3.14『』
結局のところ、ツィリンは再び検疫機の中で冬眠させられてしまった。
てっきり、病室に移されると思ったのだが。カタリ君は、お役所は前例主義ですから、と片目を閉じてうそぶいた。百体以上のトロルから思念感染を受けた前例はなく、もちろんそこから回復したという前例もありえない。お役所仕事的には、とりあえず氷漬けが妥当とのことだ。
「それに元感染者を病棟に混ぜるわけにもいかないでしょう。ただでさえ、黒い脳を嫌がる人は多いですからね」
カタリ君は肩をすくめた。
「それに、頭の穴をふさいで、ビリビリにした脳の毒抜きも必要ですからね。そんなわけで、あと数日は冬眠してもらいました」
「そう」一応、納得はできる。「後は、アルナナさんになんと報告するか」
「そうなりますね」
冬眠検疫機にツィリンを入れ直した後、僕らは廊下に出た。
ボタンを押すたびに人形のように笑う彼女の姿が脳に焼き付いていたが、彼女が助かったことは良かったはずだ。そう自分に言い聞かせていると、カタリ君が正面にまわりこんできた。
「ねぇ、バクバさん。見せたいものがあります」
「市長の仕事は?」
「冷血漢! ツィリンが治ったら、僕なんてもう用済みですか」
わざとらしくスネて見せているが、その体は大柄な市長のものだ。なかなかに気持ち悪い
「ご心配なく。市長としての仕事も兼ねてます。バクバさんはあくまでもついで。うぬぼれないでください」
「へぇ」
「こっちこっち」
カタリ君が歩き出したので、おとなしくその背中を追いかける。途中、いくつかのセキュリティを抜けて、一緒にエレベータに乗り込んだ。
「そういえば」と、カタリ君は地下行きのボタンを押した。「国府津門では、かのアルナナ氏が指揮をとったようですね」
「アルナナさんが?」
「ええ、不幸にも殉死してしまった担当防疫官の緊急代理だったようです」
反対側の国府津門でも襲撃があったことは聞いていた。
アルナナさんもそこで活躍していたのか。どういった経緯で指揮をとったのかは分からないが、流石はエリートというべきところか。彼女の防壁なら文字通り完璧だっただろう。
「結果として、早川門と国府津門はどちらも防壁に成功しました」ぱちぱち、とカタリ君は手を叩く。「が、しかし、その方針は対照的。これは評価が分かれるところでしょうね」
「と、言うと?」
「簡単に言えば、僕たち早川門が救助に積極的だったのに対し、国府津勢は消極的でした。市民の救助を早期に打ち切り閉門したそうです」
「その判断もありだろう」
実際、ツィリンの犠牲がなければ救助隊は全滅だったのだ。
「マニュアル通りのね。まぁ、優秀とは当たり前のことを徹底することですから、やはり、アルナナ氏は絵に書いたようなエリートなのでしょうよ」
その口ぶりからは、アルナナさんに対する批判的なニュアンスが感じられた。
「異論が?」
「僕はトロルですから、常に異論ばかりですよ。面倒くさくて、ひねくれていますからね」と、肩をすくめる。「しかし、かの優秀なるアルナナ氏は小田原全体を見渡す視野に欠けている、と言わざるを得ませんね」
「……」
「襲撃があるたびに市民を見捨てていたら、誰も壁外で働こうとはしなくなるでしょう。それで東京が要求する供給を確保できるでしょうか?」
「まぁ、言いたいことはなんとなく分かるよ」
「合理的な消極策ではどん詰まり。なら、現状を打ち破る積極策が必要になる。そうすると、どうしても型破りで非常識なアプローチになる」
「それが脳ビリなのか?」
「少なくとも、この
エレベータが地下五階で止まり、扉がひらいた。
「なるほど」と頭をふる。「でも、やっぱり脳ビリは不安だ」
「なぜ? 悪意に感染した人間すら呼び戻せるのに」
「でも、ツィリンは電流で変なことを言い出したじゃないか」
セックスがどうのは置いておくとしても、ボタンを押す度に笑う彼女は不気味すぎた。
「僕は変とは思いませんけどね、電流はきっかけに過ぎないでしょうから……。でも、ようやく、『闇の脳科学』の問いかけに戻りましたね」
地下の廊下を歩きながら、カタリ君はこちらを振り向いた。
「そろそろ、答えは出ましたか? 幸せになれるボタンを実感したばかりでしょ? さぁ、人はこのボタンを押すべきでしょうか」
「分からないよ。多分、一生分からないままだろうね」
「なんだ。つまらない。本当につまらない男ですね」
「まぁね」
そんな取りとめのない会話をしながら廊下を曲がると、突然、先導していたカタリ君が足をとめた。
廊下の先には人が倒れていた。防疫官の白いコートを着ている二人。その後頭部にはチカチカと緑色の光が点滅しているのが見えた。
検疫針だ。
「気絶させられている」
「まさか、対話室に侵入者が?」とカタリ君は声を落とした。「……バクバさん、案内はここまでです。人格をスマイルに戻します。荒ごとは彼のほうが上手くやれるので」
「ああ」
「名残惜しいですが、さよなら」
カタリ君は機械脳のスイッチを入れると、小脇に抱えていた兜をかぶった。
数秒ほどして、「ほぅ」と野太い息が彼の口から漏れた。
「まったく、カタリははしゃぎ過ぎる。まさか、対話室にバクバ君を連れてくるとは」
「市長……」
市長に変わった彼は、面頬をカシャと下ろして表情を隠した。
「いや、転じて
「ええ、もちろんです」
「はてさて、奥にいるのは鬼か蛇か? いずれにせよ、社会大脳に万が一のことがあっては小田原は終わる」
その声にいつもの笑みはなかった。
あの不敵な市長をこうまで緊張させる対話室とは、どうやら社会大脳と関係する部屋らしい。気になるが、今は余裕がなかった。
「僕が先行します」
「すまん。たのむ。応援はすでに思念で要請したが、ここを知る防疫官は限られている。現場を離れて久しい幹部たちでは頼りにならんだろう」
「できるだけやってみます」
倒れていた二人をまたいで、彼らが守っていたであろう扉ににじり寄った。分厚い扉だ。ためしに耳を当ててみる。向こうの物音はおろか、振動すら感じることができない。せめて、相手の人数と武器くらいは把握しておきたいのだが。
……しょうがない。出たとこ勝負だ。
扉の大きなレバーに手をかける。体重をかけてみると手応えは軽く、すでにロックは解除されていた。重厚な音がして、扉がゆっくりと開きはじめる。
「ロックも突破されているのか」と後ろから市長が声をもらした。「侵入者はどうやってセキュリティを抜いた?」
「……」
扉の隙間から向こうをのぞく。
襲撃者らしき人物は見えない。警戒していた待ち伏せもない。おっとりと扉を押し開きつつ、腰の短刀に手をかけながら周囲を確認する。
……本当に誰もいないのか。
いや、よく見ると床に人が倒れていた。向かいに次の部屋へと続く扉があって、その前で仰向けになっていた。警戒しながら近づき、その顔を覗き込んでみる。長髪で、背の高い男だ。
「……クルードさん?」
急いで、彼の後頭部のソケットを探ってみるが、検疫針は刺さっていなかった。そのまま首筋に指をあてて脈を確かめると、心臓は動いているようだ。念のため、鼻の下に手のひらをかざす。呼吸もしている。
心臓が動いていて呼吸もある、それなのに気絶?
「彼は、アルナナ氏の黒い脳か?」
「ええ」
「どういうことだ?」
僕も首をかしげざるを得なかった。
小田原の秘密の部屋の前でクルードさんが倒れていた。しかも、彼ほどの凄腕が気絶させられている。侵入者と戦ったのか? でも、部屋にも彼の体にも戦闘の形跡がほとんど見られない。
「敵だとすれば、相当の手練でしょう。侵入者は次の部屋でしょうか?」
「そうだろう。ここは対話室の手前にある洗浄室だ。彼女との対話の前に、脳を検疫するためのな。侵入者はすでに対話室の中だ」
「このまま、踏み込みます」
「頼む」
注意しながら、対話室への扉に手をかけた。
こちらもすでに解錠されてしまっていた。重量のあるその扉をゆっくりと開ける。隙間から中を覗き込むと、正面に二人のほっそりとした人影が重なっているのが見えた。
一人はまだ小さい女の子だ。そして、もう一人はその子を後ろから抱きしめている。女だ。髪の長い、切れ長の目で、なで肩の……。
「アルナナ、さん?」
「驚きました」とアルナナさんは困ったように首をかしげた。「バクバさんでしたか。どうして、ここに?」
「それはこちらのセリフであろう!」
市長は怒声を張り上げて、僕よりも前に進み出た。
「東京の防疫官が、小田原の対話室に不法侵入だと。しかも、インターフェース様と! 貴様、今、自分が何をしているのか分かっているのか?」
「ええ」
と、アルナナさんは涼しげに答えた。
「ならば答えてみせよ! なぜ、貴様はインターフェース様と直結している?」
アルナナさんは女の子とコードで直結していた。
しかし、僕が驚いたのはそれだけじゃない。
女の子の後頭部には、他にも無数のコードが接続されて、まるでそれが彼女の長い髪のように見えた。その無数のコードは床をはって対話室の全体に広がっている。それを目で追いかけて、ぐるりと部屋を見渡した。
まるで図書室のように大きな棚が並べられていたが、そこには本ではなくサーバーが差し込まれていた。女の子から伸びるコードは、そのサーバーとつながっている。
「ナナお姉さま?」
その女の子がアルナナさんの腕のなかで首をかしげた。
おそらく、市長がインターフェース様と呼んだのはその子だろう。
「なにかしら? サン」とアルナナさんは微笑み返す。
「スマイルのおじさまが怒ってらっしゃるわ。私達、いけないことをしてしまったのかしら?」
「スマイル?」
「あぁ、ごめんなさい」と彼女は口に手をあてた。「スマ市長でした。とっても面白くて、優しいお方なんです。いつもはそう呼ばさせて頂いてました」
「いいですよ。小田原の社会大脳を代弁するあなたが、その市長と良好な関係を築くことは大切なことですから」
アルナナさんが女の子の頭をなでてやると、女の子は目を閉じて、まるで猫のようにアルナナさんの胸に額をこすりつけた。
「……答えて、いただこうか」と市長が二人の会話に割って入る。「インターフェース様の前で、いかなる
「ええ、万が一にでも、社会大脳に悪意を混入させてはなりません」
「今、まさに貴殿がやっている事はそのリスクを犯している」
「私に悪意があると思うなら、思念通話でお話しましょうか?」
「馬鹿なことを」と市長は歯ぎしりをした。「貴殿がインターフェース様と直結したその状態でか? 私の脳容量で耐えられるわけがあるまい」
「そうでした。失礼いたしました」
素直に頭をさげたアルナナさんは「サン。もう十分でしょう。そろそろ終わりです」と言うとうなじに刺したコードに手を伸ばす。
「ええ〜」と女の子は口を尖らせたが、すぐに頷いて。「……分かりました。でも、ナナお姉さま、また来てくれる?」
「努力します。せっかく小田原まで来たのですから。あなたに会えて良かったわ。恐ろしいトロルも、バクバさんと市長が追い払ってくれたみたいですよ」
「良かったぁ」
胸をなでおろした女の子は、名残惜しそうにアルナナさんとのコードをつまんで抜いた。
アルナナさんがそのお尻を叩くと、女の子はその膝の上からぴょんと飛び降りる。
「さて、続きは思念通話で」
「……いや」と市長は腕を組んだ。「このままで十分だ」
「私を疑っておられるのでは?」
「貴殿と私では脳容量に差がありすぎる。思念会話は同じレベルでなければ意味がない。より
「私に隠し立てすることなどありませんのに」
「では、なおのこと声で十分だろう。まずは質問に答えてもらいたい。なぜ、小田原の社会大脳と直結していた?」
社会大脳?
ということは、あの女の子が社会大脳というのか。いや、市長たちは彼女をインターフェース、ここを対話室と呼んでいた。だとすれば、社会大脳とはここにある無数のサーバーで、この子はそれと接続しているだけなのか?
「万が一にそなえて、社会大脳のバックアップに参りました」
アルナナさんは立ち上がる。
「もし小田原が感染するような事態に発展すれば、社会大脳の保護と回収が最優先となります。すでに正規の手続きを申請する
「気絶していた防疫官、それと貴殿の黒い脳は?」
「二名の防疫官はクルードに命じて検疫針による無力化を行いました。その後、対話室に入る直前でクルードにスクリプトで記憶の消去と脳機能の一時停止を命じました。彼に社会大脳システムを見せるわけにはいきませんので」
アルナナさんは淡々と質問に答えていく。
もしかしたら、アルナナさんは僕が思っているような女性ではないのかもしれない。
市長は拳で兜をガンガンと叩くと、次の質問を絞り出した。
「して、貴殿は一体何者だ?」
「……」
「単なる防疫官ではあるまい。普通の防疫官なら、社会大脳との直結など絶対にしない。そもそも、インターフェース様のキャッシュメモリが漏れただけでも脳容量がオーバーするはずだ」
「……」
アルナナさんは黙った。
「加えて、貴殿はインターフェース様と親しいようだな」
「すでに、ご市長が想像されている通りかと」
「ではなぜ、貴殿ほどのお方が防疫官などしている」
「私はナナでも出来損ないですから」
「貴殿はアルファではないのか?」
「……それ以上のご質問はご容赦ください」
「むぅ」
市長はそれで押し黙り、しばらく兜を揺らして考えていた。やがて、大きなため息を面頬の隙間から吐き出して「分かった」と野太い声を発した。
「つまり、貴殿を小田原に派遣したのは東京の社会大脳の指示か」
「あの御方の判断は、東京市民の判断でもあります。社会大脳には市民すべての経験が蓄積されていますので」
「悪意をのぞいた後の、だがな」
「悪意に基づいた判断は誤ることのほうが多いですから」
「東京に悪意がないと言うのかね?」
「東京の社会大脳はお優しい方ですよ」
「まぁ、そうだろうよ」
その後、沈黙がしばらく続きいて二人の会話は終わったらしい。
喧嘩にはならなかったようだ。緊張が和らいぐと、インターフェース様と呼ばれた女の子が僕に向かって駆け出した。彼女が走ると、その後頭部につながった無数のコードが波打って、床をぺちぺちと叩く。
「ねぇねぇ。あなたがバクバさん?」
「えっ、あ、はい」
と、女の子と目線をあわせるために膝をつく。
「フツノ・バクバさんよね?」
「そうです」
「ふ〜ん。なるほど、ね」と女の子は腰の後ろで腕を組んで、上目遣いに僕を見た。「ねぇ、お姉さまのこと好き?」
そう聞いて後に、彼女は「きゃー」と叫びながらぎゅっと目を閉じた。
「え〜と、お姉さまって、アルナナさんのこと?」
「うん」
もちろん、好きだよ——。
そう答えようと口を開いた瞬間、「サン!」とアルナナさんが鋭い声を出した。
キャッ、と鳴いた彼女はアルナナさんの方に今度は駆け出して、彼女の胸の中に飛びついた。「なんてことを言うの」「だって、だって」とまるで年の離れた姉妹のようにじゃれ合いはじめる。
……アルナナさんって何者なんだろう?
さっき市長も言っていたけど、普通の防疫官ではないようだ。
「バクバさん」
そのアルナナさんが女の子にまとわりつかれながら、こちらに近づいてきた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。それにしても、どうしてここに?」
「あっ」
言葉につまって、後ろの市長に助けをもとめる。本来は自分のような一介の免疫屋なんか来ては行けない場所だ。もしかしたら、消されるかもしれない。
「私が連れてきたのだ」と市長が口添えしてくれた。
「どうしてでしょうか?」
「防壁後の市政をインターフェース様と相談するつもりだったが、警備の防疫官が倒されていた。他の防疫官は防壁に出ている。近くにいる腕の立つ免疫屋はバクバ君しか思い浮かばなかったのだよ」
嘘ではないが、かなりオブラートに包んでいた。流石は政治家と言ったところだろうか。
「なるほど。筋は通ってますね」
「そうであろう」
アルナナさんは腰にまとわりついていた女の子の肩に手をおき、かがみ込んで彼女と目を合わせた。
「それじゃあ、サン。そろそろお互いにお仕事に戻りましょう。市長さんから相談事があるそうよ」
「お姉さまはもう帰っちゃうの?」
「ごめんなさいね」とアルナナさんは女の子の頬をなでる。「サンはまだまだ小さいのにね。私が代わってあげられたらいいのだけど」
「……ふむ、待ち給え」
立ち上がろうとしたアルナナさんを、市長が呼び止めた。
「もう少しなら同席しても構うまい」
「よろしいのですか。私は東京の者ですが」
「その通りだが」と市長は咳払いをした。「すでに防壁は成功したのだ。インターフェース様にはいつも負担をかけてしまっている。ご家族である貴殿と会えるのは貴重な機会だろう」
「私は単なる防疫官です」
「それでも
「……ご配慮ありがとうございます」
アルナナさんが頭をさげると、女の子が市長めがけてぱっと飛びついた。
「スマイルのおじさま、大好き!」
「ほほっ、これは参りましたな。一応、お仕事でございます。いつものようにお手伝い願います」
と、いかつい兜から、甘くとろけたような声が出てきた。
「うん。がんばる」
「ほら」と市長は女の子を床に降ろす。「せっかく、お姉さんに会えたのですから。今日はあちらにおゆきなさいませ」
「ありがとう」
彼らは対話室の中央にある机を挟んで椅子に腰掛けた。アルナナさんは女の子を膝の上にのせて、他愛のないおしゃべりをしている。
あの変人の市長にも人間味があったのか、と僕はほっこりしながらも、邪魔にならないように退出しようとした。
「待ち給え、バクバ君」
「はい」
「ちゅうど良い。相談内容は君と議論していたことをテーマをしよう。おそらく、それが小田原と東京の埋まらない差になっている」
「はぁ、何でしたっけ?」
「脳に電流を流せるようになった人類は、簡単に幸せになっても良いのか? だよ」
市長は腕を組んで、アルナナさんと女の子を見た。
「さぁ、社会大脳よ。教えてくれたまえ」
◇
「サン」とアルナナさんは膝の上にのせた女の子の髪をなでた。「まずはあなたが答えてください。脳深部刺激について小田原の市民はどのように感じていますか?」
「はい」
女の子は目を閉じて、首筋を指でとんとんと叩く。
周りのサーバーの駆動音が一段と大きくなった気がした。アルナナさんも市長も女の子をじっと見つめている。
「おまたせしました」
女の子は目を開いた。
「小田原のみなさんは、脳深部刺激を好意的に受け入れています。夜はぐっすり眠れて、朝が待ち遠しくなったとか。引きこもっていた子どもが外に出るようになったとか。以前よりも前向きな気分になれた、と感じている人がほとんどです」
「補足すると」と市長が指先にホロ・ウィンドウを表示させ、そこに棒グラフを映し出した。「脳深部刺激のスクリプトを配布した以降、トロルの自然発症数は顕著に抑制されている」
「その直接的な効果は明らかですね」とアルナナさんもうなずく。「サン、市民に懸念はありますか?」
「はい。……ギャンブルにはまってしまったとか。泳げないのに海に飛び込んでしまったとか。まわりから性格が変わったね、と言われたとか」
「典型的な副作用ですね」
「それと……」
「なに?」
「自分たちで電圧を調整したい、って言う人がたくさんいます。市が自分たちの脳の電気量を規制するのは個人の自由への侵害だ、と考えている人が増えてきました」
『闇の脳科学』にも、同じような事例が書かれていた。
ある重度の神経症患者が脳に電極を埋め込む治療を受けた後、その後の経過診断で医者に「もっと電圧を上げることはできないか」と訴えた事例だ。その患者は続けて「もう少し、幸福度を上げても良い気がする」とも言った。
「ええ、……やはり、それが問題でしょう。市長もこれが論点であるとお考えでしょうか」
「もちろんだ」
「市長のお考えはすでに承知しているつもりですが、改めて教えていただけますか?」
アルナナさんは細長い指を形の良い顎にあてて、少し首を傾げた。その仕草を膝の上に座っている女の子がおどけて真似てみせる。
こうして見ると二人は姉妹のようによく似ている。いや、歳の差的には親子だろうか。
「最大のトロル予防は市民の幸福度を高い水準で保つことだ」
「ええ」とアルナナさんもうなずいた。「トロルに対抗するためには、市民は幸福でなければなりません」
「では、どうやって幸福度を保つか? 特に、トロル襲撃が頻発する境界都市では幸福水準を維持するのが困難だが、東京よりもリソースは限られている」
「その解決法が脳深部刺激療法だと?」
「そうだ。このシステムはまだ日は浅い。運用上のエラーや問題は確かにある。例えば、一部の免疫屋が装置を違法改造していることも把握はしている。しかし、この街で防疫に携わってきた人間として、これが現状を打破する解決法なのだと、私は確信している」
市長は力強く言い切った。
……為政者の事情から語られたそれには確かな覚悟が感じられた。その判断が良いか悪いかは分からないが、トロルの脅威が少ない東京に住んでいる自分が否定することは難しい。
小田原市民とつながった女の子も大きくうなずく。
「……以上だ。東京の見解を聞かせてくれたまえ」
市長は椅子に背を預けてながら、その太い腕を組んだ。
「私が東京を代表するわけではありませんが」とアルナナさんは髪を耳の後ろにかけ直した。「実は、脳の電気刺激については、過去に東京でも検討したことがありました」
「本当かね」
「ええ。しかし、最終的には社会大脳は却下されました。否定というよりも、判断に悩まれた上での保留のようでしたが」
「その理由は?」
「幸福の機能を阻害する、と社会大脳はおっしゃっていました。それによる長期的な悪影響をまだ読みきれない、と」
「幸福の機能?」
「ええ」
「幸せとは目的だろう。少なくとも、そのために人は生きている」
「生きているのは現象に過ぎず、そこに意味も目的もない。あの御方はそうお考えになり、幸福とは脳に組み込まれた機能だと捉えています。そのお考えを説明するのは簡単ではありませんが……。バクバさん」
突然、アルナナさんに名前を呼ばれてハッと顔をあげる。
僕も、幸福は機能だと言われて、どういうことなのか、と考え込んでしまっていた。
「こちらへ。あの方がおっしゃっていた幸福機能論を説明しますので、そのお手伝いを」
「あっ、はい」
「私の目の前に立ってください」
「はい」
言われるがままにアルナナさんの近くに直立不動になる。
足元にあの女の子もよってきて、こちらを興味深げに見上げていた。その瞳は大きくて赤い。異様に色素が薄い肌をした透明感のある子だった。
「まず、幸福を定義するために分類してみます」
「幸福を分類?」
「ええ、ここではドーパミン的幸福、セロトニン的幸福、オキシトシン的幸福の三つとしますね」
「ドーパミンって、たしか脳の何かですよね」
脳でドーパミンがドバドバ、という危ない薬のキャッチフレーズを聞いたことがある。
「厳密には脳だけではなく、筋肉や内蔵を動かす時もドーパミンは出ますよ。私がドーパミン的幸福と呼ぶのは、脳で分泌されたドーパミンが側坐核などの報酬系を刺激して感じる幸福感、という意味になります」
「はぁ」
「他にも、セロトニン的幸福、オキシトシン的幸福などがあります。つまり、人が幸福を感じる時には、ドーパミンが分泌されて感じるパターン、セロトニンが分泌されて感じるパターン、オキシトシンが分泌されて感じるパターン、と反応を分けることができます」
「ふむ」と市長はうなずいた。「そこまでは基礎的な脳科学だな」
僕は脳科学は基礎のキも知らなかったけど、「なるほどですね」と理解したような相づちを打つ。知ったかぶりだけど、話が進まないのも困る。
アルナナさんはうなづきつつ、僕に向き直る。
「まずはセロトニン的幸福について。セロトニンが作用すると血行や体温調整をうながし、安心感やストレス耐性を高めます。昔の精神安定剤は、セロトニンの分泌を促進し、
「はぁ」
「薬に頼らずとも、日光を浴びてもセロトニンは分泌されます。例えば、北半球の北部になるほど自殺率が増える傾向があります。日照時間が短いので、そこに住む人のセロトニン分泌量が不足してしまうのが原因だとも言われています」
それは本で読んだことがあった。
都道府県別の自殺率では秋田とか岩手など、東北地域がトップになってしまうのだ。国別になると貧富の差もあって断定はできないけど、グリーンランドやロシア周辺のユーラシア北部の国が上位にくる。
「つまり、セロトニン的幸福が機能しなければ人は自殺する、と表現することができます。幸福とは生存するための機能であり、自殺とはその機能不全の結果に過ぎません」
「幸せは機能……」
「幸福機能論の考え方ではそうなりますね」
アルナナさんは一歩、僕に近づいた。
「ところで、バクバさん?」
「は、はい」
「毎日、ちゃんと外に出て太陽の光をちゃんと浴びていますか?」
「たまに、家で本や映画ばかり見てますね」
たまに、だったかな?
「お食事はちゃんとしていますか?」
「え、ええ。今日は蕎麦でしたけどね。蛇の天ぷらでした」
「あら、変わったものを召し上がられましたね」と彼女は笑った。「それで、よく噛んで食べましたか?」
「えっ」急に母親みたいなことを言ってくる。「いや、蕎麦ですから、こうズズッと」
落語家のように二本指で箸を真似て、口元に寄せる。
「ダメですよ」
アルナナさんは人差し指を僕の目の前にもってきた。
「よく
「へぇ」
「他にも、散歩やランニングなどの運動。夜ふかしせずにグッスリと寝ることも重要です。他には深呼吸するとセロトニンが分泌されますよ」
「なんか。健康的なことばかりですね」
「そう、その通りです。それがセロトニン的幸福の正体です」
アルナナさんはにこりと笑った。
「私たちがちゃんと健康的な生活をすることでセロトニンが分泌されます。セロトニン的幸福の機能は、私達がちゃんと健康的な生活をするように動機づけすることです」
さて、とアルナナさんは首をかしげた。
「それなのに、脳に電流を流すだけでセロトニン幸福を得られたら、どうなるでしょう?」
「みんな、外に出なくなる?」
「ええ、市民全体が不健康になってしまうかもしれません。その社会実験はまだ誰もやっていませんので、分かりません。けれど、およそ十万年以上も人間を生き永らえさせてきた脳システムへの挑戦。そういう試みである、とあの御方は懸念されていました」
アルナナさんはまた一歩こちらに歩み寄った。社会的に許されない近さまで来て、彼女の胸の先が僕の胸に触れた。
「次にオキシトシン的幸福ですね」
「あ、あの?」
距離をとろうとする僕の肩に、アルナナさんは両手をおいた。
「私を抱きしめてください」
何を言われたのか、すぐに理解できなくて「はぁ」と気の抜けた返事をしてしまった。
「優しく、でも深く抱きしめてください」
「え……」
「お願いします」
ちらりと視線を下に逃がせば、女の子が瞳を輝かせえて僕を見ていた。彼女も僕にむかって「こんじょー、みせろ」と拳を振ってみせた。
「あ、あの」
「お願いします」
「で、では。失礼します」
できるだけ胸には触れないように肩をまるめ、彼女の背中に腕を回してみた。あまりにも柔らかい肉だった。
一体、どういう流れだ?
もしかして、誰かがアルナナさんの脳にハッキングして、電流が流しているのだろうか。
「もっと」と彼女が耳元でささやいた。「お願いします」
「は、はい」
「頭もなでてください」
「……」
「はやく」
彼女の後頭部に手を添えて、その息が首筋に吹きかかるくらい引き寄せる。
なんだか体がポカポカする。
エッチな感じもするけど、夏の海の波みたいに、胸を満たす何かであふれそうな感じ。
「今、私とバクバさんが感じているのがオキシトシン的幸福ですよ」
「えっ」
アルナナさんが急に説明口調に戻ったので、びっくりした。
「大切な人と話し、触れ合い、頭をなでてもらうと、脳内でオキシトシンが分泌されます。女性なら出産時や赤ちゃんへの授乳時に大量のオキシトシンが分泌されますから、愛情ホルモンと呼ぶ人もいますね」
「な、なるほど」
この頭のくらくらは、オキシトシンのせいなのか。
「人は非常に社会的な動物です。個の身体能力は低くとも、大規模な集団を形成することで繁栄してきた
「あ、あの、それとこの状況に何の関係が?」
「この社会を形成する遺伝的機能が、今、私とバクバさんが感じているオキシトシンかもしれません」
つまり、このくらくらした感じを求めて、僕らは他人とコミュニケーションをしたがる、ってことか。
「このオキシトシン的幸福によって、私たちは孤独になると悲しくなり、他人と触れ合おうと動機づけられています。まるで兎のように、人は孤独に耐えられないように設計されている。バクバさん。どうして、動物は群れをつくるのでしょう」
「分かりません」
もう、頭の中が真っ白でしどろもどろだ。
アルナナさんの柔らかい肉の感触と匂いのせいで、過剰に分泌したオキシトシンが脳をぐちゃぐちゃにしているのだろうか。
「子作りに有利だからですよ」
ふふ、とアルナナさんが笑った。
「オキシトシンはそうやっては人を集め、関わらせ、子どもを産ませ、人類を繁栄させてきました」
「……」
「さて」
アルナナさんは僕の肩に両手をおいて距離を離し、向かい合って視線を合わせた。
「いよいよ、ドーパミン的幸福ですね」
ドーパミン!
ドーパミンはダメだ。僕でもそれは知っている。危険だ。それは性欲とかにかかわる、とても危険な何かだと本に書いてあった。
「ア、アルナナさん!」
「どうしました?」
「そろそろ、その、もう十分に分かったといいますか。これ以上はその……」
「お嫌でしたか?」
「いえ! 全然。むしろ、最高だったというか……。その、これ以上は、小さい子も見てますので」
と、足元でこちらをじっと見ている女の子を指差した。
「……そうでした」
突然、アルナナさんは急に頬を赤らめて、身をぱっとはなした。そして、視線を下に向け、女の子を睨みつけた。
「サン、あなたのせいですよ」
「え〜」
「サンが直結したい、なんて言ったからです。私も久しぶりでしたから、脳が酔ってしまったようです」
さっきまでのエッチな感じは消え去り、いつもの彼女に戻って頭を下げてきた。
「申し訳有りません。実は、直結には副作用がありまして……」
「ええ」
「脳直結には強烈なオキシトシン的幸福が伴います。まるで、幸福の海で
「は、はぁ」
「それで、……少し、積極的になり過ぎていたのかもしれません」
「いえ、全然、大丈夫ですよ」
いやいや、本当に役得でした。ありがとうございます、と手を合わせて頭を下げる。
「さて」
と彼女は咳払いをした。
「市長、
アルナナさんはいつもの冷静な表情にもどって、市長と向かい合った。
「いや、面白いものを見せてもらったよ」と市長は兜を揺らした。「ふむ、もしかしたら、私は貴殿を信頼しても良いのかもしれないな」
「どういうことでしょうか?」
「いや、深い意味はない。話を戻そうか」
市長は椅子から立ち上がって、そこらへんを歩きながら語り始める。
「東京の見解は承知した。安易な脳深部刺激は人類の遺伝子に刻まれた生存機能を阻害することになる。そう、東京の社会大脳殿はご懸念されているのだな」
「そうです。あの御方はもっと深く思慮されているようですが……。付け加えれば、脳の直接刺激を否定しているわけではありません。あの御方は、小田原でのその社会実験を新たな経験として受け入れるでしょう」
「なるほど。我々の
と、市長は歩みをとめ、指で十字をきる。そして、僕に向かって、面頬をあげて笑顔をむけた。
「バクバ君」
「はい」
「私の答えは出たよ」
「……」
「原初の人は楽園にいた。しかし、知恵の果実を盗み食い、神によって追放された」
突然、市長は旧約聖書の神話を引用した。
「ゆえに、簡単に幸せになることを許されないこの現世で、苦しみながら生きていくしかない。千年以上前から、答えは出ていたのかもしれんな。……君の答えも見つかると良いな」
「……ええ」
そして、この対話は終わった。
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