3.10『』
バクバとツィリンが向かった早川門の反対側——国府津門でも警報音がけたたましく鳴り響き、避難する人々が
アルナナはその様子を国府津門の上から眺め「手慣れているわね」とつぶやいた。
市の中心部へと避難する人々は大きな荷物を背負っている。中には荷車に家財を積み込んで押し、子どもに後ろから押させている家族もいた。
壁外襲撃がほとんどない東京と違って、小田原の住民は慣れているのだろう。荷造りも普段から準備をしているようだし、いざ襲撃となれば恐ろしいのはトロルだけではなく、無人となった家を荒らす盗人だということもわきまえているのかもしれない。自然脳ばかりの壁際では、そういった時代遅れの犯罪がまだ色濃く残っている。
「アルナナ防疫官」
と、後ろから声をかけてきたのは白い防疫制服をまとった中年の男だった。
その白いオーバーコートと階級章は彼がこの防壁を担当する防疫官であることを示している。その口ひげをゆるめてニッコリと笑い、略式の敬礼を額にそえる。
アルナナもすぐに敬礼を返した。
「防疫服を支給いただき、ありがとうございました。また、緊急事態にも関わらずお邪魔して申し訳ありません」
「よくお似合いですよ。こちらこそご協力に感謝いたします。防壁では猫の手も借りたいものです。ましてや、貴方は東京の防疫官だ」
差し伸べてきた手に応じると、男はアルナナの肩をぽんぽんと叩きながら、愛想のよい笑顔を向ける。
少し愛想が過剰ね、とアルナナは目を細めた。どこか、あの市長に似ている。部下は上司から学び、仕草まで似てくるものだが、いささか度が過ぎる気がした。
「お気になさらず。協力は惜しみません」
「それにしても、免疫屋の組長が東京の防疫官を連れてきた時は、驚きましたよ」
街中にトロル警報が鳴り響いた時、モリタは手下を引き連れて国府津門に急行した。それに同行したアルナナとクルードは、門に到着すると防疫官に紹介されてしまったのだ。
よく考えればそれは当然で、現場の長であるモリタには余裕なんてない。彼は、東京の防疫官だ、と紹介するとさっさと洗浄室に戻って部下に指示を飛ばし始めた。
「国府津組のモリタといえば、あの黒条会にも顔が利く大物ですよ。まぁ、そのせいか頑固で防疫官の指示をきかないと有名ですが」
「そうですか」
それでも契約し続けているのは、門番のような人数が必要な動員ができる免疫屋が少ないせいだろうか。
「少し話が過ぎましたかな。門の司令室に案内しましょう」
「……はい」
防疫官とアルナナ、その護衛であるクルードは壁上を歩き、門の上にある作戦司令室に向かった。
防疫官がそのドアを開けると、中には望遠鏡や色々なセンサーモニターが並べられている。ここに壁外の情報を集約し、状況判断を行った上で命令を通達する。
「ここの機材は少し古いですが、戦況分析をお願いできますかな」
防疫官はアルナナのほうを振り返った。
「了解しました」
「ところで、防壁経験のインストールは?」
「戦況分析はレベル3まで入れています。実技も百二十時間程度を完了。ここの機材も講習で操作したことがあります」
経験データのインストール深度はレベルで表現される。
レベル3の目安は、その業務の専門家3人分の経験を脳にインストールしていることを示している。
「レベル3はすごいですね。東京の防疫官なのに防壁がご専門で?」
「いえ。どちらかと言えば内壁ですが」
「そうなんですか? まぁ、どちらにせよ経験は十分以上ですね。さて、私はモリタのところに避難民の救助作戦を指示しなければ、あの人を説得するのは骨が折れますよ。まぁ、ここはおまかせしました」
「了解いたしました」
壁の襲撃を受けているのに、やけにのんびりとしているな、といぶかしみながらも、アルナナは防疫官を見送った。
さっそく、計器の前に座る。
ヘッドセットをかぶり、机の上に地図を広げ、赤ペンで日付と『記録者:保健省東京本部防疫官アルファ・ナナ』と書き込む。次に机の引き出しから、鉛筆、消しゴム、定規、コンパスを取り出した。
壁上の作戦司令室にはコンピュータはほとんどない。
これが壁内であれば、関係者の共有脳をリンクさせて、それぞれの状況と行動、その結果をリアルタイムに共有するだろう。
しかし、ここは楽園と地獄の境界線。脳を開けばトロルに感染し、防疫の不十分な電子機器はハッキングされてしまう。脳を死守しながら情報を共有するためには、紙とペンで表現するしかない。
さっそく、ヘッドセットからは次々と報告が上がってくる。
東プラント九号にトロル出現! 追跡されています。
六番から二番に避難中! 約五十人。
グール型を見た。たくさんいた。群れだ。群れで来たんだ!
次々と飛び込んでくる証言を、各所に配置された赤外線センサーの反応や職員の発信器の動体を追い、鉛筆で地図に書き加えていく。
その無数の点を地図上に鉛筆でつなげ、重要だと思われる情報は赤ペンで印をつけて強調した。
かなり大規模な襲撃ね。
アルナナは地図に書き込みながら背筋が凍った。
門に向かって避難する人とそれを襲うトロルを線で繋げると。国府津門と早川門に集中する放射線になる。その弧の広がりから、すでに多くの市民がトロルに襲われ、自身もトロルとなっていることが想定される。
またトロルを検知した熱源センサーを見ると、その体温は39度と高温のようだ。目撃情報と合わせて、おそらくグール型だろう。脳のリミッターを破壊し、暴走するグール型の体温は異常に高くなる傾向にある。
しかも、それが群れをなしている可能性が高い。
「どうした?」と暇をもてあましたのかクルードが近寄ってきた。
「少し、黙ってください」
「熱心なこったな。ここは東京じゃねぇのによ」
クルードは不思議な考え方をする男だ。
彼にとって仕事とはできることならサボるべきものらしい。労力を最小化して報酬を最大化するゲームのように考えている。
私にはそれがまったく理解できない。
他人と協力する喜びを彼の脳は感じないようだ。それに、自分の貢献以上に報酬を奪うことに違和感を感じないのだろうか?
「……」
おおかたの現状を地図に書き込み終わった。やはり、かなりの大規模な群れが押し寄せているようだ。脳にいれた三人も警告を発している。
「すぐに防疫官を呼びもどしてください」
クルードに命じる。
「あれ? さっきは黙れって」
「急いでください」
「へいへーい」
彼はわざとゆっくりと歩いて、外に出ていった。
思わずため息がこぼれる。彼の脳はほとんどトロルに近い。他人に共感するための機能がほとんど働かなくなっている。もはや、脳洗浄しても治療はできないだろう。
社会にとって有害な脳だ。
それでも、壁外に出れば別だ。クルードは壁外では有用な脳をしている。事実、免疫屋としての彼は非常に優秀で、多くのトロルを殺し、東京に貢献してきた。
「何度も言う。俺は反対だ!」
背後から飛び込んできたのはモリタさんの怒声だった。
驚いて振り返って見ると、防疫官とモリタさんが言い争いながら部屋に入ってきた。その二人を連れて戻ってきたクルードは、肩をすくめながらニヤニヤ笑っていた。
「壁外の市民を見殺しにするのかね?」と防疫官。
「引き際の線を引けってんだ。全員を助けるのはもう無理だろう。今回の襲撃はデカすぎる。早めに門を閉じなきゃならねぇ。それがいつなのかが分からねぇのに、若い衆を外にやれるかよ」
「我々ならやれるさ」
「やって死ぬのは脳無しの俺らだ。それだけじゃねぇ。万が一、門が破られてもしたら、てめぇら脳有りもトロルになるだろ」
「私は君たちの力を信じている」
「ちっ、……脳ビリ野郎が、適当なことばかり言いやがって」
最後の悪態は流石に声を落としてはいたが、防疫官にも聞こえただろう。
防疫官は笑顔でそれを聞き流し、あまつさえ両手を広げてモリタさんを抱きしめようとした。
モリタさんはおもわず身を引いて、机の角に腰をぶつける。
私はその拍子にずれた地図を押さえつつ「よろしいですか」と二人に声をかけた。
「おお、そうだった」と防疫官は例の笑顔のままだ。「我々は呼ばれて来たのです。何か分かりましたかな」
「状況のマッピングを終えました。作戦指示をお願いします」
席を立って、机に広げた地図を二人に示した。
地図に書き込んだのはトロルの位置と数、それに現在の侵攻ルートの矢印だ。
「……おい」とモリタさんが地図をにらみながら声を荒げた。「これでも全員救助するってのか? 今から閉門したっていいくらいだろうが」
「よく見給え。まだ大勢の避難民が外にいる」
「それ以上のトロルもだ。こんな数まで増えているならもう手遅れだろ」
「我々ならやれるさ!」
防疫官は急に声を張りあげ、ニカッと白い歯を見せた。
「やる前からできない無理だと言うのは簡単だ。しかし、市民を助けられるのは我々だけしかいない。もちろん、モリタ組長が部下を思いやる気持ちもわかる。ならばどうだね。救援には私も同行しようじゃないか。この身を危険にさらし、私が先頭に立って戦おう。なにも自分だけが安全な壁内にいたいわけじゃないのだよ」
それは流石に非合理的です、とアルナナは口を挟みかけてやめた。
万が一にでも防疫官が感染したら大惨事だ。その共有脳にはセキュリティーをパスするトークンが記憶されているのだ。万が一にでも、中枢にある社会大脳への対話室のパスが漏れたら終わりだ。
「おい、姉ちゃん」とモリタさんがこちらを見た。「あんたはどう思う?」
「私は、……ここの指揮官ではありません」
「そんなことは分かっている。でもよ、小田原の、みんなの命がかかってんだ!」
モリタさんの表情は固い。
その後ろで防疫官とクルードが同じように薄く笑っていた。
地図に視線を落とす。
人命は大切だが、全員を救える状況ではない。根拠もなく主張される救出計画……。いや、計画らしきものすらまだ提示されていない。
「防疫官、」と前を向く。「救出作戦を教えて頂けませんか」
「作戦?」
「はい。モリタさんが主張する通り、状況は困難です。目標の優先順位と撤退基準をお示しください」
それによっては、モリタさんの合意も得られるかもしれない
「ふむ」
と、防疫官は
「こうしている間にも市民は犠牲になっている。救出に向かいながら決めるべきだ。こんなところで時間を潰していても状況は悪化するばかりだろう」
「僭越ですが!」と制止する「……撤退ラインだけは事前に決めるべきかと」
「具体的には?」
「状況的に三十分後にはトロルの群れが門に到達する可能性があります。今から二十分後まで救出を行い、門を閉じます。救出に全力を尽くすべきですが、この時間内に制限するべきです」
できれば、救助速度を重視するために自動車部隊を編成すべきだろう。しかし、その頭に浮かんだ救出プランは口にしなかった。
ここの指揮権は私にはない。
「なるほど、なるほど。ご助言いただきありがとう。参考にさせていただこう。では、さっそく救出に向かおうではないか」
「……」
「モリタ組長、ついてきたまえ。救助隊を編成するぞ」
「……ああ」
モリタさんは防疫官を追って外に出た。
そして、腰から拳銃を取り出してスライドを引くと、そのまま防疫官の後頭部に銃口を向け、パン、と撃った。
——えっ?
咄嗟に何が起こったのか理解できなかった。
防疫官の頭がはじけ、監視室の窓ガラスに
クルードがなぜか楽しげに口笛を吹く。
現場ではまれにこういう事が起こる、と脳の他人の経験が教えてくれた。かつての彼の上司は、免疫屋たちに迫られて壁から蹴り落とされたそうだ。
「ここの防疫官は
モリタさんはニュースで知った殺人事件を語るように言いながら、作戦室に戻ってきた。
「トロルに殺されちまったんだ」
優秀な免疫屋ほど、その脳はトロルに似るものだ。
「なぁ、」
モリタさんは恐ろしい目で私を見た。
「緊急事態だ。姉ちゃんがここの指揮をとれ」
◇
バクバとツィリンは市中へと避難する人の流れに逆らって、なんとか早川門にたどり着いた。
門の近くではすでに避難は終わったらしく、通りはむしろ閑散とし、裏市も昼間の賑わいが嘘のようにがらんとしていた。
一方、免疫屋たちは大忙しで、門の内側に
「ねぇ」とツィリンが袖を引いた。「本当に手伝うの?」
彼女は防壁服のジッパーを首元まで上げ、フードで頭を覆った。この季節なら暑苦しいだろうが、共有脳を守るためにはしょうがない。
「……」
「ねぇ」
「大規模な襲撃だ」あたりの免疫屋たちからその緊張感が伝わってくる。「壁が突破されたら僕らも危ない。視察にもなるからね。だけど、問題は何を手伝うか?」
できれば、土嚢運びがやりたい。
壁内の免疫屋を徴用してやらせる雑用、と馬鹿にされる仕事だが、かなり重要だ。ぽっと参加してきたよそ者であっても簡単に貢献することができる。
それにツィリンにとっては初めての防壁だ。そういう下積みから初めたほうが絶対にいい。いきなり前線なんて死亡フラグ以外のなにものでもない。
「よし、土嚢だ。土嚢を運ぼう」
「やぁやぁ! バクバ君」と大声で背中を押された。「こんなところにいたのかね」
振り返ると、長い飾り羽を左右に揺らしながら、西洋兜をかぶったスーツ姿の大男が、こちらに向かってのっしのっしと歩いてきた。
……見つかってしまった。
「どうも」
「どうしてこんなところにいるのかね? 壁上の司令室に行こうではないか」
「あ、はい」
「タイムはマネーだよ。急ぎ給え、こっちだ」
「はい」
しぶしぶ、市長についていくしかなかった。
嫌な予感がする。
防壁には協力すべきだとは思うが、この市長の命令に従うべきかは分からない。もしソロだったら、適当な理由をつけて離脱もできるのだが、今回はツィリンもいるのだ。
「それにしても!」
市長は無駄に大声でしゃべりかけてくる。
「市長というのは肩身が狭くてかなわない。現場に顔を出せば、市長の仕事ではない、と言われる。しかし、机に座っていると、当事者意識が欠ける、と。まったく、私はどうすれば良いのかね?」
「現場に机を持っていっておとなしくそこに座っている、ってのはいかがでしょうか?」
「ほう、名案だ。バクバ君には市長の素質がある」
笑えない冗談だ。
「いずれにせよ、優秀な免疫屋はいつも不足している。君の防疫官には申し訳ないが、使い倒させてもらうよ」
「……ええ」
「そこのお嬢さん」と市長は横目でツィリンを見た。「君にも期待しているよ。なにせ、あのカタリを捕まえるつもりなのだろう?」
「……」
一体、市長は僕らに何を期待しているのだろう。
協定があるとはいえ、外部の免疫屋が参加しても十分に連携できるはずがない。せいぜい、土嚢運びや怪我人の搬送をやらせるのが適当なところだ。
そんな不安を抱えながらも、市長の背中を追いかけていく。
市長はそのまま早川門の階段を登りながら免疫屋たちに愛想をふりまいた。壁上の司令室までくると、そこには防疫官のオーバーコートを羽織った男と免疫屋の二人が話し込んでいた。
市長はその二人に駆け寄るなり、彼らの肩をバンっと叩いた。
「作戦会議かね。戦友たちよ」
「市長!」と防疫官は敬礼を切り、僕らに視線を移した。「お連れの二人は?」
「強力な助っ人だ。なんと、彼は東京のトップランカーだ」
「ほう」と免疫屋の男が驚いた。「もう一人は子どものようですが?」
「ああ見えて脳が黒い。トップランカーのパートナーだから、やり手だろう」
「それはそれは」
近くの机には地図が広げられている。作戦会議中だったのだろう。だとすれば、この免疫屋の男は門番のリーダーだろうか。
「ハヤカワ殿、どうだね」と市長も地図を覗き込んだ。
「さっき地図にまとめたところですが、かなり大規模です」と、免疫屋は地図を指差した。「特定できたのはグール型ばかりで68体です」
「一匹でも見つけたら」
「10匹はいるでしょうな。仮に680体もいるのなら、門の早期封鎖も検討すべきでしょう」
「尻尾を巻いて、壁にこもるかね?」
市長はそう言ってニヤリと笑うと、二人もそれに応じて笑った。
「まさか」と免疫屋は拳をポキポキとならした。「俺たちは国府津組のような芋引きじゃありませんぜ」
「遠くの農業プラントにいた市民のほとんどがまだ壁外です。彼らは救助を求めているはずです」
「どこだ?」
防疫官は地図の端を指し示した。
「各プラントの従業員はグール型に追われながらも第6プラントまで避難しているようです。約200名ほど、車で救援に向かうにせよ、回収するには人数が多すぎます」
「ふむ……、第6プラントまでなら線路が伸びているな」
「はい」
「汽車なら、200人でも回収できるだろう?」
市長のその提案に対して、防疫官はじっと地図を睨んだ。
「……不可能ではないかと。貨物コンテナにすし詰めにすれば」
「汽車の火入れは?」
「輸送から戻ってきた汽車を洗浄室に入れたばかりです」防疫官は壁に這わせた伝声管をつかむと、「汽車の火はまだ消すな!」と叫んだ。
「ならば、やる価値はある。汽車の速度ならばトロルの足を振り切って避難民のところへたどり着ける。後は、回収、回頭、離脱の時間を耐えきれば」
「おっしゃる通りかと」
「ハヤカワ殿」と市長は免疫屋に視線を移した。「どうだ? 免疫屋たちに犠牲が出るだろうが、やれるかね」
「もちろん」と黄色い歯をみせた。「このための早川組です。うちの若い衆たちも腕まくって待っている」
「よし、すぐに出るぞ。私も行く!」
そう号令した市長は、僕のほうに振り返るとその太い両手を僕の肩に叩き下ろした。
「我々ならやれさ。なぁ、バクバ君!」
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