3.13『顔』

 検疫針で気絶させたツィリンは、小田原に帰還するなり冬眠型検疫機ハイバー・スキャナーに入れられた。


 その道すがら、市長は何度も僕に言い聞かせてきた。

 今回の貢献に非常に感謝している。しかし、感染した黒い脳を市中に入れることは難しい。冬眠させることが条件だ。検疫結果を見て、担当の防疫官——つまり、アルナナ殿と協議して最終的な処置を決めることになるだろう。

 そして、円筒形の冷蔵庫に入れられたツィリンは、細い息でガラスケースを白く曇らせている。

 彼女の後頭部には太いコードが差し込まれ、接続された計算機はうなり声をあげて、脳の中の悪意を計算していた。


 でも、計算するまでもなく、結果は分かっている。


 彼女は自分を犠牲にして、多くの人を救い、そして感染した。

 検疫機はそんな事情なんて考慮しない。共有脳をソートして、感染の進行度合いを数値化するだけだ。つまり、グール型ウイルスによる記憶消去と悪意上書きの進行スコアだ。


「なぁ、ツィリン」とガラスケース越しに彼女に語りかける。「やっぱり、免疫屋になんて、なるもんじゃないよ」

「まだ、そんな事を言っているのかね?」


 振り返れば、市長が検疫室に入ってきたところだった。

 出迎えようとしたのだが、その太い大きな手を突き出されてしまう。


「いい。そこに座り給え」と向かいの椅子をすすめられた。

「いえ、このままで」

 今は彼女の顔を見ていたかった。これは自分の、もう何度目か分からないくらい繰り返してきた過ちだった。

「こんな状況なのに、ツィリンを優先していただきありがとうございます」


 廊下からは駆け回る職員たちの喧騒けんそうが聞こえる。

 本来、冬眠検疫機はまだ治療の可能性がある者のために使うべきだろう。今回のような緊急時には、明らかな感染者はその場で殺処分するのがセオリーだ。

 冬眠検疫機に入れるべき市民は他にもいる。それなのにツィリンが優先されたのは、市長の配慮による特別扱いだろう。


「礼にはおよばんよ。こちらにも打算があってのことだ」

「打算?」

「彼女の脳を確認したかったのだよ。どれ、まだ残っている記憶はこんなところか」


 市長が首筋を叩くと、いくつかのホロがこちらに集まってきた。

 それらが映し出しているのは、ツィリンの記憶映像だ。

 一つのホロ・ウィンドウにはアルナナさんが映っていた。こちらに語りかけてくる。「ツィリンさんには視察をお願いします。早川門の現状をよく見て記憶してください。脳深部刺激の実態を東京本部に報告しなければなりません」

 すると、映像は上下に揺れてうなづいた。


「東京側にも打算がある」と市長は腕を組んだ。

「つまり、それって」

「そうだ。この少女が何を見たのか、それがどのように東京本部に伝わるのか。私はそれを事前に確認する必要があった。君の防疫官よりも先にね」

「こんな時に政治ですか」

「ゆえにツィリン君を小田原市民よりも優先することができた。そう考えてくれ給え。君たちに感謝しているのも嘘ではない。ただ偶然、そこに政治的な価値もあった。二兎を得られるなら、追うべきだろうよ」

「……お上手ですね」

「下手なら市長をやめるべきだろう」

「だったら、市長にとってはツィリンを殺処分した方が良かったのでは?」

「さて、」


 彼女を殺処分し、共有脳を破壊してしまえば、その視察記憶も消えてしまうだろう。感染したので殺処分した、と言えば東京も文句はいえないだろう。


「どうかな? 君が嫌いな政治は」と市長はあごをなでた。「それほど単純ではない。仮に彼女の記憶が消えても、別の視察が送られてくるだけだ。今度は最初からあら探しを目的とした厄介な視察だ。だとしたら、防壁に成功した彼女の記憶のほうが都合が良いかもしれない」

「……」

「冬眠中なら感染は止まる。今のうちに、そっと彼女の記憶だけ取り出すことも可能だ」

「だったら、その記憶を改ざんするつもりですね。小田原に有利なように」

「ふむ」

 市長は肩をすくめた。

「どうもバクバ君には、私が悪党か蛇にみえているようだ。ストレスで脳がやられたのかね? もし、幻覚型のトロルを発症しているなら、ぐっすりと寝ることだ。自然脳の君ならそれだけで回復するだろう」


 そう指摘されて、はっと我に帰った。

 もし、市長に思惑おもわくがあるのなら、そもそも僕にこんな話はしないだろう。少なくとも、僕を検疫室に入れたことには純粋な好意のはずだ。


「……申し訳ございません」

「もう少し補足しておこう。シナプスコーディング技術で東京をあざむくのは不可能だよ。小田原は設備も経験も圧倒的に劣っている。そもそも、小田原の社会大脳は東京に比べておさなすぎる。脳深部刺激を導入した理由は、彼女の負担を和らげるためでもあるのだから」

「はい。ありがとうございます」

「分かってくれたのなら嬉しいよ。バクバ君も我々の英雄だからな」


 市長はそう笑い飛ばしながら、宙に浮かんだツィリンの記憶映像をじっと確認した。映し出された記憶は、早川門で一緒に食べた蛇天の蕎麦、救出に向かう汽車の風景、農業プラント駅での防衛戦、などだった。


「ふむ、概ね問題はない、か……。後は、東京の社会大脳がこれをどう判断するか。なにせ、向こうは世界最大の脳だからな」

「あのツィリンは?」

「ああ、すまん。ちょうど検疫も完了したところだ」


 市長は指をパチンと鳴らし、ホロ・ウィンドウを彼女の脳スキャン結果に切り替えた。

 ホロに表示された彼女の脳はまさに血まみれだった。

 赤く点滅する脳部位ごとの周波数や数値は、僕には理解できない。でも、真っ赤なそのディスプレイは彼女の脳がすでに手遅れな状態をしめしていた。


「……真っ赤ですね」

「ああ、なにせ、百体以上のトロルからの同時思念感染を受けた。前代未聞のDOS攻撃だ」

 市長は腕を組んで黙り込んだ。時折、兜を拳でガンガンと叩いていたが、やがて唸るように声をもらす。

「正直なところ、絶望的と言わざるをえん」

「……」

「小田原のあらゆる防疫官、検疫官に見せても同じことを言うだろう。彼女はすでにトロルである、と」

「アルナナさんに見せてください。あの人なら、もしかしたら」

「どうかな? 優秀である彼女こそ数値的な判断に徹するのでは? もちろん、やぶさかではないが」

「ですけど! ツィリンは、みんなを助けるために、」

「自らを犠牲にして小田原を守った者なら、彼女以外にも多くいた」


 確かに、多くの免疫屋たちが防衛ラインを文字通り死守した。中には食われながらも手榴弾で自爆した者さえも。


「でも、あれは脳ビリで、」

「電気刺激によって、彼らが英雄的な気分になっていたことは否定しないが」

 市長はまるでキリスト教徒のように胸の上で十字をきった。

「それでも、雄々しく戦い、仲間を救うことに懸けたのは事実だ。それで救われた者も多くいる。彼らの犠牲に落ち度があったのかね?」

「……」

「私に言わせれば、十代の少女をして百体のトロルに立ち向かわせ、自らをおとりとさせた。普通の少女をそのような英雄に育てた君こそ、どうなのかね?」

「どういう意味ですか」

「君の指導をかいま見たよ。殺しを肩代わりしていた。素晴らしい指導だと思う。あの経験は彼女の脳にどんな影響を与えたのだろう。もしかしたら、電気刺激よりも強く、英雄的な願望を刺激したのでは?」

「まだ子どもだったんです」

「いや、この少女は免疫屋だった。君がそれを認めずにどうする?」


 それ以上、言葉が出てこなかった。この兜と話していたら、何がなんだか分からなくなってくる。


「落ち着きたまえよ」と市長は手をあげた。「ここで君と言い争うつもりはない。そんなことよりも、彼女に一縷いちるの光を求めるなら試すべきことがあるだろう。なぜか君はそれを忘れているようだが」

「えっ」

「トロル治療の天才がいる。変態的なまでにトロルを愛した彼が」

 市長は兜をトントンと指で叩いた。

「今、ここ。私の脳内に」

「……まさか」

「そう、カタリだよ。厳密には私もカタリらしいが、やはり彼はものが違う」

「カタリ君なら」

「彼女を治療できるやもしれん。我々が殺処分に明け暮れていた裏で、彼だけがトロルを愛し続けたのだから」


 そう言った市長は、おもむろに兜を脱いだ。

 髪のない頭の額の部分から機械がむき出しになっている。その表面のギザギザの排熱版から熱風を吹き出し、フィンの回転音がかすかに聞こえてきた。脳に埋め込んだ機械脳が呼吸している。

 ふと、『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーを思い出した。


「人格をカタリに明け渡すには機械脳をシャットダウンしなければならない」

「今から?」

「時間はあるまい。私の用事はもう済んだのだ。君の嫌いな政治は終わりだ。今は彼女を救うことに集中しよう。たとえ、無駄であったとしても、その無駄の積み重ねこそが、私たちを人間的な範囲にとどめてくれるだろう」


 市長は右耳の上あたりにあるボタンを指で押し込みながら、左耳のレバーを下ろした。すると、額に埋め込まれた機械がビープ音を鳴らし、排熱の風が途絶える。


「むぅ」

 市長が唸ると、あの張り付いたような笑みがはがれ落ちた。

「つくづく、私はもう人間ではないな。機械脳がなければ笑えないのだよ。他人と共感する力を失ってしまった。なぜ、もう感染しているトロルを治療しなければならないのか? さっきまで確かに実感していたその意義が、今では腑に落ちてこなくなった」

 まったく表情を動かさずに、市長はそうつぶやいた。

「つまるところ、前頭葉といっしょに私の人間的な部分も消えたのだ。はやく、カタリに変わらければ。カタリこそ、我が人間性のくさび」


 市長は目を閉じて、もう一度、その首筋を指で叩いた。

 ガクリ、と重たそうな機械脳の頭が垂れ下がった。どうなったのか息をのんで見守っていると、やがて、市長の頭が持ち上がる。

 市長の表情は一変していた。口角が悪戯っ子のように弓なりに上がり、片目を閉じて「あぁ〜」と首を回す。こころなしか、声色すらも少年のように変わった気がする。


「お久しぶりですね。バクバさん」

「カタリ君?」

 彼は両手を回して肩をほぐした。

「ええ、にくはこのとおりスマイルのですけどね。あっ、この場合の肉というのは、メルロ・ポンティが定義したところの肉ですよ。この世界を知覚し知覚される我が肉体です」

 彼は市長だった体の太い腕で力こぶをつくってみせた。

「いうなれば、この僕はスマ・カタリと呼ぶべき変異体です。この肉を通して触れる世界観においては、バクバさんが小さく見えますね」

 彼はその太い指で輪っかをつくって、望遠鏡のようにこちらを覗き込んでくる。

「今ならバクバさんを殺してあげられるかもしれない」

「君はいつでも僕を殺せるさ」

「顔さえ見なければ?」


 カタリ君はくっくっと笑いを噛み殺した。


「サルトルが恐れた眼差まなざし、レヴィナスが対峙した顔。そのどちらの哲学もこの現世の地獄性を正確に表現している。つまり、こわいこわい他者は僕らを睨みつけて怒鳴り、僕らはその視線と言葉で切り取られてしまう。他者の顔を目の前にすると、この肉はすくんでしまうのです」

「カタリ君」と彼をさえぎる。「今は時間がないんだ」

「愚かですねぇ。今のが無駄話だと? 違いますよ。彼女を救う方法を考えているのです。僕はおしゃべりしながら考えるタイプですからね。そちらこそ、邪魔をしないでいただけますか?」


 市長の肉に宿ったカタリ君は、ツィリンの記憶を映しているホロ・ウィンドウに手を伸ばした。


「ツィリンを治すには、レヴィナスは悪くないアイデアだと言っているのです」

「レヴィナスって、顔のレヴィナス?」

「おや、尻のレヴィナスなんていましたっけ? 新手のフロイト派の心理学者でしょうか?」


 哲学者のレヴィナスは他者の『顔』を重視した。

 僕たちは他者との関係にいつも苦しんでいる。では、その僕を苦しめる他者とはなんだ? レヴィナスはその他者を「私と違うもの」と再定義し、他者が『顔』となって私と対峙する、とこの世界をとらえ直した。


「そのレヴィナスと治療に何の関係が?」

「そもそも、僕は治療なんてできませんが……、まぁ、今は置いておきましょうか。貴方は愚か者ですから、貴方に期待しすぎる僕も愚か者になってしまう」

 ふぅー、とわざとらしいため息を彼はつく。

「さて、トロル感染って、そもそも、レヴィナスが警告したことそのものなのです。言っていること、分かります?」


 思わず首をかしげた。

 百年以上前の哲学者がトロル感染を予見していた、と言うのだろうか?


「お分かりになりませんか?」

「全然、まったく」

「愚鈍な上に怠惰とは!」と指をさされた。「トロルは他者に自分をコピーしようとする。それが不可能なら殺して食べてしまう。そうでしょ?」

「少なくともグール型はそうだね」

「それって、つまり、レヴィナスの言う他者の完全な否定なんですよ。で、思い出してください。レヴィナスは何と言ったでしょう?」

「……『他者とは私が殺したいと思う唯一の存在』かな」

「そう、正解です。暗記だけはできるようですね」


 カタリ君はぱんぱんと手を叩いてみせた。

 実のところ、まだよく分かっていない。そもそも、レヴィナスの哲学はかなり難解で、もともと理解していない。

 さっきの答えだって、レヴィナスの有名な言葉の中からなんとなく選んだだけだ。さらに質問されたらボロが出る、と身構えたが、カタリ君は勝手にしゃべりだした。


悪意トロルは、理解できないものにイライラすることです。でも、他者とは理解できないものです。理解できてしまったら、それは他者じゃなくなってしまう」

「そうなの?」

「そうですよ。例えば『自分の子ですからよく理解しています』なんて言う親って、わりとトロルでしょ。古いスラングですが、毒親とかDV彼氏とか、他人であるはずの子どもや彼女を、理解したと決めつけて、実際のところ否定しているだけ」

「な、なるほど?」

「本気で他者に向き合うなら、絶対に理解できないことを覚悟した上で、その『顔』と向き合うべきだ」


 カタリ君は市長の大きな手で僕の顔をはさんで、僕とじっと目を合わせた。


「そんな覚悟もなく、相手を雑に理解した気になって、反抗されたらだけで怒り。相手を変えようとする。まるで、毒親が子どもに理想を押し付け、DV彼氏がお前が悪いんだと言いながら殴るように」

「……」

「レヴィナスはユダヤ人でしたから親族をナチスに殺され、自身もフランス軍兵士として戦いました。まぁ、インテリだった彼は通訳兵でしたけどね。それでも、殺し殺される環境にいたレヴィナスにとって、他者への悪意を哲学のテーマにしたのは当然でしょう」


 カタリ君は、一本指を僕の目の前にたてた。


「さて、また問題です。では、どうやって他者とつきあうのか?」

「……いわく『存在のひらけのなか出会われる顔を人は殺すことができない』?」

「イエス」とカタリ君は指を鳴らす。「毒親もDV彼氏も相手の『顔』なんて見ようともしない。しくもバクバさんがツィリンにこう教えたようにね。だから相手の存在を否定し、殺しても平気なのです」


 カタリ君はホロ・ウィンドウを一つ、こちらに向けて投げた。

 その記憶映像には僕の顔が映っていた。僕は知ったような口ぶりで「頭を狙うな」とツィリンに向かって言っている。


「……目を合わせると相手を殺せなくなる」と自分のセリフを自分でなぞる。

「そうです。トロルも免疫屋も『顔』から目をそむけている。せっかく他者と触れ合うためのにくを持ちながら、それで殺し合いしかやらない」


 やはり免疫屋とはトロルと同じなのだ。相手を否定すれば、相手も僕を否定するしかない。それは当然のことで、カタリ君だけが例外だった。


「そして、今、彼女の脳内では『顔』を見ようともしないトロルたちが暴れ回っています。愚か者の貴方が無邪気に期待する治療法なるもの、そんなご都合のよろしいものが、仮にこの世にあるとすれば、」

 カタリ君はぱちっと指を鳴らして、僕をじとりと見た。

「それはただ一つ。彼女の『顔』を見てくれる他者の存在でしょうよ」

「……」

「ちなみに、バクバさんのことですよ」


 ぐっと唇を噛んでしまう


「なぜ、僕なんだ?」

「ビビっていたらツィリンは助かりませんよ。ツィリンが見ている『顔』はバクバさんだからです。彼女の『顔』を見ない。つまり、それは彼女を見殺しにする、ということです」

「……」

「少なくとも、ツィリンは貴方ばかりを見ていた。証拠はここにたくさん」


 カタリ君が宙で指をまわすと、いくつかのホロ・ウィンドウが僕の近くに飛んできた。その記憶のほとんどに僕が映っている。


「やりますか?」

「……何をすればいい」

「なんでも?」

「なんでもだ」


 カタリ君はニッと唇を釣り上げた。


「では、僕もなんでもやります。手始めに、彼女の頭蓋骨に穴をあけて電極を差し込みますね」

「まって」

「ちなみにこれが医療用のドリルです」

 カタリ君が検疫機の脇から取り出したドリルは、木板に穴をあけるハンドドリルとまったく同じ見た目だった。

「ちょっと、まってくれ」

「なんですか?」


 カタリ君のペースに巻き込まれてはダメだ。


「もうちょっと説明をしてくれ。つまり、脳ビリが必要なのか?」

「それはバクバさん、貴方次第ですよ。ツィリンの電圧ボタンは貴方が押すのですから」

「……僕が?」

「ええ。なんでもするって言ったでしょ?」


 確かに言った。

 でも、なんで僕がボタンを押さなきゃならないのだろう。今の彼女に脳ビリが必要なのはなんとなく分かるけど……。


「よっこらしょ、っと」


 とカタリ君は冬眠検疫機のケースをあけた。

 冷たい冷気が白いもやになって、ケースからこぼれだす。

 カタリ君は検疫機を操作して、横たわっていたツィリンの上半身を起こした。そして、バリカンを取り出すと、ツィリンの髪をジョリジョリと剃り始める。


「彼女の共有脳をハッキングできれば、手術は必要なかったのですけど。しょうがないですね。下手に再起動したらまた感染が進みますから」


 髪をすべて剃り上げられて、ツィリンの頭はつるつるになってしまった。

 カタリ君はその頭をまるでノックするように叩くと「ここかな?」とあたりをつけた箇所になにやら注射をした。


「局所麻酔ですよ。さて、彼女が冬眠している間に素早く埋め込みましょう。ほら、手伝ってください」

「あ、ああ」

「彼女の頭が動かないように抑えておいてください。動いてしまって、ドリルで脳をぐちゃぐちゃにすると大変です」

「固定する道具とかないのか?」

「ありますが、時間がありません」


 言われた通り、彼女の頬を両手で挟み押し付けるようにして固定する。

 カタリ君はメスで彼女の脳天あたりの皮膚に切り目を入れて、指で挟んで頭蓋骨をむき出しにする。

 キィーンという甲高い回転音が響かせ、カタリ君はドリルの狙いを定めた。


「どうして、僕なんだ?」

「『顔』を見るのは貴方ですからね。彼女を見て、貴方が電気を流すべきか判断してください」

「僕なんかより、君のほうが、」

「勘違いしているようですが、僕は万能ではありませんよ。ツィリンのあるべき脳の電流なんて知りません。もちろん、バクバさんも知らないでしょう」


 カタリ君がドリルの刃先を頭蓋骨に入れた。

 想像したほど血は出なかったが、白い粉が飛び散っている。それが、削り取った骨の粉末であることはすぐに理解できた。


「でも、彼女がずっと見てきたのは貴方だけです。ちなみに、彼女が僕を見ていた時期はありましたが、僕はそこから逃げました。だから、僕には資格がありません」

「逃げたって?」

「僕は彼女をつまらないトロルだと思ってしまった」

 骨粉が目に入ったのか、カタリ君はぎゅっと目を閉じた。

「だから、東京を飛び出す時、誘って欲しがっていた彼女をあえて無視した。君が判断するべきことだよ、って最もらしいことを言って、邪険じゃけんにしたのです。結果として、バクバさんに押し付けることになった」

「……」

「彼女と再開した時は驚きましたよ。僕の勘違いだった。彼女の脳は素晴らしかった。自分を犠牲にして、他人を助けるようなではなかったのに。……だから、貴方なのです」


 カタリ君はドリルを引き抜くと、次は細い棒に電気コードをはわせたものをツィリンに空けた穴から差し込んでいった。


「いいかげん。覚悟を決めましたか?」

「……ああ」

「では、このスイッチをどうぞ。もう電極は設置しましたから」


 差し出されたスイッチから伸びたコードは、ツィリンの脳内に入り込んでいる。気持ち悪い。持った手にねちゃっとした汗がにじんだ。


「そろそろ、彼女の脳を再起動します。重要なのは彼女の『顔』と対話すること。レヴィナスが出来もしないことを偉そうに言ったように、彼女を理解しようとせずにその『顔』を見て、お話するんです。そんな都合の良い他者が彼女にいたのなら、なんとかなるかもしれない」


 カタリ君が言っていることは半分くらいは納得できた。もう半分は、カタリ君も知らないことなのだろう。もしかしたら、レヴィナスも出来なかったことなのかもしれない。

 つまり、それは、やってみなければ分からないことなのだろう。


「いいですか、電気はきっかけに過ぎません。そのボタンを押せば。彼女の脳は、まるで未来が明るいものだと勘違いします。この世に怖いものなんてないと。でもね、他者の『顔』と対峙することはそれくらい恐ろしいことなんですよ」

 カタリ君は思わせぶりな笑みを浮かべて首筋を叩いた。すると、冬眠検疫機の音が鳴り止んで、その機能が停止する。

「ほら、彼女から目を離さないで。それが貴方にしか出来ない唯一無二の愚行です。愚行ゆえに、僕にはできなかったことです」

 言われたとおり、ツィリンを覗き込む。

「いいですか。貴方が理解している彼女なんて、貴方が理解できるように彼女があつらえた仮面でしかない。貴方は、貴方が理解できない彼女を見なければならない。『顔』には鋭い目だけでなく、口と耳もありますから、話すことだって不可能じゃない」


 ツィリンのまぶたがピクピクと動きはじめた。

 彼女の顔にじっと目をこらす。

 骨ばった少しこけた頬、唇も薄い。鼻筋はまっすぐ整ってはいるが、つり上がった目がきつい印象のある。少しやつれているせいか、こんな顔だっけ、という気持ちにもなった。丸坊主になってしまったせいもあるだろう。

 その時、ツィリンの目がかっと見開いた。

 すると、僕を囲む無数のホロ・ウィンドウが一斉に切り替わった。彼女の記憶映像が、赤黒いグロテスクなものに変わった。

 生きたままの人間をバラバラに解体する映像。父と母が赤子をドッチボールのように投げつけあう映像。巨大なカマキリが人を頭から捕食する映像なんてのもあった。

 彼女の記憶じゃない。非現実的すぎる上に内容も狂っていた。


「トロルのコピー記憶です」とカタリ君が教えてくれた。「この悪趣味でグロい記憶にわずかでも共感したら最後です」

「こんなのが彼女の脳に?」

「貴方が見るべきは彼女自身の記憶です。さぁ、見つけてください。ほっとけば、ツィリンはどの記憶が自分のものか分からなくなる。さぁ、はやく!」


 僕らを取り囲むホロ・ウィンドウを見回しても、グロテスクなだけのB級スプラッター映画しか見当たらなかった。

「ツィリン!」と彼女に呼びかける。

 すると、ぴくりと瞳がゆれて、ホロ・ウィンドウの映像が少し乱れた。

 反応があった。効果があるのかもしれない。

「ツィリン、僕だ。戻ってきてくれ。ツィリン!」

 何度も何度もそう呼びかけたが、目に見える反応があったのは最初のほうだけで、だんだんと反応が薄れている。彼女の見開いた瞳の焦点もあっておらず、僕の顔なんて見ていなかった。


「彼女を理解しようとせず、理解できないまま見るのです」

「分からないよ!」

「あきらめるのですか? ……まだ、ボタンすら押してませんよ」


 手元のボタンに視線を落とす。

 真ん中に赤い丸ボタンがあり、その横にスライドがついてあり、メモリに電圧のボルト数が書かれている。スライドの針は6Vに設定されていた。

 それが高すぎるのか、不十分なのか僕には分からない。多分、誰にも分からない。


「ツィリン、話をしたい」と僕はボタンを押した。


 すると、ぴくりと瞳がゆれて、彼女は僕の目を見た。

 周囲のグロい映像が乱れて、いくつかのホロ・ウィンドウに僕が映った。でも、それはすぐに戻ってしまう


「ねぇ、ツィリン」ともう一度ボタンを押す。「こっちを見てくれ」

「……見ているわ。ずっと、私はバクバさんを見ていた」

 彼女はかすれた声でそうつぶやいた。

 僕は嬉しくて、思わず泣きそうになる。

 彼女はため息をつくように、そっと続けた。

「でも……、バクバさんは見てくなかった。私がなりたい私を無視して、私が嫌いな私ばかり」

 そう言って、彼女はあるホロ・ウィンドウを指差した。


 そこには、まだ髪が長かった頃の彼女が映っていた。どうやら洗面台の鏡を見ている記憶のようだった。

 僕の知らない彼女の記憶だ。

 ツィリンは洗面台の鏡に向かって吐き捨てるように言った。


「ますます、あの女に似てきたわね」

 彼女はナイフを手にとって、その刃先で自分の目の下から鼻筋、唇へとなぞった。

「口ばっかの嘘つきで、何も出来ないから、男に媚びる。イヤねぇ、親子なんておぞましい。しょせん、私はあの女の娘ってわけだ。……キモすぎて吐きそう」

 彼女はナイフを首の後ろに持ってくると、削ぎ落とすように髪を切りはじめた。

「そんな私が免疫屋になれるかしら?」彼女は声色を低く変え自分で答える。「君には、もっと普通の幸せがあるさ」

 それは僕の口マネだろう。

「はぁ」と彼女は大きなため息をはく。「脳容量の小さい私が、普通の幸せねぇ」

 彼女は次々と髪をナイフで切り落としていった。次第にベリーショートへと変わっていく。

「私はあの女と同じ。男でもに犯されてもへらへら笑って命乞いするしかなかった。きったねぇモンぶちこまれながら、きもちいい、なんてあえぐ。そういう人生が私の普通だったのよ」

 髪を切り終えて、彼女はナイフを洗面台に置いた。

「私は変わるの。トロルどもを殺せる私になりたい」


 ツィリンは首をすこし傾けて、ガラス玉のような虚ろな目を僕に向けた。脳天の穴から血がこぼれて彼女の頬をつたった。


「でも、バクバさんは私を見ていなかった」

「……」

「バクバさんが見ていたのは、私じゃなくて、普通の女の子。まるで、漫画でたくさん出てくるモブの女の子。順当に成人して、適当な経験をインストールして、普通の幸せに満足できるキャラクター」


 脳洗浄をしたら、君もそうなれる……。

 そう言いかけて口をつむいだ。僕は多分、彼女を決めつけていたのだ。彼女の『顔』なんて見ずに、僕の浅いイメージを彼女に押し付けていた。


「違う?」

「そうかもしれない」

「私は見ていたよ。バクバさんのこと」

「僕は……、君が思っているような、ちゃんとした大人じゃないよ。僕は自分のことがあまり好きじゃないんだ」

「私もそうよ。今の自分が大嫌い。だから、将来の自分まで嫌いになりたくないだけよ」


 僕は怖くなって、思わずボタンを押した。

 すると、ふふっ、と彼女が少し笑った。

 周りのホロ・ウィンドウからグロテクスな映像が消え始める。

 反射的にもう一度ボタンを押す。

 彼女は口を手で覆って笑う。同時に、赤子を食って飢えをしのいだ記憶が、僕と映画を見ながら牛乳を飲んでいる記憶に変わった。

 今度は、電圧を上げてボタンを押す。

 彼女は耐えきれないように声をあげて笑った。そして、木につられて奇妙な果実だと指さされた経験が、稽古の指導の記憶へと変わる。

 僕はまるでコンピュータゲームのようにボタンを連打した。ゲラゲラと彼女は笑う。ボタンを押す度にトロルの記憶が消え、彼女と僕の記憶に変わっていった。


「やりました!」とカタリ君が叫んだ。「これなら脳に入れます」

 カタリ君がすばやく首筋を叩く。すると、ホロ・ウィンドウのグロテクスな映像が次々と消えていった。

「まだ彼女から目を離さないで。油断しないでください」

「あ、ああ」


 慌ててツィリンに視線をもどす。

 ボタンを押すたびにツィリンはケタケタと笑った。これは、本当に彼女なのか? 僕が知っている彼女はいつも不機嫌で、文句の多い、少しやっかいな感じの女の子だった。

 それがボタン一つで……。人間って、こんなに単純な作りなんだ。

 やがて、笑い疲れた彼女は手をふって、肩で息をしながら言った。


「そっかぁ、ああ〜、カタリもいたんだ」

「ああ」

「だからか」と彼女は目を閉じた。「今、カタリが私の脳に入ってきた。掃除してくれてる」

「君のトロルを?」

「うつされたトロルよ。私のトロルは消させない。それは私が殺すつもりなの」

「……」

「あ〜」と彼女は手を頭上にあげて、伸びをした。「……めちゃくちゃセックスしたい」


 んっ? 今、なんて言った?


「多分、電流のせいですよ」と横からカタリ君が口を挟んだ。「随分と側坐核を刺激しましたからね」

 あわててボタンから指を離した。さっきから押しっぱなしになっていたのだ。

「ねぇ」とツィリンが僕を手招きする。「しよ?」

「しない」

「なんで? いいじゃん」

「脳からコードが出てるだろ。危ないよ」

「えっ、コード? ……げっ、髪の毛がなくなってんじゃん!」


 彼女が自分の頭をおそるおそる手で探っていると、カタリ君が「ふぅ」と大きな息をついた。


「終わりました。コピペされた糞グロ記憶は全部消しました。もう大丈夫でしょう。それで……するんですか?」

「するって、何を?」

「セックス。やるなら、すぐに穴をふさいで処置しますけど」

「やらないよ」

「どうしてですか? 本人もやりたいって言ってますよ」

 僕はツィリンをじっと見たまま、カタリ君に言った。

「今の彼女がツィリンなのか電流なのか。……僕には分からないよ」


 ふむ、とカタリ君は指を顎にあてて「まぁ、確かに」と考え込んでしまった。




-------

『レヴィナス入門』(熊野純彦、筑摩新書)

 レヴィナス哲学の原文読解は、私には不可能なので、この入門書を読んでみました。小説では曖昧にした部分を少しだけ補足します。

 レヴィナスの『他者』は他人だけでなく、自分ではないもの、を含みます。そして、私達はその『他者』を否定したいと感じるものです(究極の否定として、殺したいと思うことも)。しかし、この世では、いつも否定できるわけではありません。

 否定が不可能な『他者』(例えば、ゲームしたらダメと禁止してくる親)を否定も無視もできない場合、親は『顔』として私の内部に現れて、私をにらんで「否定するな」と命令してきます。……私も随分と歳を取ったはずですが、いまだに親の『顔』が私の脳裏に出現します。つまり、私はこの『顔』と向き合い続ける限り、大好きなゲームをやり過ぎてはいけない、という倫理を獲得し続けることができます。

 私という存在は、私が関わり続ける『他者』との差異によって認識されます。自分と同じような人ばかりと付き合っても、私の個性は認識されません。(まぁ、それはそれで、自分が否定されることがない心地よい場所です。とても貴重ですので、見つけたら大切にしましょう)

 私が私でありたいなら、他者の『顔』と関わり続けることになります。しかし、いくら『顔』と対話しても、他者が自分が同じになることはありません。自分と同じになったら、それは『他者』でも『顔』でもなくなってしまいますから。よって、自分とは異なる他者と、肯定も否定もできない対話を無限に繰り返すことになります。

 自分が自分である、ということは喜びではありません。ただただ、自分は自分であり続けるしかない、というだけでしょう。

 ……今のところ、私のレヴィナスの理解はこんな感じで〜す。

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