3.fin『夜と霧』


 それから数日後。

 僕らは帰りの汽車に乗り込み、今は小田原の国府津門から出て東京に戻っていた。僕は行きと同じ寝台車のベッドに寝転びながら、車窓から見えるキラキラと光る太平洋を眺めている。


 あの対話室での出来事の後は、じつに平和だった。


 ツィリンはあれからずっと冬眠状態だったが、東京に戻ることが決まった瞬間に検疫機から追い出されてしまった。襲撃のせいで検疫機は行列待ちなんだ、と言わんばかりのスピーディな対応だった。

 お役所の前例主義とやらは、入る時にはねっとりと適用されるが、出る時はさっと無視されるものらしい。


 対話室を目前にして気絶させられたクルードさんは、記憶を綺麗さっぱりと忘れてしまっていた。その後は、特に仕事はなかったので小田原の歓楽街をハシゴにして遊びほうけていたらしい。

 アルナナさんは肩をすくめながら、彼の好きなようにさせていた。


 そのアルナナさんのほうは忙しかった。

 小田原の各方面を回って隅々まで視察を続けていた。特に、「東京と小田原の争点である壁外プラントは重要です」と壁外へ熱心に足をはこんでいたのは感心させられた。襲撃は退けたとはいえ、壁外はまだまだ危険なはずだ。

 僕も護衛として、アルナナさんに同行した。

 その壁外視察で最も印象的だったのは、国府津門側と早川門側の復興スピードの差だった。

 積極的に救助に出た早川門では、遠方の農業プラントでさえ職員が生存していたこともあり、すでに再稼働に向けた作業が開始されていた。流石に脳有りの職員はまだ現場復帰できていなかったが、能無しの職員たちは率先して現場に戻っており、破壊された設備の修理や壊れたスプリンクラーの代わりに手でホースで水やりなどをはじめていた。


 ある職員がアルナナさんのインタビューに応じた。

「ここの職員もたくさん死んだがよ」

 と、彼は泥まみれの軍手で額の汗をぬぐい、泣きそうな顔で歯を見せた。

「でも、おいらは助けてもらった。たくさんの免疫屋の人たちがここでトロルに食われただよ。中には爆弾抱えてトロルの群れにつっこんだ人もいたよ。……だったらよ。せめて、この米はちゃんと育てなきゃ」


 一方の早川門では、復旧はほとんど進んでいなかった。

 特に遠方の農業プラントは、ほとんどの職員が殺されたこともあり、無人状態で放置されている有様だ。わずかながらも生存者はいたが、そのほとんどが辞表を提出していた。

 アルナナさんは、その生存者にもインタビューを申し込んだ。

「逆に戻ると思っているんですか?」

 と、開口一番、生存者は逆にアルナナさんに質問をぶつけてきた。

「さっさと門を閉めて、自分たちだけ助かってやろう。それが、あんた達、保健省のやり方なんでしょ?」

 それから続く罵詈雑言をアルナナさん黙って浴び続けた。

 本来なら今は収穫の季節のはずなのだが、国府津門側の農業プラントでは、作物はそのまま放置されていた。重くなりすぎた稲穂は、張ったままの水田の水に浸かり、腐敗臭をあたりに漂わせていた。


 そんな数日間が過ぎ、ツィリンの症状を確認したアルナナさんは何かを決意するように「東京に戻ります」と宣言した。


「カタリ君の捜索は?」

「中断します。小田原のことを報告するために戻るべきでしょう。私だけで判断すべきではない事が起きてしまいました」


 ——かくして、

 僕は再び寝台車で寝転び、海で反射した光をページに落として本を読んでいる。国府津門を後にする前に、モリタさんの古本屋で買った『夜と霧』だ。

 貴重なエロ本が並ぶあの古本屋に一般向けの本棚もあったのだ。そこにこの『夜と霧』がひっそりと差し込まれていた。すでに読んだことがある本だったが、最近の出来事を整理するために読み返したい、と手にとってしまった。


 生きる意味って何なのだろう?


 精神科医のフランクルによる『夜と霧』はそれを考えるのに最も適した一冊だろう。彼がレヴィナスと同じ、第二次世界大戦を行きたユダヤ人であることはおそらく偶然なんかじゃない。

 フランクルもまた、強烈な他者の悪意に直面しつづけたのだ。

 大戦中、ナチス・ドイツは民族浄化をかかげ、ユダヤ人を虐殺した。フランクルとその家族もナチスに拘束され、あの悪名高い強制収容所に送られたのだ。

 フランクル自身の記述によると、アウシュビッツ駅に連行されるなり選別がはじまり、労働力にならないと判断された九割のユダヤ人は毒ガス室に送られて殺されたそうだ。フランクル自身はその選別を生き延びたが、その後の過酷な強制労働によって、仲間たちは次々と自殺していく。

 その地獄の様子が『夜と霧』に描かれている。


『そこに十二歳の少年が運びこまれた。靴がなかったために、はだしで雪のなかに何時間も点呼で立たされたうえに、一日中、野外労働につかねばならなかった。その足指は凍傷にかかり、診療所の医師は壊死えしして黒ずんだ足指をピンセットで付け根から抜いた。それを被収容者たちは平然とながめていた。嫌悪も恐怖も同情も憤りも、見つめる被収容者からはいっさい感じられなかった。苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者。これらはすべて、数週間を収容所で生きた者には見慣れた光景になってしまい、心が麻痺してしまったのだ』


 アルナナさんは幸せを生存のための機能と言った。

 しかし、フランクルはこの幸せとは無縁の地獄を三年間も生き延びた。衰弱死だけでなく、自ら命を絶つもの多かったのに。なぜ、フランクルは生き延びたのだろうか。

 フランクルは言う。

 過酷な労働中に彼はあることに気がついた。生死がさだかではない妻のことを思い出すと、絶望的なこの状況であっても、まるで太陽が微笑みかけているような安らいだ気持ちになることに……。


『そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した』


 ——愛、か。と思わず口元がゆがむ。


 残念だけど、その真理は僕には合わない。

 聖書になじみがなく、他人に共感できないサイコパスの僕には無理だ。いや、ひょっとしたら、僕も結婚したら分かるのだろうか? 

 ふと頭によぎった妄想に笑ってしまった。

 知ってるか? 結婚には相手が必要なんだよ、と自嘲する。他人のことを本当に考えたことなんて、僕にはなかったじゃないか。レヴィナスもそう言っているだろう。

 またページをめくる。

 愛なんかじゃない。どこかに僕向けの適当な言い訳は書いてないだろうか。


『被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ』


 これかも、しれないな。

 その文字を指でなぞり、「苦しむことにも意味があるはずだ」と口に出してみる。少なくとも、愛なんかよりも僕には実感がわく。

 またページをめくる。


『必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることになにかを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。もういいかげん、生きることの意味を問うのをやめ、わたしたち自身が問われていることを思い知るべきなのだ』


 英語でいうところのcallingってやつだろうか? 神が呼びかけてくる使命、天命、天職といった意味だ。

 だとすれば、僕が人生から求められているのはトロルを殺すことだろう。少なくともアルナナさんは僕にそれを期待している。そして、僕は他の人よりも人殺しが得意みたいだ。

 本当にそんなのが僕の結論でいいのか? 『夜と霧』を閉じて天井を眺めた。


「バクバさん」

 と、枕元の伝声管でんせいかんからツィリンの声が鼓膜を刺した。

「こちら、バクバ。聞こえているよ」

「トロルと思わしき人影が見えた。一体、進行方向12時、距離600メートル。先頭デッキに来て」

「了解した」と本をベッドに置き去りにして立ち上がる。机に寝かせていたアサルトライフルを肩にかけながら「アルナナさんへの報告は?」

「まだ、これから。オーバー」


 ツィリンにはもう銃を持たせてある。

 教えるべきことはもう教えたつもりだ。彼女の腕ならトロルに対処できるはずだが、僕を呼び出したか。スポッターの補助がいる距離でもないだろう。まぁ、万が一のための支援にはなるだろう。

 首を傾げながら、寝台室を出て通路を進む。

 程なくして、ゆっくりと汽車が止まりはじめた。報告を受けたアルナナさんが汽車を停止したのだろう。同乗していた他の免疫屋たちも次々と外に出て、周囲の警戒をはじめる。


「よぉ」と途中でクルードさんが声をかけてきた。「嬢ちゃんの初仕事だな」

「ツィリンなら、小田原で活躍しましたよ」

 足を止めずに応じる。

「ああ。トロルの群れに脳をさらしたらしいじゃねぇか。俺が言った通りだ。あの嬢ちゃんは早死はやじにする」

「……」


 先頭のデッキに出ると、そこにはスコープを覗き込んでいるツィリンの背中が見えた。彼女は坊主にされた頭を防疫フードで隠している。


「状況は?」と声をかける。

「標的は徘徊中。こっちにまだ気がついていない」

「おっ、ちょいと面倒だな」とクルードさんが後ろで声をあげた。「フラフラしてやがる。新バージョンのグール型かもな」


 トロルのウイルスはいつの間にか機能が更新されることがある。

 たしか、数年前からグール型の行動パターンに変化がおき、止まっていてもフラフラと体を揺らすようになったのだ。

 グール型の殺処分は遠距離からの狙撃がセオリーだが、このバージョンアップ以降、狙撃の成功率が下がってしまっている。


「まだ、トロルと断定できないわ」

 ツィリンはスコープを覗き込みながら、そう短く答えた。

「おいおい。いいかげんボッチのマネはやめろ。まさか、威嚇射撃するつもりか? お嬢ちゃん、まだ脳にトロルが残ってんじゃねぇのか」

「うるさい。ビビってんなら隠れてろ」

「ったく。この俺がせっかく親切で言ってやってんのによ」


 クルードさんはそう言いながらもニヤニヤと笑った。どうやら、このまま鑑賞するつもりのようだ。


「バクバさん」

「なに?」

「教えてちょうだい。ちゃんとしたやり方。トロルにならずトロルを殺す方法」


 難しいことを聞かれてしまった。

 ちゃんとした・・・・・・やり方——、そんなものがあるとしたら、それは苦しみ続けることかもしれない。決めつけないで、自分を疑い続け、それでも諦めない。

 レヴィナスじゃないけれど、分かるわけがないことを分かった気にならないこと。


らくしないことかな?」

 と自分なりの言葉にしてみる。口にした瞬間、それも違うかもしれないなぁ、と予感できた。

「そうなの?」

「ほら、深呼吸して」とツィリンに促す。

 彼女が大きく息を吸い、すぅーと細長く口から吐いた。

「今回は全部、君がやるんだ」

「はい」

「一射目は威嚇いかく、トロルかどうかを確認後に二射目。照準は頭ではなく胴体がいいと思う」

「顔を見れば撃てなくなるから?」

「そういう事情もある。けど、今回は別の理由もある。この距離なら胴体でも接近されないだろう。それに頭だと共有脳も破壊してしまうかもしれない。そうなったら、身元の確認も難しくなるし、……」


 さて、どう伝えたものか、と迷った。


「追加の報奨金がたんまりと出るからな」

 とクルードさんが口をはさんだ。

「報奨金?」

「トロルの共有脳を回収して、街に持っていくと金一封だ。どこでも共有脳は不足しているからな。初期化して再利用に回すのさ。ちなみに、裏で横流しすればもっと金になるぜ。なんなら紹介してやろうか?」

「まぁ、いずれにせよ」

 と、僕は咳払いをした。

 お金は重要だ。しかし、その価値を勘違いしてお金ばかりになって欲しくはなかった。何でもお金で買える、という決めつけは好きじゃない。

「今回は頭は狙うべきじゃない」

「……分かった」


 彼女は銃身をデッキの手すりにのせて固定し、射撃姿勢に戻った。

 僕も自分のアサルトライフルのスコープを覗き込んで、標的を確認する。ゆらゆらと体をゆらしながら線路の上で立っているだけのそれは、威嚇の必要を感じないくらいにグール型のトロルに見える。

 照準の目盛で距離をはかると、ざっと350メートルだろう。威嚇後に全力疾走でこっちを襲ってきても、40秒くらいは余裕がある。


「準備よし」

「威嚇、撃て」と答える。


 タン、タン、タン、と彼女の銃口から白煙が吹き、銃弾が標的の周りの地面を叩いた。

 標的は振り返ると、こちらに向かって駆け出した。両手が千切れそうなくらいに振り回し、口をだらりと開けたまま。まるで『ドーン・オブ・ザ・デッド』のゾンビみたいに全力疾走するそれは明らかにグール型だった。

 標的が動き出したことで、狙撃の難易度がハネ上がる。クルードさんのような免疫屋が威嚇確認を省略するのは、こういう現実があるせいだ。


「トロルと断定」とツィリンは言った。

「こちら確認」と僕も応じた。「殺処分」

「二射目、撃ちます」


 タン、と放たれた銃弾はトロルの心臓を正確に射抜いた。

 見事な腕だ。

 普通なら、グール型は撃たれてもしばらくは走りつづける。しかし、今回は心臓を抜かれたせいか、すぐに倒れ込んで動かなくなってしまった。


「……よくやった」


 僕はツィリンを褒めた。




 東京本部の対話室への扉は、小田原のそれよりもはるかに巨大だ。


 その門は一人で開けることはできないほどに分厚く、左右に控えている屈強な兵士に押し開けてもらう必要がある。小田原では防疫官が対話室を警備していたが、東京では軍が担当しているのだ。


 アルナナはその兵士たちに向かって入室の許可を求めた。


 対話室を守る兵士たちには個性というものがない。

 洗浄室には四人の兵士がつねに控えているが、その身長はほぼ同じだった。兵士たちは黒づくめの戦闘服を身にまとい、室内だというのに防疫用のフードで頭を覆っている。その顔は隠されているが、アルナナは全員が同じ顔つきであることは知っていた。

 Gene Optimized Army——通称GOAと呼ばれる彼らは、戦闘に特化して遺伝子を調整された兵士たちだ。


「アルファ・ナナ様」と隊長らしき兵士から声をかけられた。「の確認が終わりました。直接、お会いするとのことです」

「ありがとうございます」

「こちらへ」


 GOAの隊長に導かれて対話室の門へと進む。

 それにしても奇妙な兵士たちだ。

 自律型戦闘兵器オート・キリングが主力となった軍隊において、人間の役割は倫理判断となり、兵士は不必要になったはずだ。しかも、彼らは銃を持っていなかった。その鍛え上げられた体躯を見回しても、腰に下げる拳銃すら見当たらなかった。

 ここが東京の壁内だからではない。壁外での戦闘でさえも、彼らは銃を使わない、と聞いたことがある。

 唯一、彼らが所持している武器は腰の裏側にすえた短刀だけだ。それはバクバさんがよく使う短刀とよく似ていた。隊長の腰にある短刀を眺め、ためしに聞いてみた。


「なぜ、あなた達GOAは銃を持たないのですか?」

「それが師の教えだからです」

 兵士の返答は端的すぎた。

「なぜ、あの御方を師と呼ぶのですか?」

「我々に稽古をつけていただいた御方ですから」


 銃を使わない時代遅れの兵士たちから、師とあおがれる社会大脳。やっぱり、あの御方は私の理解の遠いところにいる。


「ここからはお一人でお願いします」

「ありがとうございます」


 隊長は巨大な対話室の扉を押し開いた。

 そこに足を踏み入れると気温が下がった。見た目は巨大な図書館のようだった。本棚のように立ち並ぶサーバーラック、床は強化ガラスでその下には配線がびっしりと巡っている。天井もまるで大聖堂のように高く、壁にも埋め込まれたサーバーの電子光がプラネタリウムのようにまたたいている。

 その中央にすえられた寝椅子ねいすに横たわっている白髪の老人こそが東京の社会大脳だ。サンのような対話インターフェースだけを担うモジュールではない。

 この御方は、社会大脳システムを束ねる中枢カーネルなのだ。


「報告にもどりました」とその場で膝をつく。「お久しぶりです。ロク様」

「ナナ、……のアルファか」


 社会大脳——ロク様はわずかに身をおこして目をほそめた。

 すでによわいは120歳を超えられているはずだが、その眼光に曇りはない。長い白髪に、顔面を走る深いしわには威圧感がある。膨大な東京市民の経験を処理できるのは、この御方の異常な脳容量がゆえだ。


「ご質問があると聞き、参りました」

「ああ。お前が報告した小田原の件だ」ロク様はゆっくりと目を閉じた。「ようやく、私の想定から外れた事象が起きた。少し、思索に付き合ってくれ」

「私などで良ければ」

「お前が良い。この年になっても妹のクローンに頼ってしまうとは……。まぁ、お前はナナよりもグランマのほうに似ているせいかもしれん」

「私は、ナナとしては無能ですが」

「我が妹の異能は、我が父がいたからこそだ。やはり、私などでは不足だったのだよ」


 ロク様は寝椅子を起こされて、こちらに向き直った。

 その後頭部に集約されているコードは、小田原のサンと比べて数が桁違いに多い。ロク様の後頭部へと収束するそのコードは部屋中に広がり、まるで神が背負った後光のようにも見えた。


「そのようなことは」

「よい。それよりも話をさせてくれ。すでに報告は脳に入れてある」

「お手間をかけます」

 私が思念通話ができればお手間をかけることはないが、ロク様と私では脳容量に差がありすぎる。

「まず、簡単なことから片付けようか」と、ロク様はあごひげをなでた。「小田原が始めた、側坐核への電気刺激についてだな。これを黙認して、経過を観察することにする」

「かしこまりました」


 これは予想通りのご判断だった。


「同時に、お前から提案された対策もすべて承認した」

「ありがとうございます」

「特に、小田原への農業ドローン供与の拡大はもっと早くに対応すべきだったな。小田原市民の壁外作業を減らすことができよう。この問題を放置していた小田原担当には脳の最適化が必要だな」

「はい。そちらもプリセットの調整をいたします」

「うむ。して、小田原の監視役を増やさなければなるまい……。候補はいるか?」

「小田原の東門、国府津門の門番を担当する極道系免疫屋グループの組長と話をつけてあります。モリタという男で、定期輸送の監督を担当しており、適任かと。自然脳ですので嘘をつくことのストレス耐性も高い。本人の了解はすでに得ています」

「なるほど。極道者か。系列は?」

「東京の黒条会傘下です。そこの三次団体で小田原ではもっとも大きい組織です」

「黒条会か」と、ロク様にはめずらしく顔をしかめられた。「あれは昔から抜け目のない連中だ。気をつけるがいい」

「はい」

「それにしても、直接電気刺激による幸福度の調整とその都市行政への活用……。ようやく、その可能性に気がついた者が現れたか」


 ロク様は少し嬉しそうに口元をほころばせた。


「小田原市長が示した方針は、ロク様が過去に検討されたれた内容とほぼ同じでした」

「そのようだな」

「東京でも、共生フローラ地区に限定した上で検証くらいは良かったのでは。生存機能である幸福が阻害される問題は前にお聞きしましたが、その他にご懸念があったのでしょうか?」


 もし他にも問題があるのなら、あらかじめ小田原に伝えておきたい。今さら中断をせまるつもりはないが、できる限りの支援は続けるべきだ。


「かつて、マズローが唱えた欲求五段階仮説というものがある」

「はい」

「極めて素朴で厳密ではないが、それゆえに理解しやすい仮説だ。欲求の段階は、生理的、安全、社会的、承認、自己実現へとより高レベルへと発展していく、とマズローは考えた」

「ええ」

「この内、電気刺激のような単純刺激で調整できるのは、ドーパミン、セロトニン、オキシトシンなどの脳内物質が誘引する幸福感覚だけだ。これらは社会的レベルまでの低レベルの欲求に位置する。すなわち、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求の三つ。まぁ、オキシトシンあたりはわずかに承認欲求レベルにかかわるかもしれないが、それでも自分で自分を承認できるレベルまではとどかないだろう」


 黙ってうなずく。

 生存に必要な機能としての幸福は生存に関わる範囲に限られる。自分自身を受け入れたい、自己を実現したい、そんな欲求は満たせるわけがない。


「これらの低レベルな欲求は東京ではすでに充足している。わざわざ、過剰に電気刺激してやる必要性はなかろう」

「……」

「ただし、小田原などの境界都市では事情が異なる。トロルの襲撃から安全の欲求がしばしば脅かされているゆえ、脳の電位操作は有効な政策となりうるだろう。しかし、東京では不要だ。あえて検証する必要もない」

「なるほど」


 幸福にもレベルがあるのだ。

 確かに、東京に住む私のことを考えると、生理的、安全、社会的な欲求はすでに満たされている気がした。しかし、より高レベルな承認と自己実現の欲求はどうだろうか。自己実現と言われても曖昧すぎて実感がわかない。

 私は……、別に今のままで十分な気もする。


「東京市民の課題はより高レベルな欲求だ」

 しかし、ロク様はそう断言した。この人がそう判断されたのであれば、それは東京市民の総意なのだろう。

「特に自己実現のための個性の問題が深刻化している」

「個性、ですか?」

「経験を脳にコピーできるようになったせいだ。まぁ、お前はそんな昔のことは知らないだろう。昔は、遺伝子の影響が強すぎて個性は自然に発生してしまうものだった。その多くは格差の種となり、多くの人に絶望を与えた」

 ロク様は寝椅子に背をあずけた。

「遺伝子最適化に共有脳……。それらで問題を解決してやっても、今度は逆問題を訴えてくる。大衆とは厄介なものだ。真の民主主義をめざして社会大脳システムを作ったのだが、ままならぬな」

「……少しお休みになられては?」


 ロク様が愚痴をこぼされるとは珍しい。

 負荷の高い悪意を排除しているとはいえ、東京市民の経験を処理し続けるのは相当な負担がかかっているはずだ。その上、私のような末端の相手までいただくのは間違っている気がした。


「いや、大丈夫だ」とロク様は咳払いをした。「話を戻そう。これらの高レベルな欲求はおそらく、脳への電気刺激で誘発できる反応ではない。低レベルの動物的反応をつかさどる小脳ではなく、高レベルの人間的な活動をつかさどる大脳への介入が必要だろう」

「すなわち経験や記憶への介入。ロク様が開発された共有脳はそれを可能にしました」

「共有脳がなかった時代にも、神話や論説といった虚構で他者の脳を制御していた。聖書や法律がその典型だろう。共有脳とてその延長にすぎん。しかし、そこからダウンロードする他者の経験では自己実現は得られない。そもそも、実現すべき自己はそれぞれの個人が探さなければならない。我々がすべき支援は、なりたい自分になれる共有脳システムの運営に限定するべきだ」

「市民のそれぞれが決めるべきだと?」

「そうだ……。実のところ、市民たちに、実現すべき自分、なるものを提示することは技術的には可能だ。社会に不足している人材とそれぞれの脳特徴から、その個人が社会的承認を得られやすい職業スコアリングは簡単だ。しかし、それをやると私が神になってしまう」

「私などから見れば、ロク様はすでに神のようですが」

「いや、私はしょせん出来損ないの息子だ。流石にそれが分からぬほど未熟ではないさ」


 ロク様はゴホゴホと咳き込んだ。

 ご高齢のため余命も短いだろう。この御方がお亡くなりなれば、東京はどうなってしまうのだろうか。クローンである私が、オリジナルであるナナ様ほどの能力を持てなかったのと同様に、ロク様の由来の兄弟たちもまたそうだった。


「さて、小田原の市長が感染している新種のトロル・ウィルスについてだが」

 ロク様は息を整えて、ぐっと目を閉じた。

「ふむ。便宜上、カタリ型と呼ぶことにしようか」

「はい」

 それこそがこの対話の本題だ。

「トロル発症者を誘引し脳交換を行う感染タイプか」

「カタリ型の感染者が、別のトロル感染から治療した例が確認されています」

「つまり、他のトロルを淘汰とうたしうるタイプか。しかも、脳交換によりその多様性を拡大し続けている」

「はい」


 ふむ、とロク様は天井を見上げた。


「ここにきてようやく、私の想定を超えたトロルが現れたな」

「しかも、カタリ型は知性を有するタイプで、感染者たちで集合的な思考すら可能なようです。小田原市長が感染したことからも、すでに他の都市でも感染が拡大していると想定されます。東京でも元防疫官であるオオゴタがカタリ型に感染していました」

「なるほど。すでに中枢部にまで感染しているのか。素晴らしい感染戦略だな」

「病原体と思わるカタリは、すでに東京を出て行方がつかめません」

「その青年は引き続き捜索するべきだろう。しかし、……もっと気になるのはこのツィリンという感染者だ」

「彼女がですか?」


 少し意外だった。

 気にかけるならカタリ本人、あるいはスマ市長だろう。それなのに、なぜ、あのロク様が彼女に。


「この娘、百体以上のグール型から集中的な思念感染を受け、それを跳ね除けて完治したそうだな」

「はい」

「異常な耐性だ。奇跡とすら言える。それはカタリ型の感染者であることが要因なのか、それとも、この娘の特有の性質か」

「……彼女に特別なものは感じたことはありません」

「であればカタリ型の特性か。そうであれば、カタリ型はこの共有社会が抱える課題を解決しうるだろう。もう一度、よく考えてくれ。近くで観察していたお前はどう考える?」

「私は……」


 ツィリンさんは不幸な生い立ちではあるが、虐待家庭としてはむしろ典型的なほうだろう。彼女のような少年たちは他にもわりといた。

 そんな彼女は、ある意味、予測どおりにトロルを発症した。脳洗浄を拒否したのだってそれほど珍しいパターンではない。その後、殺処分を免れるために黒い脳になったのは、むしろ一般的でさえあった。

 どこにもいる、年齢相応にワガママな娘だ。

 バクバさんに憧れ、免疫屋になりたがっているようだったが、正直なところ長くは続かないと予測していた。

 でも、そんな彼女が自分をおとりにして小田原の救出作戦に貢献したと聞いた時、思わず耳を疑ってしまった。


「彼女のことはあまり印象には残っていないです。幼少期に性的虐待を受けていたことが特徴と言えますが、幼少期のそのようなトロル的経験は脳を萎縮いしゅくさせます。脳容量の低下は、悪意への過剰反応につながり、むしろ感染率は上昇する傾向があります」

「ならば、この耐性はカタリ型がゆえか?」

「……分かりません。同じくカタリ型に感染していた元防疫官には、彼女のような耐性はありませんでした。トロルに感染していた彼は殺処分になりました」

 殺したの私だ。車で跳ね飛ばした記憶がふと頭をよぎって、目をとじる。私はやるべきことをやったのだ。ああしなければ、バクバさんが殺されていたのだから。

「ふむ。では、なぜこの少女が? そこを知りたい」


 なぜだろう。なぜ、彼女は感染に打ち勝てたのか?

 市長に感染していたカタリの治療によるものか? いや、ツィリンさんの脳内は何度も調べた。その治療の痕跡は、確かに独特なアプローチではあったが、あれだけで感染したトロルを追い出せるわけがない。

 ツィリンさんと他の感染者の違い。それはなんだろう。


「……もしかして、それが自己実現なのでしょうか?」

「ふむ」

「ツィリンさんには成りたい自分の明確なイメージがありました」具体的にはバクバさんだ。「彼女の身近にその人が存在していた。だから、トロルに侵食されながらも、自分を見失うことはなかった」

「断言はできんが、そのあたりかもしれんな」

 ロク様はゆっくりとうなづいた。

「高レベルの自己充足が悪意に対する耐性を高める……。この娘はしたっている免疫屋を思い浮かべ、カタリはその思念を増強するアプローチを採用した。ふむ、このカタリとやらは天才だな」


 あのロク様が他人を天才と呼んだことに驚いた。私たち兄弟姉妹に対してでさえ、そのように呼ばれたことはない。


「娘が憧れる免疫屋を見て対話するたびに、電気刺激でドーパミンを分泌させる。つまり、彼を見るように強制的に動機づけ、悪意を無視させた。……ドーパミン的幸福の機能は覚えているか?」

「学習です」

「そう習慣の形成だ。努力と呼ぶこともある。それは個性の形成に関わる重要な機能であり、共有脳によって退化が懸念されている機能でもあるな」

 バクバさんへの説明では中断されてしまったが、ドーパミン的幸福の機能は学習と動機づけだ。厳密に言えば、行動を反復させる機能だろうか。

「ネズミの脳に電極を埋め込み、押せば側坐核を刺激するレバーを設置する。この動物実験では、ネズミは食べることすら忘れてレバーを押し続けた。中には一時間に千回もレバーを押した個体いたそうだ。明らかな中毒だが、すなわちそれは努力であり習慣でもある」


 本来のドーパミンは、努力して食べ物を獲得した時に分泌される。

 その作用により、私達に同じ努力を繰り返させ、より多くの食べ物を獲得できるよう動機づけを行う。そうやって、ドーパミンは私たちの学習行動を制御している。成功するための努力を惜しまず、無駄な努力は避けるように……。


「つまり、ツィリンさんはバクバさんを見るように学習させられた」

「この場合は調教と呼んだほうが正確だろう」

「……そんな治療法が」

「効果はあった。まだ一つの事例にすぎないが」


 それを狙ってやったのなら、確かにカタリは天才だ。

 ロク様は首筋を叩いて、周りにホロ・ウィンドウを無数に出現させる。

 それは私が報告したツィリンさんの記憶だった。バクバさんの記憶ばかりで、バクバさんがトロルと戦っている記憶が多い。

 ロク様は拝むように両手を合わせる。


「あわせて」と深く息をはかれた。「もらって、かえす」

「……」

「しかし、行き着いた答えが自己犠牲かね。……あまりにも未熟すぎる。それは勘違いだよ。与えた自分が死ねば、相手は返せずに和合はならぬ。自己を犠牲にせねばなせぬ技など稽古不足の言い訳に過ぎん」


 ロク様はよく意味の分からないことをつぶやかれる。


「あ、あの」

「ふむ。独り言が出たか。気にするな」

「いえ……。あの、であれば、彼女の異常は耐性はバクバさんが原因なのではないでしょうか?」

「それはこの男のことか。フツノ・バクバ。……ニィの弟子か」


 と、ロク様は珍しく鼻で笑った。

 普段の思慮深く落ち着かれた表情とは違う。まるで虫けらを刺し殺すような残酷な目で、周囲のバクバさんが戦っている映像を睨みつけていた。


「つたない」

 ロク様は吐き捨てるようにつぶやかれた。

「腹は浮き、足は迷い、体もまとまらず。ゆえに心は霧散し、相手の間に踏み込んでゆずる余裕もなし。あれなんぞ、半歩であるべき間を一歩で踏み潰しておる。それでは、相手を殺すことしかできまいて。……しまいには銃まで使いよるか。そんなもので殺した命から、こやつは一体何を学びとるつもりか?」

 そう一気にまくし立てたロク様は疲れたように、はぁ、と深い息を吐かれた。

「なぁ、ニィよ。本当にこの程度の男がお前の弟子なのか?」



 ————『トロル』 三章:了




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『ドーン・オブ・ザ・デッド』(監督ザック・スナイダー)

 ハリウッドでゾンビ映画が流行る前のゾンビ映画。ゾンビはゾンビでも、本作のゾンビは走るゾンビで、独特の恐怖がある。



『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル、訳:池田香代子、みすず書房)

 言わずと知れた名著であり、近代以降の文芸と文学を代表する一冊だと思います。また、歴史的資料としても価値があるでしょう。

 私は、同年代で同じユダヤ人であったレヴィナスと比較しながら読んでしまいました。レヴィナスもフランクルも、ナチス・ドイツから強烈な悪意を経験し、その上で名著を残した点で共通しています。

 しかし、レヴィナスが他者の恐ろしさを記述したのに対し、フランクルは絶望の中で希望を指し示しました。本書では、強制収容所の中でさえ生きることを諦めず、生きる意味を悟った実体験をつづっています。

 『夜と霧』の後には、合わせてフランクルの『それでも人生でイエスと言う』を読めば、フランクルのその力強い哲学がよく理解できると思います。


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