成績があればそこそこの大学に推薦入学できる上の中から下の間位の学校だった。勿論中には一流大学を目指して相当勉強している生徒もいたが、そういった生徒はある一部の生徒だった。またまったく勉強をせずにどちらかというと非行少女的な行動をする生徒もいた。桐子はそのどちらにも属さない、いわゆる一般的な生徒だった。

 桐子は読書も結構好きだった。夜寝る前にベッドの中で本を読んで寝るのが日課になっていた。読む本のジャンルとしては、恋愛小説や推理小説は好きではなく、そういったものよりもどちらかと言うと文学的な小説が好きだった。ただ純文学にこだわってるわけではなかった。学校の帰りに本屋に寄り、タイトルが気に入ったものや、本の後ろに書いてあるあらすじに興味をひかれたものを買って読んだりしていた。

 相当気に入った作品があったとしても、学校で友達に勧めたりその本の話をすることは決してなかった。桐子にとっては自分の精神世界が重要なのであって、学校は単にこの世の中を生きていくために社会的に所属しなければならない組織の一部であると認識していたからであった。だから親友もいらなかったし、作ろうとも思わなかった。

  

 時々青春から遠ざかってしまった親戚の中年の叔父さんや叔母さんたちに冠婚葬祭などの機会で会ったときに、必ずと言っていいほど「青春は素晴らしい」とか「若さがあって羨ましい」とか言われるが、そのたびに桐子はうんざりするのだった。

 

 青春は素晴らしくなんてない。


 特に今の世の中では敷かれたレールの上に乗って歩いていくだけで、漠然とした将来に対する恐怖を強く感じながら生きていく青春時代のどこがいいというのだろうか。ただ苦しく、もがき、誰にも助けを求められない、こんな青春のどこがいいというのだろう。確かに今は戦争もなく苦しくなるほど平和で、何もかも物質的に満たされている時代は昔とは比べられないだろうが、精神は少しも満たされていない。

 

 夢など、言葉として存在するだけで一度も思い描いたことなどない。

 

 桐子は青春という言葉が何よりも嫌いだった。青春の呪縛から解き放たれれば、どんなに楽になるだろうか。若いということは、桐子にとっては苦痛でしかなかった。

かと言って早く大人になることも望みはしなかった。大人になっても、何も楽しいことはないと思われていたし、特別に何かしたいと思うこともなかったのだ。

 第二次大戦中の若者に比べれば幸せなのであろうが、学生運動が盛んだった頃や何か夢中になるものがあった時代に比べると、今の時代には本当に何もなかった。精神的な意味でのただぼんやりとした将来に対する不安が桐子を支配していた。アイドルやミュージシャンのファンになったり、音楽に打ち込んだり、あるいは自分の周りにはいなかったが、暴力行為や非行やドラッグに走る若者たち・・・・・・。また怪しい新興宗教に走る若者たち・・・・・・。彼らのようにはなりたいとは決して思わなかったが、何となく彼らの気持ちはわかるような気がしていた。

 同じクラスの生徒の中には、男に熱中して全てを捧げて貢いでいるような子もいたし、その逆に自分の容姿を武器にして男を手玉に取っているような生徒もいた。自分の友人の中には特にそういった点で目立っていた子はいなかった。桐子に男子高校生を紹介してくれると約束した千穂にしても、男とは遊んではいたが、勉強は結構ちゃんとやっていたし、それなりの成績ではあった。また彼女以外の友人については、一人を除いてみんな帰宅部でクラブ活動は何もやっておらず、桐子と同じような無為な毎日を過ごしていた。


 桐子の母親は、夕食の用意ができるといつも桐子を2階の部屋まで呼びに来ていた。父親はいつも帰りが遅かったので、二人で夕食を取ることがほとんどであった。子供の頃から親の言うことには比較的従順だったので、桐子は呼ばれるとすぐに一階のダイニングルームへと下りて行った。兄がスペインに行ってからは、BGM代わりに付けてあるテレビの音の中で、二人で毎日変わり映えのしない話をしていた。桐子の母親は専業主婦でテニススクールに通ったり、料理教室や絵画教室に通ったりと習い事をたくさんしていたので平日の昼間は大抵出掛けていた。母親は自分の時間を楽しむ方法を知っているようで、そうした活動での日々起きたことなどが夕食の話題に上ったりすることもしばしばあったが、桐子の方はそんな話には興味がなかったのでいつも適当に受け流していた。

 

 夕食が終わると、桐子はいつものようにすぐに自分の部屋へと戻って行った。そうしてしばらくの間ベッドの上に身体を横たえると、スマートスピーカーで昔のJPOPを流し始めた。桐子は自分が生まれる前に流行ったような古い時代のJPOPをよく聞いていた。

 桐子は音楽ストリーミングサービスを使っているのだが、その中で適当に昔のJPOPのプレイリストを聴いていたところ、最近ユーミンの曲が気に入っていた。そしてどちらかというとかなり昔のアルバムや曲が気に入っていた。女子高育ちで恋愛など知る由もなかったが、昔の純真な乙女な詩の方に心惹かれていた。例えば『Dang Dang』や『埠頭を渡る風』、『Destiny』だとか、もっと古い曲では『海を見ていた午後』なんかは特にお気に入りで、よく聴いていた。好きな曲は大抵悲恋であったが、現実としてはそんな想いを経験することなど恐らくないだろうとは思っていたが、何故だかそうしたものに惹かれていた。自分自身の深層心理の中では、そういった想いをするような出来事に出会ってみたいと思っていたからなのかもしれない。

 だが現実には同じ毎日の繰り返し・・・・・・そしてわかりきってしまっているありきたりの将来・・・・・・。今の虚無感よりも身を焦がすような悲恋の方がずっといいと桐子は思っていた。

 

 それから桐子は机に向かい、教科書と参考書を開いて、いつもの日課である勉強を義務的に始めるのだった。宿題があるときも含めて大体毎日2~3時間は勉強していた。数学の問題を解いたり物理や化学の知識を深めたからと言って、これからの人生の役には立つとは思わなかったが、ある程度勉強に没頭している間は、普段の憂鬱を感じている暇がなかったので、まあそんなに嫌な時間ではなかった。そして少しは時が経つのが早く感じられるのがよかった。

 時々桐子は一日が今の半分で早く人生が終わってしまえばいい、なんて有り得ないことも心のどこかで望んでいた。人生において楽しいと感じることは本当に刹那的なもので、後は鬱々とした例えようのない苦しみが自分を包んでいた。そんな人生などもうどうでもいいと感じていた。ただ自殺するとか、そういった勇気はありはしなかったので、苦しみという蜘蛛の糸にがんじがらめになって、今という時の中でもがくことしかできなかった。

 スマートスピーカーが夜の10時を告げると、桐子は風呂に入りにバスルームへと下りていくのだった。桐子はそんなに長風呂の方ではなかったが、入浴タイムは数少ない楽しい一時であった。バスタブに身体を浸かっている瞬間は、同じように繰り返される一日の疲れから解放されるときであった。桐子の家ではいつも入浴剤を使用していたので、入浴しながらその香りを楽しんでいた。

 今日は桐子が一番好きなラベンダーの香りだった。桐子の家のバスタブはかなり大きかったので、バスタブの中で両腕と両脚をいつも思いっきり伸ばすのだった。そしてバスタブから出ると、身体の隅々まで洗うのだった。シャワーで身体に付いた泡を洗い流す時、すっきりとした爽快感を味わうのだった。それからもう一度バスタブの中に身を沈め、一瞬頭のてっぺんまでお湯の中に浸かるのだった。その行為自体に特に意味がある訳ではなかったが、子供の頃から今までずっとやっていたことなので、今日も同じようにやったのだった。それから髪の毛に含まれた水分を手で絞ると、バスルームから出て自分専用の大きなバスタオルで身体を覆い、青いスポーツタオルで髪の毛の水分を少しずつ吸い込ませていった。

 それから下着とスウェットを身に着けると、自分の部屋へと戻って行った。そして部屋に入ると、すぐにベッドの中に潜り込んだ。ただ最近いつも眠れないので、桐子は今晩もそうなることを予期していた。母方の叔父に精神科の医者がいたので、桐子の家には母が処方してもらった睡眠導入剤があり、それを飲めば不眠の悩みは解決されることはわかってはいたが、何故だかそういう気にはなれなかった。薬に頼ることは別に苦にはならなかったが、それは一瞬の解決にしか過ぎないようなそんな気がしていた。

 果てしなく続く苦しみ・・・・・・それから逃れる術はなかった。

 

 今夜もいつもと同じように、今の自分の苦しみについてただ考えていた。このままいつしか眠りに落ちたまま、もう二度と目覚めなければいいと願ったりした。またそれともこのまま天変地異でも起きて、自分が知らない間に死んでしまうことができればなんて思ったりもした。それどころか夜中に化け物が現れて、自分を殺してくれないかとさえ思ったりもしていた。

 

 苦しかった。誰も助けてくれることなどできやしない。ましてや自分で解決することなどできはしなかった。そう言えば今日の夕方ごろのネットニュースでまた高校生の自殺の記事が小さく出ていた。彼がどんな悩みを抱えていたかは知らなかったが、今となっては桐子は羨ましいとさえ思っていた。どんなに苦しいともがき苦しんでいても、桐子にはそうする勇気がなかったのだ。

 

 流されるままに流されるだけ・・・・・・。それしか桐子にはできなかった。

 

 反抗することは自分には到底出来そうもなかったし、また仮にできたとしても大したことはできないと思っていた。せいぜい何日かの登校拒否くらいだと思っていた。そんな自分に無力感を感じていた。明日が来なければいい。それは目を閉じながらいつも願っていることだった。

 テレビでは世界中の内戦やテロなど、悲惨な戦争やテロの状況を放映したりしていたが、自分と同じくらいの女の子が勉強どころか満足に食事もできず、砲弾や爆発などで死んでいくことは見ていて悲しく思った。自分はそれに比べれば遥かに物質的にも恵まれていたし、平和を享受していることは疑いのないことだったが、だからと言って決して幸せではなかった。

 中学生の時に読んだ『アンネの日記』は確かに悲惨ではあったが、ドイツ人に捕らわれるまでの彼女の生活は真実の生活であったと思う。自分がその状況に実際に置かれたとしたら、彼女のように立派に生きられるとは夢にも思わなかったが、自分の今の生活には真実も夢も何もなかった。

 桐子は部屋の明かりをつけると、いつものように今晩も眠れないことを悟ると、ベッドの中で本を読むことにした。今読んでいるのはヘッセの『クヌルプ』だった。桐子はこうしたいわゆる純文学系の作品を読んでいることを決して友人たちには言わなかったし、隠していた。ヘッセはその中でも結構お気に入りの作家であった。

 本を読んでいる間は、桐子を見知らぬ異国の古い時代に連れて行ってくれた。それがとても嬉しかった。特に名作と呼ばれるものほど、桐子の心をその作品の中に引き込むのだった。普段決して人前で涙など見せない桐子がヘッセの『車輪の下』を読んだとき、漱石の『こころ』を読んだとき、またゲーテの『若きヴェルテルの悩み』を読んだ時などには止めどなく涙が溢れ出た。

 だがそんなことは決して友人には話はしなかった。そんなことを話せば変人扱いされるに決まっているし、自分の心の中の気持ちなど話したいとは決して思わなかったからだ。

 彼女たちは個々人で違いがあるにせよ、何も気付かずに幸せに暮らしているのだから、桐子の気持ちのことなどはわかりはしないことは間違いなかった。また桐子のような苦悩の世界で生きる人間とは違うのだから、所詮精神的に違う世界で生きている人たちに話をしてもどうにもならないと思っていた。そしてたとえ自分と同じ思いを抱いている人がいたとしても、それは救いにはならなかった。

 

 桐子には誰もいない。真っ暗な迷宮の中でさ迷い続けるしかないと諦めていた。そこから逃れるには死しかないと感じていた。


 

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