3.12『ランボー』

 黄色い稲穂が絨毯のように敷き詰められた田んぼの抜けるように高い晴天に、雷鳴のような市長の声が拡声器からとどろいた。


「避難中の小田原市民に告ぐ! 我々は君たちを助けに来た!」


 汽車から降りたバクバとツィリンは、第六農業プラントの貨物駅の屋根へ登った。そこから辺りを見渡せば、水田や畑がはるか遠くまで広がっているのがわかる。綺麗に整列したうねの間を農業ロボットがゆっくり巡回し、上空にも数台の飛行ドローンが飛び回って農薬を散布していた。

 東京の膨大な人口を支えるため、小田原のような境界都市では壁外に農業プラントを拡大している。ロボットは導入してはいるが、それでも完全な無人化は実現していない。ロボットが高性能になるほど、高度な通信が必要になり、壁外ではそれが感染経路になってしまうのが大きな要因だった。

 結果として、その運用方法をインストールした脳有りがどうしても必要になる。


「小田原市民は東京のための犠牲になっている、か」

「なに?」

「いや」


 ツィリンは偵察ポイントに座り込むと、短機関銃MP5のスコープをのぞいて周囲を確かめていた。

 屋根の上からは、貨物コンテナに殺到する避難民の列も見えた。その貨物コンテナから切り離された機関車は、回頭のため、ターンテーブルに向かっている最中だ。


「全員、回収するの?」

「さっきの拡声器で、避難民だけじゃなくトロルも集まってくるだろう。問題はいつ引き上げるかだ」

「あの兜にまともな判断ができるのかしら?」


 それが、あの市長の腕の見せどころだろう。

 機関車がようやくターンテーブルにのった。その周りで免疫屋たちが回し棒を必死に押す。その回頭が歯がゆいほどに遅く感じられた。ぐずぐずしていたらトロルが襲ってくる。

 その回頭中の汽車の上から、拡声器をもった市長が声を張り上げていた。


「市民に告ぐ! 右手を挙げながらここに集合せよ! 右手を挙げながら避難せよ! それでトロルと区別を行う。繰り返す、右手を高らかに挙げよ。でなければ、トロルと見なし殺処分する」


 ……悪くはない指示だ。


「そんなのでいいの?」とツィリンが肩をすくめた。

「賭けたのさ」

「右手をあげたら市民なの?」

「だからそれは賭け。グール型のトロルしかいないなら、それでトロルを除外できるだろう。知性のあるトロルがいれば終わり」

「それって無責任じゃない?」

「さて、僕らは僕らの責任に集中しようか」とMP5を構える。「あの大声だ。グール型も寄ってくるぞ」

「……分かった」

「ツィリン、僕は接近してきたトロルに集中する」

「狙撃は?」

「僕の腕では無駄さ」


 MP5は短機関銃とはいえ名銃で、遠距離狙撃も不可能ではない。

 しかし、狙撃用のスコープ調整がされていない。これで右手をあげた避難民とそれを追いかけ回すトロルを区別して撃ち分けるのは不可能だろう。


「他の免疫屋にまかせよう。マークスマンもいるだろう」

「そう? トリガーハッピーしかいなかったけど」

「トリガーハッピーは一人だけだったろ」いや、数人はいたか?「狙撃は彼らに任せる。僕らは最終ラインを引く」

「はい」


 ぱん、ぱん、と狙撃音が鳴り始めた。

 目を細めると、遠くに人影らしき豆粒が見える。ざっと目算で300メートルだが、肉眼では右手をあげているかは分からなかった。

 撃たれたのか、豆は転がった。しかし、本当にトロルだったのかだろうか。


「……近づかれるなら向こう側か」

 建物で視界がさえぎられている方向があった。おそらく、職員の休憩室や農耕ロボットの倉庫だろう。

「そうね。畑の方からは視界が開けているから、近づかれる前に処理できる。でも、そっちは発見が遅れる」

「そっちを固めよう。移動するぞ」

「ええ」


 建物のある方に移動すると、すでに他の免疫屋たちが作業していた。

 建物の隙間に、放棄された車両を押し込んだりして簡単なバリケードを構築していた。おそらく、それが最終防衛ラインになるだろう。

 ——その時。

 建物の向こうからアサルトの連射音が鳴り響き、空に信号弾が打ち上がった。

 青い空に赤い煙が尾を引いて、パッと輝いた。それを見た周りの免疫屋たちが「赤だ! 群れが来たぞ」と騒ぎ始める。


「群れ? 数は」

「しっ」と黙るように人差し指を立てる。


 もし、本当に群れを発見したなら、数と方向の報告があるはずだ。

 それがないということは、免疫屋の訓練が不十分なのか、すでに襲われている最中だからだろう。後者ならもう間に合わない。全滅も覚悟した方が良い。

 聞き耳を立てる。

 建物の向こうで、断続的な銃声が重なる。交戦中か? それとも後退中か? いずれにせよ方向は分かった。あの建物の向こうに群れがいる。

 目を凝らしていると、偵察らしき免疫屋がバリケードに飛び込んできた。


「報告! グール型が百! 九時の方向、屋内水耕施設に潜んでいた。こちらに向かって接近中。でかい群れがくる」


 それを聞いた周囲がざわついたが、それを市長の拡声器がかき消す。


「総員、撤退準備。汽車の折り返しはすでに完了している。貨物車両との再連結を完了しだい即撤退。それまで群れの接近を食い止めろ。繰り返す。車両の再連結と同時に撤退する。各方面はできるだけ避難民を回収し、車両に乗り込むこと」


 グール型が百か。一気にのまれる可能性もあるな。


「バクバさん、」

「かなり厳しいな」


 ターンテーブルの方に目を向けると、たしかに汽車の回頭は完了していた。そのまま前に押し出して、貨物車両と再接続し、加速の火を入れて離脱する。その時間が稼げるだろうか。


「ツィリン。威嚇も確認もなしだ。見えたら撃つ」

「……うん」

「あと、僕から離れるな」

「はい」


 膝を落として、MP5のストックを肩に押し当てつつ、銃身は横に寝かせた。視線で辺りをなぐように見渡し、いつでも速射できるように呼吸を落とした。

 さて、どこから来る?

 時間の流れが遅くなっていく。背後から聞こえてくる避難民の喧騒がやけに遠い。


 その時、右手の建物から人影が飛び出してきた。


 銃口を向けつつ、一呼吸おく。

 長い髪をなびかせた女。泣きそうな顔で右手を振っている。

 ツィリンの銃口も吸い付くように女を捉えた。僕はとっさにその銃口をすくいあげて、狙いをそらした。

 空に向かって、ツィリンの銃が火を吹く。

 それが合図だったように、他の免疫屋の乱射が女性を蜂の巣にした。撃たれた彼女は、右手を天に挙げたまま、肉片を周囲に撒き散らしていく。必死に掲げていた右手も、根本から千切れ飛んで地面に落ちた。


「あっ」とツィリンが固まった。「右手」

「分からない」

「だって、えっ、……私、右手なんて、見てなかった」

「分からない!」と声をはる。「もう死んでいる」

「だってだって、バクバさんがいなきゃ、私も撃ってた!」

「誰も悪くない。ここは絶対に突破されちゃいけないだろ」


 おそらく、殺したのは屋内で隠れていた市民だ。

 でも、もう殺してしまった。群れを警戒している免疫屋にそれを見分ける余裕なんてない。ツィリンの初めての殺人がこれじゃなくて良かった。

 彼女の肩を叩いて正気に戻し、次の突入に備える。

 背後の汽車はようやく貨物車両にたどり着き、再連結の作業に入っているようだ。だが、それを急かすように建物の向こうからどどどっと地鳴りのような足音が聞こえてくる。

 本当に群れの数は百なのか? もっとたくさんいる気がした。


「多いぞ!」


 より前線を守る免疫屋が引きつった声を張り上げた。

 ようやく、こっちからも見えた。

 腕をめちゃくちゃに振り回して、こっちを一直線に目指してくる群れ。建物の隙間の狭い道を、他を押しのけるようにこちらに向かってくる。

 免疫屋のアサルトが一斉に火を吹き、先頭のトロルをボロ雑巾のように穴だらけにする。しかし、その死体を踏み潰して、後ろのトロルたちが殺到してきた。


「撃て! 撃て! 撃ちまくれ!」と免疫屋たちが叫んでいる。


 まだ僕の距離じゃない。

 じっと様子をうかがう。免疫屋たちの銃撃を肉の壁で押し返すように、トロルたちはどんどん迫ってくる。

 あの勢いだ。前線は間違いなく崩壊する。

 それなのに、……変だ。

 前線がなかなか崩壊しない。普通なら、免疫屋が逃走を始める頃合いだ。バリケードの目前まで群れが迫っているのに、そこに留まって撃ちまくっている免疫屋が多い。中には群れに手榴弾を投げ入れようとする勇者までいた。

 あっ、でも、巻き込まれて自爆した。


「……おかしいな」

「何が?」

 聞かれてツィリンの方を見ると、彼女は銃を抱えるようにして持っていた。

「撃たないのか?」

 彼女の腕なら百発百中だろう。

「だって……、バクバさんは撃ってない」

「そうか」


 彼女の背中をたたいて、戦況の観察に戻る。

 僕に求められている仕事はなんだろう?

 僕らは汽車から近い駅の屋根に陣取っている。普通なら、汽車に向かって撤退する免疫屋への援護射撃が最優先だ。群れの先頭を撃ち殺し、少しでもその侵攻を遅らせる。それ以外の無駄撃ちは一発たりとも使うべきじゃない。

 だけど……。

 免疫屋たちは撤退せずに勇敢に戦っていた。

 そのせいで、多くの免疫屋が群れに飲み込まれて殺されている。こんなのは初めてだ。死ぬのが怖くないのか。


「キマってるね」と、ツィリンがつぶやいた。

「キマってる?」

「脳がイッちゃってるのよ。ヤク中は何人も見てきた。あいつら、橋の手すりの上を平均台みたいに歩いたりする。落ちたら死ぬくせに、鼻で歌いながら」

「脳ビリのせいなのか」

「自分ならなんとかできる、って勘違いしてる。生きることのリアリティが薄いのよ」

「……」

 

 また一人、免疫屋が群れにのまれた。

 よく見ると、それは僕らがトリガーハッピーだと馬鹿にした免疫屋だった。彼はまるで映画の『ランボー』ように、アサルトライフルを左右に乱射しながら雄叫びをあげていた。

 だが数匹を倒したところで、彼は群れに捕まってしまった。

 グール型は人を捕まえると、まずは首裏の共有脳ソケットを確認する。手元にコードがあれば直結して感染させ、コードがない時は男ならなぶり、女なら強姦しながら、長い時間をかけて思念感染を試みる。

 ソケットがなかった場合、つまり能無しだった場合は食われる。

 運動量が異常なグール型は常にカロリーが不足しており、奴らは人肉もかまわず貪り食うようにプログラミングされている。

 群れにのまれたトリガーハッピーも喉を食いちぎられた。

 その血の匂いにつられて、他のトロルたちも群がりはじめ、争うようにその肉を食いちぎり、内臓をひきずり出した。

 ツィリンはその凄惨せいさんなカニバライズを見て、口元を抑えた。


「やっぱり馬鹿ね」


 そうつぶやいた瞬間、彼に群がっていたトロルたちが爆発した。爆発は二回、数人が吹き飛んであたり地面に転がる。


「なに?」

手榴弾フラグだ。多分、食われる時にピンを抜いたんだ」

「本当に馬鹿」

「いや、それで群れの足が止まった。彼は英雄かもしれないぞ」


 脳ビリのせいかは分からない。

 でも、その無謀な死は無駄ではなくなった。彼の死体を食うために群がったところで自爆。群れの勢いを完全に停めたのだ。

 後ろを振り返ると、汽車はコンテナを連結している最中だった。避難民はもうほとんど乗り込んでいる。ギリギリだけど、もしかしたら間に合うかもしれない。


「正面は残りの免疫屋だけで時間は稼げる。後は迂回してくるのを食い止めればいい。ツィリンは汽車に戻れ」

「バクバさんは?」

「最後尾を固めて、迂回してくる奴をたたく」

「待って」

「戻れ」


 ツィリンを置いて、貨物車両の最後尾の近くに移動する。

 ちょうど、数体のトロルが回り込んでくるのが見えた。両手を振り回すような無茶苦茶な走り方だが、右手をあげているとは言い難い。

 スコープに目をそえて、まずは銃弾をばらまく。

 何発かは当たったはずだ。9mmの弾を当ててもグール型は止まらないが、それでもよろめきはする。

 足を止めたトロルの頭を撃つ。

 一体、二体……。三体目のトロルとはスコープ越しに目が合った。中年の男性。子どもはいるだろうか? そんなことを思いながら、その眉間を撃ち抜く。

 すぐに銃身を横に寝かせて目からスコープを外し、周囲を確認する。後続のトロルはまだいない。すぐに弾倉を入れ替えた。


「……すごい」

 後ろからツィリンの声がした。

「ついて来たのか」

 言ったそばから、もう一体出てきた。

 反射インスティンクスで胴体を撃ち、足が止まったところで、頭を撃ち抜いていく。この距離なら、スコープもいらない。


「リロードする」と膝をつく。「援護して」

「了解」

 ツィリンは僕の背後から銃を突き出し、リロード中の襲撃に備えた。

「怒らないの?」

「そんな状況じゃない。撤退戦にはパートナーが必要なのは事実だし」

「うん」

「よし」と銃を引き上げる。「後ろの汽車は?」

「貨物車両の連結は完了してる。でも、避難民がまだ」

「そろそろ決断するべきだろ」と思わず悪態をついあ「ん、……あれは?」


 目を細めると、別の群れがこっちに向かっているのが見えた。

 まずい。こっち側にはバリケードがほとんどない。このままでは、車両に追いつかれてしまう。


「ツィリン。信号弾を上げろ、赤だ!」

「は、はい!」


 少しでも群れを止めるために、銃弾をばら撒いていく。

 背後で信号弾があがる音がした。

 空になった弾倉を捨てて、次を込めると同時に、またばら撒く。それでも、群れは止まらず、避難民のいる貨物コンテナに向かっていく。


「ツィリン、汽車は?」

「やっと動き出した」

「……間に合わないな」


 ギリギリまで引きつけて、手榴弾フラグで足止めするか? 自分は逃げ切れないだろうから、ほぼ自爆になるが、もうそれくらいしかもう手はなさそうだ。

 ……やるか。

 最悪、ピンさえ抜ければ食われながらでも自爆できる。腰のポーチに突っ込んでおいた手榴弾を指でなぞってみた。死に際に抜くだけなら不可能じゃない。あのトリガーハッピーの英雄と同じようにやるだけだ。


「ツィリンは撤退しろ!」

「バクバさんは?」

「僕は殿しんがりだ。いけ。次は怒るぞ」

「いや!」

「ツィリン!」


 思わず、かっとなって振り向いた瞬間、僕は絶句してしまった。

 ツィリンは防疫用のフードをおろして、うなじを外気にさらしていた。

 風が後ろ髪をなびかせて、共有脳のソケットをむき出しにする。悪意が蔓延する壁の外で、今、彼女は脳をさらけ出していた。


「私には分かるの。バクバさん、馬鹿やるつもりでしょ」

「……」

「だったら、私がおとりになる」

「よせ」

「私の方が向いてる。もう時間もない。私ならバクバさんよりもずっとたくさん引きつけられる」


 彼女は首筋に指をあてた。


「ダメだ」

「私だって免疫屋なの。勘違いしてるだけのお子様かもしれないけど、私は免疫屋になるって決めたの。それが私なんだって、決めてしまったの。だったら、ここでやらなきゃ」

「やめなさい!」

「……ちゃんと私を殺してね」


 ツィリンは首筋を指で叩いた。

 ——その瞬間、トロルの群れが、ピタリ、と足を止めた。

 死体をむさぼり食っていたトロルさえも身を起こしてツィリンのほうを振り向いた。まるで、獣が獲物の匂いをさぐるように鼻をひくつかせ、彼女のほうを指差した。

 彼女は悪意トロルの目の前で、脳をオンラインにしてしまったのだ。


「くそがっ!」彼女は頭を抱えて崩れ落ちた。「痛い、キモい、くだらない、ムカつく」小刻みに体を震わせる。「私の頭に入ってくるな!」

「ツィリン、脳を閉じろ!」


 トロルたちはもう彼女しか見ていない。

 百体以上もいるトロルたちの思念感染が彼女に殺到している。咄嗟に、僕は数体の頭を撃ち抜いてみた。近くの仲間が撃ち殺されても、トロルたちは微動だにせず、ツィリンのほうをじっと見つめて、その脳をおかすことに集中していた。


「ざっけんなよ!」とツィリンはのけぞった。「てめぇらの、しょんべん臭ぇ恨み言なんて聞き飽きてんだ。その不満も恨みも怒りも、インストールしたコピペだろうがよ。他人のせいにして、ぐちぐちぐちぐち、ほざいてんじゃねぇ。私はお前らと違う。いいか? 弱っちいテメェらと違う!」

 両手で頭を抱えながらも彼女は立ち上がった。

「私は私だ! フツノ・ツィリンなんだ! あのカタリを捕まえる免疫屋になるんだ。テメェらみたいな負け犬の仲間になんてなるかよ!」


 まるで、その啖呵たんかがスタートの合図だったかのように。

 全てのトロルが彼女に向かって駆け出した。まるで砂糖にたかるありのように、建物の壁をつたいあるいは電柱を登って、この屋根の上へと這い上がってくる。


「直結感染に切り替えたか?」


 汽車を確認すると、すでに動き出していた。免疫屋たちに出発をつげるため、汽笛をけたたましく鳴らしていた。

 あれに乗れば、なんとか逃げ切れる。

「ツィリン、かつぐぞ」

 もがきくるしむ彼女をすくい上げるようにして肩に担ぐ。

「ムカつく、ムカつく、ムカつく……。ああっ、イライラする!」

「舌を噛むぞ」

 バタバタと暴れる彼女を押さえつけて、汽車に向かって走る。

 途中で屋根のふちから顔をのぞかせたトロルを、片手撃ちで撃ち払いつつ、弾がなくなったMP5は投げ捨てる。

 かわりに、腰の短刀を掴んだ。

 わらわらと這い上がったトロルたちが、汽車の前に立ちはだかった。その中央に突撃し、身をかわしざまに短刀で切り捨てる。

 くぐり抜けるように突破して、屋根の縁を踏み切って飛んだ。

 ——その浮遊感に恐怖すら浮く。

 ギリギリのところで、つま先が貨物コンテナの固い感触を掴んだ。身を投げ出すようにしてコンテナの上に転がり込みつつ、落とさぬようにツィリンを抱きとめる。

 

「はぁっ」と息を吐き、汗が毛穴を押し開いて吹き出した。「ツィリン、大丈夫か」

「糞、クソ、くそがよぉ!」


 彼女はまだ悪態をつきながら、腕の中でもがき苦しんでいた。


「痛い、臭い、キモい、死ね。糞野郎どもが、脳に入ってくんな」

「もう大丈夫だ。脳を閉じろ!」

「くそ、邪魔すんな。邪魔するんじゃねぇ。触ってくるんじゃない。キモいんだよ!」


 暴れる彼女を抑えながら、汽車の後方を確認する。

 トロルの群れはこの汽車を追ってきてはいるが、すでに加速した汽車はそれを引き離し始めていた。コンテナの上やデッキにいる免疫屋たちは追ってくる群れに向かって撃ちまくってはいるが、もうその必要はないだろう。

 すぐにトロルたちの思念感染も圏外になるはずだ。


「もうすぐだ。もう少しだから」

「さっきから、うるせぇんだよ! この脳無しがぁ」


 そう叫んだツィリンは僕の首筋に噛みついた。

 小柄な彼女とは思えないほどの咬筋こうきん力で歯が肉に食い込む。すぐに彼女の頭を抱きしめて、食いちぎられないように固定する。


「落ち着いて。もういない。トロルはもういない」

「んっ。ん〜!」


 彼女は息苦しそうにもがいていたが、大人しくなったかと思うと、やがてチューチューと吸いつきはじめた。

 血を吸っているのか?

 ヒヤリと冷たい汗が頬を流れる。グール型は脳無しを捕食対象とする……。


「おい、そこの二人! 東京の奴らだな」とある免疫屋がアサルトの銃口をツィリンに向けた。「その女、感染したな」


 その免疫屋の口元は恐怖で引きつっていた。

 周囲の免疫屋たちも表情を固くして、僕らを取り囲んだ。ツィリンは首に噛みついたまま、まだ血を吸っていた。


「違う」と声がふるえた。

「……」

「あなた達も見ていただろ? 彼女は、」

「脳が黒い。そうだな」

「こののおかげだろ! あんたたちが生き延びたのだって」

「ああ」と免疫屋はため息をついた。「感謝はしてる。拝んでも物足りねぇだろうな。……でもよ。そいつはもうトロルだ」

「……」

「小田原に着く前にちゃんと殺処分しなきゃならねぇ」

「ちゃんと?」

「ああ、頼むよ。あんた、東京のランカーなんだって? あんたもそうやって殺処分してきただろ」


 ……してきた。

 何人も、誰よりも多く。殺してきた。

 家族のいる父親を、罪のない子どもも、もうトロルだからと言い訳をして、この手で撃ち殺し、刺し殺し、絞め殺してきた。

 ツィリンだけを特別扱いするのか?


「分かるよ。仲間をやるのはつらいだろう」と免疫屋は屈みこみ、僕を覗き込んだ。「だから、俺がやってやる」

 免疫屋は腰の拳銃をひきぬいた。

 ツィリンは僕の血を吸うのに必死で、気がついていない。

「待ってくれ」と彼女を抱きしめた。「……僕がやる」

 左手でツィリンの頭を固定しつつ、短刀を握りしめた。

 ツィリンだけを特別扱いするのはダメだ。僕が殺処分してきた人たちも、その家族や恋人にとって特別な人だった。だから、僕がツィリンを殺さなければならない。

 短刀を抜き、ツィリンの背後から鎖骨の隙間に刃を当てる。

 これって、僕の自己満足じゃないのか?


「待ちたまえ!」


 拡声器の大音量が背中を叩いた。それが市長の声だと気がついて、免疫屋たちは銃口を下にさげて道をゆずった。

 姿を現した市長は、まるで怪鳥のように両手を広げながら、こちらに近づいてきた。


「素晴らしい。大成功だ!」

 と周囲の免疫屋たちを見渡す。

「流石は小田原が誇る戦士達。死をも恐れぬ勇者。感動したぞ」

 こちらに近づいて来つつ、通り過ぎる際に免疫屋たちの肩を叩いたり、拳を打ち合わせて笑顔を振りまく。

「その中でも最も輝ける英雄は」

 と市長はわざとらしく大きく深呼吸する。そして、再び声を張り上げた。

「この少女だ! そうだろ?」


 免疫屋たちの反応はさまざまだった。

 そうだ、とうなずく者もいれば、下を向いて目をそらす者もいる。彼らとて、ツィリンに助けられたことは承知している。それでも、感染者を小田原に入れるわけにはいかない。

 市長は僕らの目の前で足をとめると、まるで王に忠誠を誓う騎士のように膝をついた。


「まさに女神! 神話的活躍! 自らの犠牲を顧みずに皆を救いし天使! 小田原を代表して、彼女に最大限の感謝を申し上げよう」

「……」

「バクバ君、これを彼女に」

 市長がうやうやしく差し出した両手の上には検疫針がのっていた。

 市長は僕にだけ聞こえるくらいの小さな声でつぶやいた。

「彼女に針を刺してくれたまえ。気絶させた後に小田原で検疫を受けさせよう」

「でも、」


 と言葉が喉につまった。

 彼女は明らかに感染していた。検疫機にかけたとしても、結果は変わらないだろう。


「万が一でも、可能性を諦めるべきではあるまい。小田原とて、何もせずに恩人を見殺しにしたいわけではない」

「……ありがとうございます」

 僕は針を受け取った。

 少なくとも、これで自分の矛盾からは逃げることができる。

 首筋に噛み付いたままのツィリンの後髪をかき分けて、ソケットをあらわにした。気がついた彼女が暴れはじめる前に、僕は針をその穴へと滑らせる。


「ごめん」


 僕は彼女にそうつぶやいて、針を根本まで一気に差し込んだ。

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